小学校編・第6章「そして仲間は、再び集う」
* * *
市大会・初戦の翌日。
あれだけ熱のこもった試合の翌日だというのに、学校は思いのほか平常運転だった。
「え、勝ったの? すげーじゃん!」
クラスメイトが昼休みにそう言ってくる程度。もちろん、俺たちにとっては大ニュースだったが、野球部に興味のない子からすれば、ただの“ちょっとすごいこと”の一つでしかない。
でも、それでよかった。
注目されるために戦ったわけじゃない。
あのマウンドに立った意味は、俺自身が知っていれば、それでいい。
「たかしー、ちょっと! 放課後ミーティングあるって!」
昼休み明け、蓮が廊下から手を振る。
教室の扉を出ると、保科と篠田もすでに集まっていて、みんな少し顔が緩んでいた。
「……勝ったな」
「当たり前だろ? 俺たち、ファイターズだぞ」
「ぎりぎりだったくせに、よく言うわ」
保科と篠田が軽口を叩き合うのを聞いて、俺は思わず笑ってしまう。
昨日までとは、空気が少しだけ変わっている。
強くなったとか、すごくなったとか、そういうんじゃない。
──“俺たちは、まだやれる”。
そんな実感が、チームの中心に灯っていた。
* * *
放課後、部室。
監督がホワイトボードにマーカーで次の対戦相手の名前を書く。
「次は、“北浜ベアーズ”。ここもなかなかの難敵だ」
ホワイトボードには、過去のスコアや、エース投手の名前、主力打者の特徴がずらりと並べられている。
「ファイターズがベアーズに勝ったことって……去年あったっけ?」
「ない。2年連続で負けてる」
重たい空気が、部屋を包む。
だが、その中で、誰も下を向かなかった。
保科が口を開く。
「……だったら、今年は“勝った年”にすればいい」
その言葉に、自然と視線が集まった。
「俺たち、去年よりも間違いなく強くなってる。個々じゃない、チーム全体で。だから、必要なのは──準備と、信じることだ」
監督が小さく頷く。
「その通りだ。勝てるチームというのは、勝つ準備を怠らないチームだ。昨日の試合で、お前たちは“勝ち方”を覚えた。だが、次の試合はそれだけでは乗り越えられない」
静かに、マーカーを置きながら続ける。
「ベアーズには、“変わった”選手がいる。個性が強く、そして何より──試合の流れを変えてくるタイプだ」
「……流れを?」
俺の胸が、わずかにざわついた。
まさか──
監督が意味深な視線を俺に向けた気がした。
「お前が、変えられるか試してみろ。“風”を読むなら、嵐の気配にも備えておけ」
その言葉に、心が震えた。
(──風の先に、何がある?)
俺はまだ知らなかった。
この先、チームに待つ“もう一つの試練”と、
──新たな仲間との再会を。
* * *
その日の放課後練習は、普段よりも静かな始まりだった。
監督が示した“北浜ベアーズ”の名前と、彼らの主軸にいる「流れを変える選手」の存在が、じわじわとチームに影を落としていた。
「なあ保科……監督が言ってた“変わった選手”って、何なんだ?」
キャッチボールの合間、そっと尋ねると、保科は一瞬だけ口をつぐみ、それから視線を外して言った。
「……聞いた話だと、昔の有名選手の息子らしい。技術もあるし、メンタルも化け物みたいで……試合の空気を、自分のペースに引きずり込むんだって」
「空気ごと……か」
風の流れを読む俺にとって、それは無視できない情報だった。
相手が“風を巻き起こす”なら、こっちは“風を操る”しかない。
──そのとき。
「おーい! こっちに新入りが来てるぞー!」
グラウンドの端で、声が上がった。
俺と保科が顔を見合わせて、そちらを見ると──
一人の少年が、グラウンドの入り口に立っていた。
髪は短く刈られ、目元が鋭い。だけど、どこか緊張感をはらんだ雰囲気。
細身で背はやや高め。制服のズボンの裾が少し汚れていて、長い距離を歩いてきたようだった。
「……あれ、見たことある気がする」
保科が眉をひそめる。
すると、監督が静かに歩いて彼の前に立ち、ひとつ頷いた。
「今日から正式にチームに加わる。“帰ってきた”ってのが正しいかな。自己紹介しろ」
少年は前に出て、少し躊躇いながらも口を開いた。
「……小坂 隼人です。以前、少しだけここにいました。……よろしくお願いします」
その名前を聞いた瞬間──
ざわめきが起こった。
「え、あの隼人?」「やっぱ戻ってきたのか……」「なんでまた今?」
俺の耳にも、その名は微かに残っていた。
一年前。中学受験に向けてチームを離れた“元エース候補”。
俊足強肩で、打撃センスもあり、何より“感覚で動く”天才型。
監督は、一歩前に出て全員を見渡した。
「このメンバーで、次の試合に臨む。ポジションや起用については、明日伝える。それまでに、それぞれの“覚悟”を決めておけ」
* * *
練習が終わる頃。
夕暮れの赤い空の下で、一人黙々と素振りを続ける隼人の姿があった。
俺は、帰り支度をしながらふとその背中に目をやる。
風が通り過ぎた瞬間──
バットが、空を斬った。
軽く、無駄のない軌道。けれど、そこに宿る確かな“意志”。
(……やっぱり、只者じゃない)
俺は、自然と歩を向けていた。
「……隼人、だったよな?」
声をかけると、彼は一瞬驚いたようにこちらを向き、それから少し目を細めた。
「……ああ。たかし、だっけ?」
「覚えててくれたんだな」
「そりゃ。あのとき、内野ノックで全部さばいてたのお前だろ。忘れねーよ」
その口ぶりは、軽くて飄々としていた。
けれどその瞳の奥にあるのは、間違いなく──勝負の炎だった。
俺は、ふっと笑って言った。
「一緒に、勝とうぜ」
隼人も笑った。
「もちろん。今度は、最後までな」
* * *
翌朝。
グラウンドに全員が集められた。
監督はホワイトボードを持ち出し、黒マジックでポジションと打順を書き込んでいく。
「試合形式の紅白戦をやる。理由は単純。現時点での“最適”を見極めるためだ」
空気が、少し張り詰める。
その場にいる誰もが、それが“レギュラーの入れ替え”を意味していることに気づいていた。
「チームを二つに分ける。紅組のバッテリーは──たかし、保科。白組は──隼人と篠田」
一瞬、ざわめきが走った。
「隼人がピッチャー……?」
「キャッチャー篠田ってことは、保科が控えに回るのか……?」
俺はただ、まっすぐ前を見つめていた。
──試されている。
監督は、チームの可能性を計ろうとしている。
その中で、俺に与えられた役目は、“これまで通り”でいることじゃない。
新たな仲間と、新たな戦いに向けて、形を変える覚悟を試されているのだ。
* * *
紅白戦は、思った以上に静かな始まりだった。
隼人の投球は、豪速球でも変化球でもない。だが──
「……速く、見える」
保科が小声で呟く。
タイミングが取りにくい。リズムが独特で、フォームに無駄がない。
“気配を消して投げてくる”というのが、近いかもしれない。
一方、俺は《百発百中》でテンポを作り、《飛耳長目》で野手の動きを読み、《風林火山》で冷静に配球を組み立てていく。
序盤は互角。点も入らず、守備の拙さでお互いに走者を出す程度だった。
けれど、三回に入ったときだった。
──風が変わった。
隼人が、笑っていた。
誰かを馬鹿にしたような笑いじゃない。
ただ、野球そのものを楽しんでいる笑みだった。
(こいつ……ようやくエンジンがかかってきた)
それは同時に、“戦うための顔”でもあった。
打者が振らされる。
変化球じゃないのに、芯を外す。
投げるタイミング、重心、無駄のなさ──すべてが整っている。
「やっぱ、隼人は……すげえな」
保科が、ぽつりとつぶやいた。
ただ、その声に悔しさはなかった。
たしかに隼人はすごい。
でも、だからこそ──勝ちたかった。
* * *
紅白戦終了後。
チームの全員が疲労困憊の表情でベンチに腰を下ろしていた。
スコアは、4対2で白組の勝ち。
つまり──隼人のチームが勝った。
監督は静かに言った。
「正式なポジションは、明日発表する。ただ、今日の内容はすべて記録してある。全員、自分のプレーを見直せ」
そのまま、解散。
俺はベンチに残り、水筒の水を飲みながら空を見上げた。
風が、やわらかく吹いていた。
(強くなるって、簡単じゃない)
昨日まで信じていた“自分たちの形”が、揺らぎ始める。
でも、それでいい。
揺れて、崩れて、その先に“本当のチーム”が生まれるなら。
──俺は、それを受け止める。
勝つために。
みんなで、“前に進む”ために。
* * *
翌日。
朝のグラウンドに、監督の声が響いた。
「今日からのポジションを発表する」
その言葉に、全員の背筋が伸びる。
ホワイトボードに書かれた名前の横に、それぞれの守備位置と打順が記されていく。
「ピッチャー:たかし。キャッチャー:保科。セカンド:篠田……」
一人ずつ読み上げられていく中、みんなが呼吸をひそめていた。
そして──
「ライト:小坂隼人」
一瞬、空気が止まった。
──隼人が、ピッチャーじゃない?
ざわめく仲間たちをよそに、監督は淡々と続ける。
「今回の判断は、チームの“総合力”を考慮した上でのものだ。個の力ではない。全体で最も強くなる配置を選んだ」
誰も反論できなかった。
隼人本人さえも。
彼は少しだけ目を細めて、それからあっさりと頷いた。
「わかった。任せて」
むしろ拍子抜けするほど、あっさりと。
その潔さに、逆に何かを試されている気がした。
* * *
午後の練習。
いつものメニューに、チームプレーの確認が加わる。
送球の連携、バント処理、カバーリング。細かな“穴”を潰していく練習が続く。
そんな中、俺はふと、隼人と外野の間で交わされる“わずかな合図”に気づいた。
──目線。指先。体の傾き。
それらが、まるで“会話”のように成り立っている。
(……あれは、感覚じゃない)
偶然じゃない。
“読んで”、先回りしている。
試合の流れを作るのは、バッテリーだけじゃない。
隼人は今、外野という位置で、チーム全体を観て動こうとしていた。
──そのとき。
ふと、風が頬を撫でた。
言葉が、浮かぶ。
(……これは)
頭の奥で、何かが形になろうとしている。
これまでのような“攻撃”や“集中”の言霊ではない。
もっと、“全体”を捉え、“調和”するための言葉。
──《和魂静流》
“静かな流れの中で、和をもって動く力”。
それは、おそらく“つなぐ”ためのスキルだ。
俺だけが光るんじゃない。全員が光るように、力を巡らせるためのもの。
次の練習が始まる。
俺は、無意識に足元を整えながら、心を定めた。
(この言霊……たぶん、次の試合で必要になる)
風はまた、静かに流れていた。
* * *
北浜ベアーズ戦、試合当日。
スタンドには見慣れない応援団と、同じ地区のライバルチームらしき少年たちの姿もあった。
それだけ、この試合に注目が集まっているということだ。
「チームとしての完成度は、こっちの方が上だ」
保科が低い声で呟いた。俺は頷く。
緊張もある。だが、それ以上に、今のファイターズには“信頼”がある。
ポジションは昨日と同じ。
俺がマウンド。保科がキャッチャー。隼人はライト。
試合前のシートノックで、隼人が一球だけ、大きく遠投した。
その球は、放物線を描いてベース上にピタリと届いた。
「……あれ、見せ球だな」
保科がぼそっと言う。
俺も思った。
あれは、見せておくべき“武器”。
相手の頭に「外野に打っても安心できない」と印象づけるための、一撃だった。
* * *
試合は、緊迫した展開だった。
ベアーズは打力に優れ、どの打者も確実に球を捉えてくる。
だが、俺たちは一つひとつの守備と連携で応戦した。
ノーアウト一塁からの送りバント──篠田が素早く処理し、セカンドでアウトを取る。
その次の打者が外野へ抜けそうな当たりを放つが、隼人がライナーキャッチからの一塁送球で併殺を成立させた。
「おおおおっ!!」
スタンドが沸く。
ベンチでも皆が立ち上がって、手を打ち鳴らしていた。
* * *
四回表、1点ビハインドの場面。
ツーアウト一塁。
打席に立つのは──俺。
「この回で、流れを取り返す」
保科がベンチから声をかけてくる。
心は、静かだった。
風の音が、背中を押す。
(──今だ)
スキルが、発動する。
──《和魂静流》
打席に立ちながら、チーム全体の動きが見える。
ベンチで手を握りしめている蓮。
守備位置に立つベアーズのセカンドが、わずかに前に寄っている。
走者・篠田の足が、ベース上で小さく弾んでいる。
──今、繋ぐべきなのは“長打”ではない。
次のバッター、佐野へ託すこと。
バットを握り、タイミングを外されたように見せかけ──
コツン、と転がす。
完璧なセーフティバント。
守備がわずかに遅れ、セーフ。
ノーアウト一、二塁。
ベンチが沸く。
そのまま佐野がタイムリーを放ち、逆転。
ベンチは歓声と、何かに気づいたような静寂に包まれる。
(これが──“つなぐ”力)
■新スキル追加
《和魂静流》
→ チーム全体の動きを“流れ”として捉え、自らの行動を最適化する支援型言霊。
戦局の中で「今、すべきこと」を瞬時に選び抜き、仲間の力を最大限に引き出す。
プレイ内容は地味に見えるが、試合全体に大きな流れを与える。
その後のイニング、守備でも言霊の効果は続いた。
声かけ、位置取り、牽制──すべてが噛み合い、相手は次第にペースを崩していく。
そして、六回裏。最後の守備。
最後の打者の打球がショートに転がる。
蓮がしっかりとさばき、ファーストへ送球──
「アウトォーーー!!」
試合終了。
ファイターズ、3対2。逆転勝利。
歓声の中、隼人が俺の背中を軽く叩いて言った。
「お前……前より、ずっとやりにくくなってんな」
「そっちこそ、だろ」
そう言って、二人で笑った。
この日、俺たちは初めて“本当の意味で”チームになったのかもしれない。
勝利という結果の裏にある、もう一つの答え。
──仲間を信じ、託し、支え合うこと。
風が、やわらかく吹いた。
次の試合も、そのまた先も、この風と共に進んでいける気がした。