1,こぼれ落ちる涙と髪を撫でる姉
「やっぱり嫌だ……」
そう言うなり、涙がこみ上げる。隣の座席で、姉の実花が困ったように言う。
「しかたがないわ。もう荷物も送ってあるんだし」
「だって……」
顔を歪めた葉菜の両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
二人は、タクシーの後部座席に並んで座っている。葉菜が今日から入ることになっている、黎明女子学院の寮に向かっているところだ。
小さな子供のようにしゃくり上げる葉菜に、姉がハンカチを差し出す。そのハンカチで目元を拭いながら、葉菜は涙声で言う。
「寮なんて嫌だ。お姉ちゃんと一緒にいたいよう」
運転手が、ちらりとバックミラーに目をやる。
「葉菜……」
姉は、葉菜の髪を静かに撫でる。
二人の母は、葉菜が小さい頃に亡くなった。葉菜は、母の顔を覚えていない。
父は海外で仕事をしており、何年か前に現地の女性と再婚して、今は彼女との間に子供がいるが、葉菜たちは会ったことがない。
だが、葉菜は、そういう生活を寂しいと思ったことはない。年の離れた姉が親代わりで、優しくてきれいな姉のことが大好きだからだ。
だが、姉と二人の楽しい生活は、突然終わりを告げることになった。姉が結婚することになったのだ。
姉は、勤めていた会社の社長の息子、佐原良一郎に見初められ、交際していたのだが、少し前に妊娠していることがわかった。それで結婚することになったのだが、夫の両親と同居することが結婚の条件なのだという。
葉菜は、好きな者同士が結婚するのに条件があるなんておかしいと思うし、葉菜たちの家に良一郎が来て一緒に暮らせばいいと言ったのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
それならば、寂しいけれど、一人暮らしをするしかない。そう思っていた葉菜に、姉は言った。
「一人暮らしだなんて、とんでもない」
「どうして?」
「あなた、掃除や洗濯も、料理だってしたことないでしょう?」
「そうだけど、これから覚えれば。だって、お姉ちゃんがお嫁に行っちゃうんだからしょうがないじゃん」
だが、姉は言う。
「自分のことも満足にできない子が、家事をこなせるとは思えないし、そうでなくても、心配で一人暮らしなんてさせられないわ」
「じゃあ、葉菜はどうすればいいの? お姉ちゃん、お嫁に行くのやめる?」
葉菜がそう言うと、姉は、そっと腹部に手を当てながら言った。
「そういうわけにはいかないわ」
もちろん、葉菜だってわかっていて言っているのだ。赤ちゃんが出来たのだから、結婚をやめるわけにはいかない。
だが、それならば、葉菜にどうしろというのだ。頬を膨らませていると、姉が言った。
「あちらのご両親にも言ったのよ。妹を一人置いて嫁ぐわけにはいかないって。そうしたら……」
姉の姑となる人が、葉菜を黎明女子学院の寮に入れることを提案したのだという。
そうなれば、当然、今通っている高校をやめて学院に転入しなければならないが、姑は学院の出身者で、今も多額の献金をしていることもあって、口利きをしてくれるというのだ。
「良家の子女が通う学校だし、寮で暮らすなら私も安心だわ。安全だし、食事も出るし、ルームメイトがいるから寂しくないわよ」
姉は、そう言って微笑んだのだったが。
良家の子女ではない自分が、そんなお嬢様学校に、しかも途中から転入するなんて嫌だし、寮になんか入りたくない。ルームメイトだなんて、考えただけでぞっとする。
今通っている高校にだって友達などいないし、小学生になって以降、誰かと同じ部屋で寝たのは、修学旅行くらいしかない。修学旅行だって、本当は行きたくなかったくらいだ。
それなのに、他人と同じ部屋で暮らさなくてはいけないなんて、葉菜にとっては苦痛以外の何物でもない。
だが、それを拒めば姉を困らせることになるし、ほかにどうすればいいのか考えがあるわけでもない。姉が言うように、葉菜はまともに家事をしたこともない。