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小学校編・第1章「再び目覚める場所」

実験作品です

あれ、なんで……。

 こんなに、苦しいんだろう。


 口の中がカラカラで、息を吸っても空気が熱い。頭の奥がじんじんして、目の前がぼやけている。けれど、そんな状況でも、俺の右手はまだ、グラブを外そうとしなかった。


 ──この回を、抑えたら。


 ──この試合に、勝てたら。


 それだけを考えて、ピッチャーマウンドに立っていた。でも……たぶん、あれが限界だった。


 視界が歪んで、地面が斜めに傾いて。誰かが名前を呼んでる。でもその声も、まるで水の中みたいに遠い。汗も涙ももうわからない。


 最後に、空だけがくっきり見えていた。


 真夏の、入道雲。……ああ、今年も、夏が終わるんだな──。


 


* * *


 


 目を覚ますと、そこは真っ白な世界だった。


 空も地面も曖昧で、足元を見ても影がない。温度も風もない。あるのは、ただ、静寂だけ。


 「……ここは……どこだ……?」


 声を出そうとした瞬間、どこからともなく、風のような響きが届いてきた。


 「お前の、努力は見ていた」


 声は男のようでもあり、女のようでもあった。低く、響くその声に、胸の奥がざわついた。


 「言葉には、魂がある。人が強く願い、重ね、叫んできた言葉たちは、言霊となる」


 ふわり、と風が吹いた。いや、風ではない。──文字だ。


 空間に、墨で書かれたような文字が浮かび上がる。それは、ひとつの四字熟語だった。


 


 ──『百発百中』。


 


 「その魂、お前に託そう。これは始まりにすぎない。やがてお前は、より深い言霊の海に触れるだろう」


 言葉が、胸に突き刺さったような衝撃とともに、全身を駆け抜けた。


 ……あつい。


 いや、違う。あつくて、あたたかくて、どこか懐かしい──これは……。


 


* * *


 


 「──たかしくん! 起きた!? ……よかった……!」


 目を開けると、見慣れない天井と見知らぬ女の人がいた。ふわふわした声で、涙ぐんでいる。


 俺は、ベッドに寝ていた。どこかの家……いや、病院か?


 「いま、先生呼んでくるからね! もう、大丈夫だから……!」


 女の人──いや、俺の“母親らしい人”が、廊下へと駆けていった。


 ……なにが起こった? さっきの言霊は? あの白い世界は? 俺は死んだんじゃ──。


 自分の手を見て、思わず息を呑んだ。


 ──ちいさい。


 骨ばっていたはずの指が、ふっくらしている。筋張った手のひらが、柔らかい。

 鏡を探して、視線を動かす。ベッド脇のスタンドミラーに映ったのは、小学生くらいの少年だった。


 「……嘘だろ……俺、子どもに……?」


 


* * *


 


 そのあと、母親(らしい人)から聞いたところによると、俺──**桐原たかし(小3)**は、昨日の夕方、急に発熱して倒れ、病院に担ぎ込まれたらしい。熱は高かったけど命に別状はなく、数日入院していれば回復するとのことだった。


 けれど──


(……俺の名前は、桐原翔太だったはずだ)


 18歳、高校3年生、野球部。……いや、元野球部か。あの夏で、俺の夢は終わったんだから。


 それが今、どうしてこの体に? そして、あの「百発百中」の言霊は……。


 わからないことだらけだった。でも──


 ベッドのそば、バッグの中に入っていたひとつのボールを見て、確信した。


 白くて、まだ新品の軟式ボール。


 それを手に取ったとき、胸の奥で何かが、カチリと音を立てた。


 


 ──「百発百中」


 


 風もないのに、病室のカーテンがふわりと揺れた気がした。



退院の日、晴れ渡った青空の下で、俺は“新しい母親”の車に乗って家へと向かっていた。

 助手席の窓から差し込む日差しはやわらかく、けれどどこか落ち着かない。


「久しぶりのおうちだね。無理しないで、少しずつね」


 母親──いや、“この世界の母親”である桐原あかねさんは、やさしく微笑みながらハンドルを握っていた。声色も仕草も穏やかで、たぶん本当に俺のことを心配してくれているのがわかる。


 けれど……俺は、どう接していいのかわからなかった。


 名前も、家も、家族さえも知らない。言葉を交わしながら、まるで他人の家にお邪魔するみたいな感覚だった。


 (……だけど、俺はもう、“翔太”じゃないんだ)


 少しずつ、この現実を受け入れなきゃならない。ここが俺の“やり直しの人生”だと、心に言い聞かせた。


 


* * *


 


 家は、二階建ての一軒家だった。駅からは少し離れた住宅地の中にあり、周囲には公園や小さな川もあって、のどかな雰囲気だった。玄関のチャイムを鳴らすと、パタパタと小さな足音が近づいてきて──


「おかえり、たかし!」


 元気な声が響いた。小さな男の子──弟か?──が玄関まで飛び出してきて、俺にぎゅっと抱きついてきた。


「ゆうと、やめなさい。まだお兄ちゃん、病み上がりなんだから」


 後ろから父親らしき男が出てきた。ごく普通のサラリーマン風の姿に、やさしい目元。

 俺はぎこちなく笑って、「ただいま……」とだけ返した。


 この家には、ちゃんとした家族がいる。

 俺のことを“長男”として迎え、心配し、帰りを喜んでくれる人たちが。


 (……この家族を、裏切るようなことはできない)


 その夜、布団の中で目を閉じながら、俺は決意していた。

 この人生で、もう一度──もう一度、夢を追いかけるんだと。


 


* * *


 


 そして数日後。いよいよ小学校へ復帰する日がやってきた。


 真新しいランドセルを背負って、校門の前に立つ。白い体操服に赤い帽子の集団が、校庭を駆け回っていた。子どもたちの笑い声が、風にのって聞こえる。


 教室に入ると、ざわざわとした視線が集まった。

 俺は深呼吸をして、担任の先生の案内で前に立つ。


「今日から桐原たかしくんが戻ってきます。よろしくね」


 「よろしくおねがいしまーす!」と、クラスの声が返ってきた。

 懐かしくて、でも初めて味わう“小学生の教室”という空気。


 この年齢での転生は、思った以上に違和感がある。でも、思った。


 (……やり直せるなら、俺はちゃんと、もう一度やってみたい)


 


* * *


 


 数日が経ち、小学校生活にも少しずつ慣れてきたある日。昼休みに校庭を歩いていると、体育倉庫の裏手で、何人かの児童がキャッチボールをしているのが見えた。


 ──白球が、青空に舞う。


 胸の奥で、何かが跳ねた。


 あの感覚。あの音。あの時間。

 白いボールを追いかけていた、暑い夏の日々。


 俺の足は、自然とそちらへ向かっていた。


「ねぇ、それ野球? やってるの?」


 声をかけると、ひとりの少年が振り返った。背が高く、グローブの扱いにも慣れている様子だった。


「ん? ああ、うちのチーム。少年野球。ファイターズっていうんだ。たかしくんもやる?」


 その声に、思わず笑みがこぼれた。


 「うん。やってみたいかも」


 グローブを借りて、ボールを受け取る。

 その重み、手触り──どれも懐かしくて、涙が出そうだった。


 少年が構えた。俺もグローブを構える。距離、約10メートル。初めてのキャッチボール。

 ボールが飛んできた瞬間──


 脳が冴えた。


 動体視力、反応速度、角度、回転数。すべてが“見えた”気がした。


 ──パンッ。


 ミットが鳴る。たった一球で、俺は確信していた。


 俺の中には、まだ“野球”が生きている。


 


* * *


 


 その日、少年──高村蓮れんという名のキャプテンから、土曜日の練習に見学に来ていいよと誘われた。


 「たかしくん、なんか投げ方きれいだったなぁ。前もやってたの?」


 「ちょっとだけ、昔ね」


 俺は笑ってごまかした。……いや、ある意味、間違ってはいない。


 この体で、また野球を始める。

 そして今度こそ、あの場所へ届くまで──俺は、野球を諦めない。


土曜日。午前九時。

 俺は緊張と期待を胸に、町内の小さな河川敷にある野球グラウンドを訪れていた。


 「おーい、たかし! こっちこっち!」


 手を振っていたのは、先日キャッチボールをした少年──高村蓮れん

 キャプテンらしく、ユニフォームをきっちり着こなしていて、もうひとりの大人びた少年に声をかけていた。


 「こいつが、言ってた子? ……ふーん、細いけど目つきは悪くないな」


 そう言ったのは、サードっぽいがっしりした体格の男の子──篠田航しのだ・こう

 目が鋭く、どこか不敵な笑みを浮かべている。


 「よろしくお願いします。桐原たかしです」


 「おっ、礼儀はちゃんとしてるじゃん。俺は篠田。ファイターズの最強バッターだから、覚えとけよな」


 「……自分で言うなよ、篠田」


 苦笑する蓮。そのやりとりに、思わず笑ってしまった。

 どこか懐かしい、この空気。


 監督の許可をもらい、今日は「体験参加」という形で練習に加わることになった。


 


* * *


 


 ウォーミングアップ、ランニング、キャッチボール……とメニューが進んでいくなかで、徐々に感覚が戻ってくるのを感じた。

 身体は子どもでも、頭と意識は高校球児のままだ。フォームを崩さずに投げる術も、バウンドを読む目もある。


 蓮が後ろからぼそりとつぶやいた。


 「……たかし、マジで経験者だったんじゃね?」


 「昔ちょっとだけって言っただろ」


 笑って返すが、内心では焦っていた。

 ……俺、バレてないよな? 動きが「小学生らしくない」って思われてないか?


 けれど、蓮も篠田もむしろ面白がっているようだった。


 「たかし、マウンド立ってみる?」


 午後、簡単な紅白戦をするという話になり、ピッチャーがいない“白組”に助っ人として入ることになった。


 「どうせ体験なんだし、一回くらい投げてみなよ!」


 (……ここか)


 心が静かに震えた。

 この球場、このマウンド。この白い球。……俺が、あの夏に届かなかった場所。


 


* * *


 


 マウンドに立つと、風が変わった気がした。

 空気が澄み、視界が遠くまで見通せるようになる。


 (これは──)


 体が、勝手に構える。目の奥に、スローモーションのような映像が浮かんだ。

 キャッチャーミットの位置。バッターの構え。わずかな重心の揺れ。


 投げた。


 ──ズバン。


 音が鳴った瞬間、キャッチャーの蓮が目を見開いた。


 「ストライク!」


 審判代わりの監督が叫ぶ。

 一瞬、グラウンドが静まり返った。


 「今の、マジで見た!? すっげえコントロール!」


 「小学生であんな球、あんのか……?」


 ざわめくチームメイトたち。その声をよそに、俺の胸にだけは、確かな実感があった。


 ──《百発百中》。発動。


 四字熟語が、脳裏で鮮やかに輝いていた。

 文字が、風のように巻き上がる。狙った場所に、球が吸い込まれていく感覚。


 あの“白い世界”で授かった、最初の言霊。


 (間違いない。これは──本物のスキルだ)


 


* * *


 


 結局、三者連続で打ち取った。三振、三振、セカンドゴロ。


 コントロールと、打者の癖を読む力だけで抑えた感覚だった。

 ……いや、正直言えば“感覚”じゃない。すべてが「見えて」いた。


 練習後、蓮と篠田が真顔で言った。


 「……マジで入ってくんない?」


 「正直、ウチ、エースがいないんだよ。三人ローテで回してるけど、どいつもどっか不安定でさ」


 「でも、たかしが来たら──マジで“勝てるチーム”になると思う」


 俺はしばらく黙ってから、小さく笑った。


 「……うん。俺も、また野球がしたいと思ってた」


 新しい人生。新しいチーム。

 そして、新しいスキル《百発百中》。


 俺は、ここから始める。


 


* * *


 


 その夜、家に帰ってから、俺は天井を見上げながらつぶやいた。


 「……ありがとう、“百発百中”」


 ふと、胸の奥で声がした気がした。


 ──これより先も、お前の言葉が力となる。


 次に目を閉じたとき、ほんの一瞬だけ、“白い世界”がまた、かすかに見えた気がした。

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