小学校編・第5章「試されるチーム、始まる戦い」
* * *
夏の合宿が終わって数日後。
日焼けした肌がまだヒリつくほどの陽射しの中で、俺たちは新学期を迎えた。
季節はまだ残暑の名残を残しているが、どこか空の色は秋の気配をまとい始めていた。
教室の空気も、ほんの少しだけ変わっていた。
「たかし、ノート貸してー。っていうか、宿題ちゃんとやってんの?」
「やってたよ、ほら」
「まじめかよ~。あ、こないだの試合見たよ。なんか野球部のやつら盛り上がってた!」
いつのまにか、“転校生”から“クラスメイト”になっていたことを実感する。
それは、少しだけくすぐったくて──でも、悪くなかった。
* * *
放課後。
ファイターズの部室では、監督がホワイトボードの前でペンを走らせていた。
「よし、発表する。秋の市大会、初戦の対戦相手は──“西稜ウィンズ”だ」
ざわつく空気。
「ウィンズ……去年ベスト4までいったチームじゃなかったっけ?」
「ピッチャーがすごい球投げるんだよな、たしか」
そう。西稜ウィンズは、去年の大会でも注目された強豪チーム。
投手の佐伯という選手は、フォームの安定感と低めの制球がずば抜けていて、打者泣かせの“淡々とした”投球をする。
保科がぽつりとつぶやいた。
「……あの投手、ただのコントロール型じゃない。リズムで打者を崩す、厄介なタイプ」
それを聞いて、篠田が不満げに言う。
「つまり、地味ってことか?」
「違う。地味なんじゃなくて、“ずっと目立たないまま打ち取ってくる”ってこと」
俺はその言葉を聞きながら、じっと監督の話を聞いていた。
「で、ファイターズのスタメンも仮決定だ。ピッチャーは──桐原たかし。キャッチャーは保科。ファーストが……」
名前が呼ばれていく中で、胸の奥が熱くなっていた。
──俺は、ここで投げる。
合宿の紅白戦は通過点にすぎない。ここからが“本当の試合”だ。
* * *
初戦まで、あと一週間。
俺たちは、毎日放課後に練習を重ねた。
バッティング、守備、そして何よりも──試合を“読む力”。
保科とは、放課後にグラウンドのベンチでよく会話をした。
「たかし。試合中、相手ベンチを見るクセあるよな?」
「……無意識だけど、最近、なんとなく気になるんだ」
「ふーん……やっぱりな。たかし、もしかして“空気の流れ”みたいなもの感じてるだろ?」
一瞬、心がざわついた。
言霊《飛耳長目》──まだ自覚は浅いが、確かに“情報”が流れ込んでくる感覚がある。
ベンチのざわつき、監督の表情、内野手の重心の傾き、声のトーン。
それらが繋がると、“次の展開”が自然と浮かび上がるようになってきていた。
でも、それを誰かに説明することはできない。
「いや……ただの勘、かもな」
「そっか。じゃあ、その“勘”は信じていいと思う。俺は、お前の投げる球を信じるから」
保科はそれだけ言って、黙ってメモ帳を取り出して自分の配球ノートを更新しはじめた。
(俺も……この力を、自分の言葉で信じたい)
思えば、俺が言霊を授かったときからずっと、“信じられるもの”を探していた気がする。
もう迷わない。次の試合では、この力を恐れず──必要なときには使う。
それが、俺のやるべきことだ。
* * *
試合当日。
朝。薄く雲のかかった空の下、ユニフォームの胸元に手を当てる。
背番号1の文字が、じんわりと指に馴染む。
「さあ、行こうか」
保科が肩を叩く。
俺はうなずいて、仲間たちの輪の中へと走り出した。
──市大会、初戦。
俺たちファイターズの“本当の戦い”が、いま始まる。
* * *
「プレイボール!」
審判の声がグラウンドに響き、試合が始まった。
俺は初回の守備、マウンドの中心で深呼吸をひとつ。
──少しも緊張していなかった。
いや、正確に言えば、緊張を“意識に変換できている”状態だった。
(落ち着いている。視野が広がってる)
風の流れ。相手ベンチの動き。スタンドのどよめき。
目に映る情報すべてが、ゆっくりと脳内に流れ込んでくる。
これが──《飛耳長目》の感覚だ。
今の相手バッターは、初球から振ってくるタイプじゃない。後ろのコーチャーがやたら指示を出しているところを見るに、たぶん“球数を投げさせろ”という指示が出ている。
俺は保科の構えるミットを見ながら、ゆっくりと息を整えた。
──外角、真っ直ぐ。
投げた。
ズバンッ!
「ストライク!」
よし。相手は見送った。
二球目も同じようにコースを突いてストライク。三球目、少しボール気味に外して揺さぶると、打者は力なく三振に倒れた。
「ナイスボール!」
保科の声が背中から飛んでくる。俺は軽くグラブを掲げて応えた。
試合のリズムが、明らかにこっちに傾いている。
《百発百中》で狙ったコースを突き、《飛耳長目》で相手の“流れ”を読む。
……これは、いける。
* * *
一方、ウィンズのエース・佐伯の投球は、想像以上だった。
速いわけじゃない。だけど──球にまったく無駄がない。
外角に、低めに、丁寧に、淡々と。
まるで機械のように、同じ球を投げ続ける。
その「変わらなさ」が、打者にプレッシャーをかけていた。
「……これ、ヤバいな。タイミングが全然合わない……」
先に打席に入ったメンバーが、ベンチで汗をぬぐいながらぼやいていた。
スコアボードには、両チーム無得点のまま、2回を終えた数字が並ぶ。
均衡が続く。
だが、俺にはもう一つ、気がかりなことがあった。
(ウィンズの三番……佐伯に並ぶ“キーマン”がいる)
初回の守備を終えたときから、何度かチラチラとこちらを見てくる。
目が合うと、すっと逸らされる。
けれど──その目に、何か引っかかるものを感じていた。
(……読み合いを仕掛けてくる)
直感だった。でも、《飛耳長目》は、その“違和感”を強調していた。
──この選手は、普通じゃない。
次のイニング、いよいよそいつと対峙することになる。
体の内側に、わずかな緊張が走る。
けれど、それは怖さじゃない。
“面白くなってきた”という、試合の熱が体を温めるような感覚だった。
* * *
3回表。ウィンズの攻撃。
先頭バッターを内野ゴロで打ち取り、ひとつアウトを取ったあと、ついに──
「バッター、三番! センター、城山くん!」
場内アナウンスと共に、その選手がバッターボックスに立った。
背は高くないが、スパイクの踏み込みに迷いがなく、バットの持ち方が様になっている。
構えのどこにも“小学生っぽさ”がない。
(やっぱり……こいつ、只者じゃない)
マウンドから見つめるその目は、冷静に、そして明確にこちらを“測っている”。
(──なら、測られる前に、こちらが仕掛ける)
心に、言葉を浮かべた。
──《臥薪嘗胆》
夏の紅白戦。篠田との対決。
あのときの悔しさは、まだ胸に残っていた。
このバッターに、絶対に打たせない。
それが、今の俺の意地だった。
* * *
城山は、一球目から動いた。
──バットは振らない。
ただ、その構えと間合いで“こちらを見ている”ことを明確に伝えてきた。
保科は外角低めを指示。
首を縦に振り、俺はしなやかに投げ込む。
──ズバンッ!
「ストライク!」
初球から、完璧なコース。
けれど城山の表情は崩れなかった。むしろ、その目がわずかに細まり──
(……気づかれたか?)
こちらの配球の意図、コースへの自信、それらすべてを彼は“察している”ようだった。
二球目、今度は少し外す。高めの釣り球。
城山は動かない。
──カウント、1-1。
(こいつ……読み合いを楽しんでる)
そのとき、ふと風の流れが変わったような感覚があった。
目の奥がざわつく。背中にひやりとした汗が伝う。
──《飛耳長目》、発動。
ベンチのささやき、内野手の重心、そして何より──城山の右足のわずかな動き。
(次、打ってくる)
タイミングを合わせにきている。打ちにくる“構え”だ。
俺は保科のサインに、初めて首を振った。
驚いたように保科が一度見返してくる。もう一度サインを出す──インハイ、速球。
頷いた。
振りかぶる。ここで勝負だ。
──投げた。
球が手を離れた瞬間、城山の目が細くなった。予測されている。それでもいい。これは勝負。
──カキィン!!
鋭い金属音。ボールはレフト方向へ大きな弧を描いて飛んでいく。
「レフトーー!」
打球が頭上を越える。
だが──
「取ったぁぁぁ!!」
レフトの佐野がギリギリで追いついた。フェンスぎりぎりのジャンピングキャッチ。
「ナイスーーッ!」
ベンチから歓声が上がり、俺は思わず大きく息をついた。
(……危なかった)
城山は静かにバットを置き、淡々とベンチに戻っていく。
でも──その後ろ姿には、悔しさはなかった。
(また来るな、あいつ)
“もう一度相まみえる”ことを確信させる、そんな背中だった。
* * *
その裏。ファイターズの攻撃は、再び佐伯の前に封じられた。
ただの直球、ただのコース。なのに、なぜか手が出ない。
監督が静かに呟いた。
「……たかしの投球が“攻める静けさ”なら、佐伯の投球は“削る静けさ”だな」
気づけば試合は四回に突入。
両チームともスコアはゼロのまま。
──だが、その均衡はわずかに傾き始めていた。
五回表。ウィンズの攻撃。
一死から、セカンドゴロ──のはずが、グラブがわずかに弾く。エラー。
「っ、すまん!」
セカンドの木島が叫ぶ。
「気にすんな! 切り替えよう!」
蓮が声を飛ばすが、表情は固い。
続くバッター。送りバント。
完璧に決まり、ランナーは二塁へ。
──二死二塁。
次の打者は、ウィンズの五番。決して目立たないが、確実にバットに当ててくる粘りのタイプ。
保科がミットを構えた。
(ここで点を与えれば、流れは完全に相手へ傾く)
俺は、心に言葉を浮かべる。
──《一球入魂》
この一球で仕留める。
狙いすましたストレート。外角低め、ギリギリを突く。
──ズバン!!
「ストライク、スリー!」
「アウトー!!」
三振。
保科が立ち上がり、俺の胸を軽く叩いた。
「ナイス。今のは完璧だった」
俺は、頷くだけで返した。
でも──心の中では、もう一つの感覚が育ち始めていた。
(“見る”だけじゃ、限界が来る)
どこかで、“一歩先の言葉”をつかまなきゃならない。
試合は最終回へ。
あと一回で決着がつく。
そのとき、俺の中にふと浮かびかける、別の言葉──
(……なんだ? この感じ……)
まだ、名前はわからない。
でも、確かにそこに“新しい言霊”の気配があった。
* * *
六回表。最終回。
ウィンズのエース・佐伯は、相変わらず静かに、淡々と、そして正確に投げ続けていた。
「……こっちのリズム、全部読まれてる感じだな」
篠田が小さくぼやく。
俺たちの打者は、球速でも球威でもない、“投球の間”に苦しめられていた。微妙に変わる間の取り方と、ストライクゾーンぎりぎりを突くコントロール。
(ずっと、同じ調子で押し通されてる)
だから、タイミングを合わせることも、考える余地を与えられることもない。
……このまま、延長に入るのか?
そんな空気が漂い始めたとき、打席に立ったのは──蓮だった。
「……打つよ。絶対に」
打席へ向かう背中が、はっきりと“覚悟”を背負っていた。
初球、外角。見送ってストライク。
続く二球目、やや甘めに入った内角寄りの球。
──バットが、しなった。
カンッ!
低く鋭い打球が、センター前へ抜けていく。
「ナイスバッティング!」
ベンチが沸いた。蓮はベース上で、ほんの少しだけ、拳を握ったまま動かなかった。
……怖さを、超えてきた。
責任感を、押し返して、自分の意志で立っていた。
その姿に、自然と背筋が伸びた。
(俺たちは、まだ“負けてない”)
続く篠田が粘ってフォアボール。ノーアウト一、二塁。
ここで──俺の打順が回ってきた。
* * *
バッターボックスに入った瞬間、佐伯の目が静かにこちらを見ていた。
感情のない瞳。だが、その奥には確かに、“勝ちたい”という意志が宿っている。
(今までで、いちばん強い気配だ)
保科が言っていた通り。佐伯は“削るように”試合を進めてきた。その静かな投球は、対戦相手を気づかないうちに追い詰めていく。
でも──
今の俺には、《百発百中》の精度も、《一球入魂》の集中力も、《臥薪嘗胆》の執念も、《飛耳長目》の視野もある。
それでも足りないとしたら。
今この瞬間を“切り開く力”が欲しい。
──すると、胸の奥で何かが灯った。
風が、吹いたような気がした。
(……来た)
言葉が浮かぶ。まだ曖昧だけれど、確かにそこにある。
“越えなきゃいけない壁”があるときにこそ、現れる言霊。
──《風林火山》
“風のように速く、林のように静かに、火のように猛り、山のように動かず”。
迷いが晴れ、思考が加速する。
佐伯のフォーム、リリース、わずかな前傾のズレ。
それらすべてが、網のように繋がって見えた。
(……この球だ)
読み切った。
そして、振り抜いた。
──カキィィン!!
打球はセカンドの右を抜けて、ライト前へ。
ランナーが三塁を蹴る。センターがカバーに回るが──
「ホーム、突っ込めぇ!」
ベンチの声に押され、蓮が全力でホームイン。
──判定は、
「セーフ!」
先制点!
スコアボードに、ついに“1”の数字が刻まれた。
ベンチが総立ちになる。
その輪の中で、俺は静かに拳を握った。
(これが──新しい言霊の力)
風のように先を読み、火のように攻め、林のように冷静に、そして山のように揺るがず振り抜く。
* * *
六回裏──ウィンズ最後の攻撃。
スコアは1対0。わずか一点のリード。
俺は、汗ばんだ掌をそっとユニフォームで拭い、再びマウンドに立った。
「ラスト一本、頼むぞ、たかし!」
ベンチから、篠田と蓮の声が飛んでくる。
キャッチャーの保科が、構えたミット越しに目で合図する。
「……いこう」
頷いた。迷いはない。
──ここで抑えれば、俺たちの勝ちだ。
* * *
先頭打者は七番。小柄で俊足の左打者。
こちらが焦れば、簡単に出塁される相手だ。
──《百発百中》
ゾーンぎりぎりを突くストレート。
初球、見逃し。ストライク。
二球目。バントの構えを見せるが、直前で引っ込めて見逃す。
ストライク、カウント0-2。
三球目。内角低めへ、魂を込めて投げ込む。
──《一球入魂》
ズバン!
「ストライク、スリー! 三振!」
一死。ベンチが湧く。
続く八番。粘り強く食らいついてきたが、四球で出塁。
(くっ……)
一点差の最終回、ランナーが出ると空気が揺らぐ。
ベンチから「大丈夫!」「次、取っていこう!」と声が飛ぶ。
そして──
「バッター、三番。センター、城山くん!」
ついに来た。
俺が、この試合で唯一“打たれかけた”打者。
佐野のジャンピングキャッチがなければ、間違いなく長打になっていたあの打球。
(今度こそ、打たせない)
グラウンドの音が、すべて遠のいたように感じる。
風が吹く。音が戻る。視界が澄む。
──《風林火山》、発動。
感覚が一段階、研ぎ澄まされる。
静──構えの揺れ。足の位置。バットの角度。
動──リードのわずかな距離。指のかすかな緊張。
火──こちらの意志。真っ直ぐ、勝負するという心。
山──揺るがぬ覚悟。ぶれない投球。
保科が静かに構える。
初球──インロー。
振りかぶって、投げた。
──ズバン!
「ストライク!」
城山のバットは動かない。目が鋭くなった。
二球目──外角。読まれている。
首を振る。もう一度。保科がわずかに頷く。
選んだのは、真ん中低め。読みを外した、勝負球。
(届かせない)
踏み込む。腕が自然にしなる。
投げた──!
──カキィン!
またしても、レフト方向。だが、今度は打球が少し詰まった。
「レフトーっ!!」
佐野が下がり、背走しながら──構える。
──バシィッ!
グラブがボールを吸い込んだ。
「取ったあああああっ!!」
ランナーは戻るしかない。二死。
そして、最後の打者。四番・佐伯。
エースであり、主将。
……俺は、最後の最後に、この男と“真正面から”向き合うことになった。
* * *
初球──ストライク。
二球目──ボール。
カウント1-1。
保科がサインを出す。インコース、高め。打たれるリスクもある、でも、勝負の球。
──《一球入魂》
魂を込める。
投げた。
──ズバン!!!
バットが止まる。
「ストライク、ツー!」
次が、最後の球になるかもしれない。
保科が構えを低めに変える。わずかに外へ逃げる球。
佐伯の目が、微かに動いた。
……誘いに乗ってきている。
──投げた。
──スイング!
──カシュッ。
わずかに芯を外れた打球は、ショート正面。
蓮が一歩前に出て、確実にグラブへ──
送球!
「アウトォーー!!」
試合終了!
ファイターズ、1対0。勝利。
……勝った。
* * *
試合後、整列を終えてグラウンドを引き上げる。
保科が俺の背中をぽんと叩いた。
「やったな」
「うん……」
言葉が出ない。
でも、それでよかった。
蓮、篠田、佐野──そして保科。
チーム全員が、この勝利に貢献していた。
グラウンドの風が、心地よかった。
新しいスキル、《風林火山》。
それは“戦い方”だけじゃなく、“仲間と戦う意味”を教えてくれた言霊だった。
──俺たちの、夢はまだ始まったばかりだ。
■新スキル追加
《風林火山》
→ 状況判断力・集中力・攻撃と守備のバランス感覚を統合的に高める複合言霊。
試合の“流れ”を読み、瞬時に「静」「動」の切り替えができるようになる。
発動中は、思考が加速し、迷いなく決断できる。