小学校編・第3章「新たな力を携えて」
* * *
翌日の夕方、俺は河川敷のグラウンドにひとり立っていた。
春の試合が終わったばかりだというのに、もう身体を動かしたくてたまらなかった。
(……悔しかったから、だよな)
引き分け。それは結果としては悪くない。でも、心のどこかでずっと引っかかっていた。
──あと一歩。届かなかった。
あのホームラン、そして最後の大飛球。どちらも、《百発百中》でも、《一球入魂》でも止めきれなかった。
(俺には、まだ足りない)
力も、知識も、そして“経験”も。
だから──練習するしかない。
荷物から取り出したのは、あのとき病室で手に取った白い軟式ボール。新品同然だったそれも、もう少しだけ手に馴染んできた気がする。
俺は小さく息を吸って、何度も投球フォームを確認しながら、シャドーピッチングを繰り返した。
「……ずいぶん真面目だな、たかし」
ふいに背後から声がして、振り返ると、蓮と篠田、それに保科の三人が立っていた。
「こいつ、試合の翌日にもう自主練って……熱すぎるだろ」
「いや、でもその気持ちはわかる。俺も昨日、寝る前にノートに城之内の打席を全部メモしてた」
「“野球脳おばけ”は伊達じゃねぇな……」
蓮が呆れ顔で肩をすくめ、篠田が笑った。
「たかし。お前さ、なんか“本気で目指してる場所”があるよな」
保科の目が、真っ直ぐ俺を見ていた。
「俺たちはまだ、『勝ちたい』『目立ちたい』くらいなんだけどさ。お前だけ、“何かを取り返そうとしてる”ような顔するんだ」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
(……バレてるのか?)
いや、そんなはずはない。転生のことも、言霊のことも、口にしたことなんてない。
でも──保科の言葉は、核心に触れていた。
「たぶん、俺は……一度、野球を諦めたことがあるから、かもな」
少しだけ、本音を漏らした。篠田と蓮が顔を見合わせ、保科は静かにうなずいた。
「じゃあ、もう一度始めようよ。今度は、俺たちと一緒にさ」
その言葉に、胸が熱くなる。
こんなに、まっすぐな友情を、俺はいつから忘れていたんだろう。
俺は、黙ってうなずいた。
──その瞬間だった。
また、胸の奥が熱くなる感覚。そして、風が巻き起こる。
目を閉じるまでもなく、頭の中に“言葉”が浮かび上がる。
──《臥薪嘗胆》。
悔しさを燃料にして、這い上がれという魂の言葉。
それは、ただのスキルではない。
「もう一度やり直す」と決めた俺の心が、選んだ言霊だった。
(次は、勝つ)
言葉にしないその誓いが、胸の奥で静かに炎を灯していた。
* * *
それからの俺は、まるで火がついたように練習にのめり込んでいった。
毎朝のランニング。夕方の自主トレ。フォームの確認、筋トレ、投球練習……。
学校の授業中も、気づけばノートの隅に配球のイメージを書いていた。
「──おい、たかし。数学の答え、合ってんのか、それ」
隣の席から蓮が呆れたように覗き込んできた。
「あ、やべ……ここ変化球の握り描いてた」
「お前、完全に病気だな」
呆れながらも笑っている蓮の顔が、なぜか嬉しかった。
俺は、今のこの日常が、どこかでずっと欲しかったんだ。
* * *
そして、ファイターズの監督からある発表があったのは、試合の一週間後のミーティングだった。
「よし、お前ら。来月の連休に、合宿行くぞ!」
その言葉に、メンバーたちはざわめいた。
「やったー! 合宿!」
「どこ!? どこ行くの!?」
「山? 海? それともドーム? ……いや、ドームはないか」
「静かに! 場所は近隣市の山間部にある宿舎とグラウンドだ。宿泊は三泊四日。がっつり野球漬けだからな。覚悟しろ」
それは、まさに“試練”のような合宿だった。
監督はスパルタ気質とまではいかないが、「本気で野球をやるチーム」らしく、内容も本格的だった。
「──合宿でレギュラー決めるつもりだからな」
そう言ったときの監督の目は本気だった。
* * *
帰り道、蓮と保科、篠田と並んで歩いていると、自然と話題は合宿のことになった。
「なあ、ぶっちゃけ……俺ら、どう思う? レギュラー争い」
「正直、怖い。俺はさ、まだリードとか読み合いの部分でしか勝負できないからさ……」
保科がポツリと呟く。
「俺は、負けないつもりでいく。バッティングなら、誰にも負けたくないからな」
篠田の言葉には迷いがなかった。だが、それは自信というより、“焦り”の裏返しのようにも聞こえた。
俺はと言えば──
「……たぶん、俺の勝負は“自分自身”との戦いだと思う」
そう言った自分の声に、自分でも驚いていた。
この力──《百発百中》も、《一球入魂》も、《臥薪嘗胆》も。
全部、自分の“心”がもとになって生まれている。だからこそ、それに頼りきるのは違うと思った。
「……俺、逃げない。次は、自分の力で勝ちたい」
その言葉に、三人が同時に顔を向けた。
「そっか……そりゃ、“ライバル宣言”だな」
篠田がニヤリと笑う。
「お前がエースになったら、俺も一番手バッターとして立ち向かわなきゃな」
「じゃあ僕はその間に全体の布陣、考えておくよ」
保科の声に、蓮も笑って頷いた。
「よし。じゃあ、合宿でみんなレベルアップして──この夏、もう一回、あの城之内と戦おうぜ!」
* * *
その夜。
布団にくるまりながら、俺は小さくつぶやいた。
「俺に、できるだろうか……」
自信がないわけじゃない。でも、“子どもの身体”という限界や、過去のトラウマが、ときどき俺の背中を重くする。
──でも。
胸の中にある言葉が、静かに灯っていた。
《臥薪嘗胆》
悔しさは、炎になる。
涙は、力になる。
俺は──きっと、やれる。
そう信じて、目を閉じた。
* * *
三泊四日の夏合宿──その初日は、まるで“洗礼”のような暑さから始まった。
宿舎の裏に広がるグラウンドは、山に囲まれた静かな谷間にあった。蝉の声と草の匂いが、空気の重たさに拍車をかけている。
「ふあぁ……まじで朝からやんのかよ……」
篠田が寝ぼけた顔であくびをかきながら言う。隣では保科が黙々と準備体操をしていた。
「……最初に倒れたやつが、いちばん恥ずかしいからね」
「冷静すぎんだろ……」
俺はそのやりとりを横目に、静かにグラウンドに立つ。
体の中で、あの言葉が再び灯っていた。
──《臥薪嘗胆》
悔しさが、集中力となって全身を走る。
負けたあの日を思い出せば、自然と心が整っていく。
* * *
午前中のメニューは、5キロの山道ランニングに、フライ捕球とノック、ランダウンプレーの反復。
とにかく走って、汗をかいて、声を出す。
全身の筋肉が重くなり、息が詰まりそうになる中でも、俺は何かを掴もうとしていた。
(見える……)
同じ練習をしているのに、不思議と相手の“次の動き”が見える気がする。
誰が打球を追いきれないか、どのタイミングで声を出すべきか──すべてが頭の中で組み上がっていく。
これが、《臥薪嘗胆》の効果だ。悔しさを忘れず、負けた記憶を燃やし続けている限り、意識が研ぎ澄まされていく。
俺だけの、内なる言葉。誰にも知られず、俺を支えてくれる力。
* * *
昼休みが終わった頃、監督に呼ばれた。
「たかし、午後は特別にブルペン使わせてやる。ちょっと一緒に来い」
連れて行かれたのは、グラウンドの端にある簡易ブルペン。
そこには、ひとりの男が待っていた。引き締まった体に、落ち着いた佇まい。誰が見ても“経験者”と分かる風格だった。
「外部の指導員でな。ピッチャーの指導を頼んでる。お前の投球を見て、少し練習をつけてくれるってさ」
「……よろしくお願いします」
男──倉石コーチは軽く頷き、俺に一球目を求めた。
マウンドに立ち、キャッチネットを見据える。
──《百発百中》
その言葉が心に浮かぶと、手のひらに吸い付くようにボールが馴染む。
投げた。ズバン。音が、ブルペンに響く。
倉石はわずかにうなずいた。
「いいコントロールしてるな。次は、ストライクゾーンの角を狙ってみろ」
そのあとは、延々とコースの投げ分け練習だった。
内角低め、外角高め。わずかなミスも見逃されず、何度も修正を重ねた。
けれど──俺は、迷いなく応じた。
(今なら、できる)
心が一点に集中していた。目と、指と、足の動き。すべてが一つの目的に向かっている。
《臥薪嘗胆》が、俺の五感を支えてくれていた。
* * *
休憩のとき、倉石がぽつりと漏らした。
「……俺が小学生だった頃、こんな練習、正直無理だったよ」
そう言って笑った彼の表情は、少しだけ昔の仲間を思い出しているようだった。
「だが、今のお前は違う。“勝ちたい”って気持ちが、体を動かしてる。……このままいけ」
静かな声に、なぜか胸が熱くなった。
彼が何を見てきたのかは分からない。でも──今の俺に、その言葉は何よりの報酬だった。
* * *
宿舎に戻ると、ちょうど夕飯の時間だった。
「おせーぞー、たかし!」
蓮がスプーンを持ったまま口をとがらせる。
「おかわり三杯目、残しておいたからな!」
「誰のために残したんだよ、それ……」
俺は笑いながら席に着いた。篠田も保科も、いつも通りの表情だ。
俺の胸の奥には、ひとつの言葉だけが、静かに燃え続けていた。
■現在のスキル一覧(更新)
《百発百中》
→ 狙ったコースへ正確に投げ込む能力。極めて高い制球力を一時的に得る。
《一球入魂》
→ 一球に全神経を集中させることで、球威や打者への圧が向上する。感情と集中力の強さに依存。
《臥薪嘗胆》
→ 強い悔しさや屈辱を内に抱えている間、集中力と洞察力が持続的に上昇する。配球判断や相手の動きの“先読み”が冴える。本人の感情が持続している間のみ有効。