小学校編・第4章「それぞれの覚悟と、試される絆」
* * *
三泊四日の夏合宿。初日の厳しい練習を乗り越えた俺たちは、わずかな疲労と、わずかな期待を抱えながら、二日目の朝を迎えた。
「……おはようございます……」
まだ薄暗い時間帯。早朝六時前。
誰よりも早く目覚めて、ひとり外に出た。湿った空気が肌にまとわりつく。山間の冷え込みと、これから昇る太陽の熱気が交錯する独特の空気。
グラウンドのすみっこに立って、俺は静かにキャッチボール用のボールを握った。
(体、重くはない。むしろ……落ち着いてる)
昨日の全体練習、個別指導を通して、少しずつ手応えが掴めてきていた。
《百発百中》でコースを突く力、《一球入魂》で球に魂を込める集中力。
そして、《臥薪嘗胆》。
悔しさを燃やし続けることで、周囲の動きや相手の癖が自然と見えてくる。
……その力は確かに便利だ。でも、それ以上に、俺はこの“言葉たち”を、自分の支えとして信じ始めていた。
(俺は、俺のやり方で戦えるようになってきた)
小学生としてはズルいのかもしれない。でも、それでも……。
「……おお、たかし、早いな」
聞き慣れた声が背中からかかった。
振り返ると、汗で前髪を濡らした篠田が、麦茶のペットボトルを片手に立っていた。
「なにやってんだよ。……いや、聞くまでもないな。投げに来たんだろ?」
「まあ……クセになっちゃってるかも」
「ったく。すげーな、お前」
照れ臭くて、笑ってごまかす。
篠田はそのまま自分もストレッチを始めた。
「……俺さ。ずっと思ってたんだ」
「なにを?」
「たかし、お前みたいなやつがチームに入ってくると、俺、レギュラー危ないかなって思ってた」
それは、不意打ちのような言葉だった。
「でもさ」と、彼は続けた。
「お前が入って、練習キツくなったけど、チームの空気も変わってさ。……気づいたら、俺も、ちょっとはマジでやってみたくなってた」
「篠田……」
「だからな。今日の練習試合、ぜってー打ってやるから。お前の球を」
不敵に笑って、親指を立てる。まるで挑戦状だ。
俺は、自然と笑っていた。
「じゃあ……本気で投げるよ」
「よし、望むところだ」
* * *
その日のメインイベントは、合宿の締めくくりとなる“紅白戦”だった。
レギュラー候補を白組、控え&見習い組を赤組に分けて、フルイニングで試合を行う。監督の意図は明白だった。
──実力で、ポジションを奪え。
俺は、白組の先発を任された。
キャッチャーは保科。蓮と篠田も白組に入り、チームの中核を担う形になった。
緊張は、あまりなかった。
マウンドに立つと、風がすっと通り抜ける。陽射しは強いが、視界は澄んでいた。
「たかし、今日はどう投げる?」
保科がミット越しに尋ねてきた。
「……自分の球で、勝ちたい」
それは、過去にすがらず、未来へと進むための言葉だった。
立った場所、見上げる空、踏みしめる土。全部が、俺にとって“新しい景色”だ。
「じゃあ、構えるよ」
保科が構えた。初球は、外角低め──。
息を吸い、球を握る。
──《百発百中》
腕を振る。体が自然としなり、狙った場所へ、ボールが伸びる。
ズバンッ!
乾いた音がネットに響き渡る。
──さあ、俺たちの本当の勝負が始まる。
* * *
──紅白戦、プレイボール。
俺は白組の先発投手として、マウンドに立っていた。初回の攻撃で白組は無得点に終わり、さっそく守備に入る。
相手の赤組には、ここまでレギュラーに手が届いていないメンバーが多い。けれど、合宿での成長は侮れなかった。
(手を抜くわけにはいかない)
保科が外角低めを指示する。俺は首を縦に振り、力を込める。
──《百発百中》
ボールが真っ直ぐ保科のミットへと吸い込まれていく。
ズバンッ!
「ストライク!」
一球でペースを掴める。この感覚──久しぶりだった。
二球目、三球目も、丁寧にコースを突いて打たせて取る。変化球は使えない。だからこそ、制球と“間”の勝負だ。
三人を打ち取り、初回は三者凡退。
ベンチに戻ると、保科がぽん、と俺の肩を軽く叩いた。
「上出来。落ち着いてたね」
「……まあ、初回だしな」
「で、次の回に来るよ。アイツが」
保科がちらりと視線を向ける。相手ベンチでストレッチしている、ひときわ大柄な選手──
篠田 航。
ファイターズの四番バッター。パワーと勢いのある、典型的な“自信家”タイプ。
けれど俺は、彼のことをただの“強打者”だとは思っていなかった。
(あいつは……覚悟を決めて、今ここにいる)
だからこそ、俺も真正面からぶつかる必要があった。
* * *
試合は二回表、白組の攻撃で一点を先制。
その裏、マウンドに戻った俺は、やがて三番バッターを内野ゴロで打ち取り、いよいよ──四番、篠田との対決を迎えた。
「おう、たかし」
打席に入る前、篠田はヘルメット越しに軽く笑った。
「この一打席、俺の全力。受け取れよ」
「……いいよ。俺も全力で投げるから」
言葉を交わすと、互いに表情が消える。遊びではない。本気の、勝負。
保科は初球、インコースの高めを指示した。
迷わずうなずく。
振りかぶり──投げた。
──ズバン!
ミットを鳴らす音が響いたが、篠田のバットは振り抜かれていなかった。
「ストライク!」
(読まれてる……?)
一球ではわからない。けれど、あの目つきは──油断していない。
二球目。今度は外角低め、ぎりぎりのコース。
──《百発百中》
視界が澄む。体が自然とリズムを刻む。
投げる。
──しかし。
カンッ!
軽い金属音が鳴る。ボールはショートの頭上を抜け、センター前へ。
「ヒット!」
篠田が一塁を駆け抜け、ドヤ顔で帽子を押さえながらベンチに向かって手を挙げた。
俺は──正直、悔しかった。
けれど、その感情はすぐに燃料に変わっていった。
(……これだ)
この“悔しさ”が、俺を研ぎ澄ます。
──《臥薪嘗胆》
心の奥にある火が、また少し大きくなった気がした。
次こそ、打たせない。
そう決めて、俺は次の打者に向き直った。
* * *
篠田のヒットは、赤組ベンチに勢いを与えた。
続く五番バッターがしぶとく粘り、ファウルを繰り返す。その背中には、合宿中に何度もノックでへとへとになっていた姿が重なった。
(……どの選手も、ここに来るまで練習してきたんだ)
たとえ“控え”の立場でも、試合に懸ける思いは変わらない。俺はその打席に、少しだけ嫉妬していた。
──今しかない、という覚悟。
見送られれば四球。甘く投げれば長打。
(気を抜けばやられる)
保科が小さくサインを出す。コースは外角高め、意図は“高低差による目線のずらし”。
俺は深く呼吸を整え、わずかに打者の足元に注目した。
(重心が前に出ている……低めは警戒してる)
ほんの数センチの足の角度から、その意識を読み取った。
投げた。狙い通りのコース──ボールは捕手のミットへ。
「ストライク! 三振!」
試合開始以来、初めての三振を奪った。
保科が小さく頷く。俺も無言で応える。
篠田は塁上でポケットに手を入れたまま、「ちっ」と小さく舌打ちをしていたが、悔しそうというより、どこか楽しげな表情だった。
──緊張と解放の連続。
紅白戦は、どこか公式戦以上の“熱”があった。
* * *
二回が終わる頃、両チームの空気には微妙な差が生まれ始めていた。
白組──つまりレギュラー候補組は、試合中にもかかわらずミスが目立つ。
「ちょっと! 送球それすぎ!」
「なんで今、カットしないんだよ!」
蓮が厳しい声を飛ばすと、内野手の一人が露骨に不機嫌な顔をする。
……焦りだ。
“勝たなければレギュラーから外される”。そんな空気が、チームを重くしていた。
一方で、赤組──これまで控えだったメンバーは、むしろリラックスしていた。
「いいぞいいぞ、次、当てていこう!」
「打てなくてもいいから、しっかり見てけー!」
守備の声も通っていて、連携もスムーズ。
(これが……立場の違いか)
白組には「失敗できない」プレッシャーが、赤組には「挑戦できる」自由がある。
ベンチに戻ると、保科がぼそりと呟いた。
「うちは、チームとして今、少し崩れかけてるね」
「……俺の投球も、完璧じゃない」
「いや。逆だ。たかしがちゃんと抑えてるから、余計に“自分のミスが浮く”んだよ」
保科の分析は冷静だった。
そして、それはつまり──
(俺が、チームを引っ張る必要があるってことか)
まだ小学生。でも、この立場になったからには、背負うべきものがある。
俺は静かに、バットとグローブを持って立ち上がった。
「次の攻撃……まず、俺が出塁する」
保科が目を細めて笑った。
「頼んだよ、“エース”」
* * *
三回表、俺は打席に立った。
バッターボックスに立つのは、転生してからはこれが初めてだったかもしれない。
(バット……軽いな)
高校の金属バットとは全然違う。グリップも細く、球の重さをダイレクトに受ける。
でも、俺には見えていた。
──ピッチャーの投げる動作。腕の振り。指の離れ方。重心のタイミング。
……ここで発動すべきか?
いや、まだだ。
《臥薪嘗胆》だけで、いける。
相手の一球目、外角高めの速球。
スイング──カンッ!
快音。ボールはライト線へと転がり、俺は迷わず一塁へ駆け抜けた。
「ナイスバッティング!」
ベンチから歓声が飛ぶ。思わず笑ってしまう。
俺は──間違いなく、今、“野球をしている”。
* * *
出塁の喜びもつかの間。すぐに後続がフライアウトと三振で倒れ、二死一塁となった。
けれど、次のバッターは──蓮だった。
俺たちを最初に繋いでくれた存在。いつも明るく、時に叱ってくれる。頼れるキャプテン。
……でも、このときの蓮の顔には、いつもの笑顔がなかった。
「いけるぞ、蓮ー!」
ベンチの声に軽く帽子を挙げると、黙ってバッターボックスに立つ。
俺は一塁でリードを取りながら、その背中を見つめた。
──何かを、背負っている。
蓮の目には、強すぎるほどの“責任感”が宿っていた。
「失敗できない」という恐怖。それが足枷になっているのが、はっきりと分かった。
(キャプテンも、苦しんでるんだ)
それは、俺たち“新入り”にはわからない重さ。仲間を率いる者だけが感じる、見えない重圧。
投手の第一球は、内角寄りのボール気味の速球。
蓮は……振らなかった。
いや──振れなかった。
「ストライク!」
審判代わりの監督の声が響いた。
「……マジかよ、あれストライクか」
蓮が小さくぼやいた声が聞こえる。歯を食いしばるような声。
二球目、今度は外角へ。迷いながらも、なんとかバットに当てたが、打球は弱々しく一塁ゴロに。
「アウトー!」
俺も、スタートを切ってはいたが戻るしかなかった。
──チェンジ。
ベンチに戻った蓮の背中が、やけに小さく見えた。
* * *
その後、赤組に同点を許し、試合は3回裏の守備へ。
この回を抑えられるかどうかで、流れが大きく変わる。
俺はマウンドに立ちながら、チラリとセカンドを守る蓮の方を見た。
……膝に手をついて、少し肩が沈んでいる。
そのとき、保科がタイムを取り、俺のもとへやってきた。
「たかし、ひとつ頼みがある」
「……なに?」
「この回の最初のバッター、初球からいこう。強めで」
「……了解」
保科の意図はすぐに察した。
ここで勢いを取り戻し、全体の空気を変える。流れを作るための“衝撃”が必要なんだ。
──なら、俺にできることは一つ。
心の中で、強く言葉を唱える。
《一球入魂》
この一球に、魂を込める。
踏み込む足に力がこもる。指先に血が通うのを感じる。
投げた──!
ズバンッ!!
空気を切り裂く音と、ミットの衝撃音がグラウンドに響く。
「ストライク!」
ベンチ、そしてフィールド全体が、ほんの一瞬静まり──次に、どよめきが起きた。
「うわっ……今のすげえ!」
「たかし、ギア上げたな!」
蓮が、気づいたように顔を上げた。
目が合う。俺はなにも言わず、軽く顎でうなずいた。
……言葉なんて、いらなかった。
* * *
この回を三者凡退に抑え、チームの空気は明らかに変わった。
蓮は次の守備で大きな声を出し、誰よりも早く球に飛びついた。
「ナイスカバー!」「キャプテン、戻ってきたな!」
……やっと、“俺たちのチーム”が動き出した。
ベンチに戻ると、蓮が少し照れたように言った。
「……ありがと、たかし。お前の球、ほんと目が覚めるわ」
「お前、ちょっと不安そうだったからな」
「なにそれ、そんなつもりじゃ──……いや、うん。まあ、ありがとな」
ぎこちない会話。でも、それで十分だった。
プレッシャーも悔しさも、全部抱えたまま、戦う覚悟がある。
それが“仲間”ってものだと思った。
* * *
最終回──6回表、白組の攻撃。
試合は、1対1のまま、緊迫したまま続いていた。
「ここで一本出せば、流れ持ってこれる!」
ベンチから声が飛ぶ。誰もがわかっている。先に1点取ったほうが、そのまま勝つ。そんな空気。
俺たち白組のベンチでは、蓮が誰よりも大きな声を出していた。
「集中していこう! 絶対に勝つぞ!」
彼の声が、仲間たちに“届く声”になっているのを感じた。
この数日間で、蓮は少し変わったのかもしれない。責任だけじゃなく、仲間に頼る強さを持ち始めた気がした。
──そして、俺の打席が回ってきた。
二死一塁。点に絡むには、自分が出塁するか、一気に運ぶか。
(……見極めろ)
小学生の試合では、たった一球で決まることもある。今まさに、その瞬間だった。
相手投手が力んでいるのがわかった。リリースが少し早い。次は浮く。
──来た。
アウトコース寄り。やや甘い、浮き気味の球。
体が勝手に反応していた。
カンッ!
鋭い打球が三遊間を抜ける。サードが飛びついたが届かず、ボールはレフトへ転がっていく。
「ナイスバッティング!」
ランナーが三塁へ、俺は一塁を駆け抜けてベンチを見た。
保科がグラウンドの外で笑って親指を立てていた。
「次、打つよ」
小さな声でそう言い、彼はバットを持って打席に入った。
* * *
保科の打球は、三塁ゴロ。
でも──ランナーは、ギリギリでホームへ滑り込んだ。
「セーフ!」
ベンチが沸く。
──2対1。
俺たち白組が、ついに勝ち越した。
その裏。赤組の攻撃、最後の守備。
マウンドに立つ前に、俺はもう一度、言葉を胸の中で確認した。
──《百発百中》
──《一球入魂》
──《臥薪嘗胆》
今の俺には、この三つがある。どれも、“自分で選び取った”言葉たちだ。
決して、奇跡でも魔法でもない。努力の中で、見つけた力。
「最後の回、頼んだよ」
保科の声に頷いて、俺はマウンドへ。
ここで抑えれば、勝ち。
けれど、その先頭打者は──
篠田 航だった。
「来たな、ラスボス」
「へっ。三振だけは絶対にしねぇからな」
篠田の表情は晴れやかだった。恐れも焦りもない。あるのは、まっすぐな“勝ちたい”という気持ち。
だから俺も、まっすぐ応える。
──《一球入魂》
この一球で決める、なんて甘いことは言わない。でも、魂は込める。
投げた。重心、リリース、回転、軌道。
篠田のスイング。
──空振り。
「ストライク!」
二球目。今度はボールになる位置へ、誘い球。
篠田は手を出さず、見送った。
「ボール!」
(……やるな)
ただの“豪快なバッター”じゃない。ちゃんと見てる。
三球目。真ん中低め、やや内寄り。リスクはあるが、ここしかない。
振りかぶり──
投げた!
──カキン!
高いバウンド。三遊間に落ちるかと思った瞬間、蓮が飛び込んだ!
「よしっ!」
グローブで弾いた打球を、すかさずセカンドが拾って一塁へ送球!
アウト!
ベンチが爆発したように湧いた。
そして、残り二人の打者を、俺は気を抜かず打ち取り──
「試合終了!」
勝った。
紅白戦、白組の勝利。
* * *
試合後、グラウンドで円陣を組んだ。
監督がひとことだけ言った。
「いい試合だった。勝った方も、負けた方も、ここから先の努力でレギュラーを勝ち取ってくれ」
全員の顔に、少しの疲れと、確かな誇りが宿っていた。
その夜。宿舎の布団の中で、俺は小さくつぶやいた。
「次に目指すのは……“全国”だな」
その瞬間、胸の奥に、新たな言葉が浮かんできた。
──《飛耳長目》
見えない相手の“意図”を感じ、視野を広げる力。観察力、分析力、そして“想像する力”。
俺は、そっと目を閉じた。
この世界で、夢をもう一度、追っていく。
■新スキル追加
《飛耳長目》
→ 観察・分析力が向上し、相手の心理や戦略の“流れ”を察知しやすくなる。
実際の動きだけでなく、状況の変化や思惑も読めるようになる。試合全体の“空気”に敏感になる。