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本編

淡い月光が琵琶湖の波間を銀色に染める。その夜は静謐に満ちていた。


竹生島の頂に立つ弁財天は、深い叡智を湛えた瞳で湖面を見つめていた。その姿は人の形を借りているものの、まるで天女のように美しく、長い黒髪が夜風にたなびいていた。


「来たれ、湖の主よ」


その声は、人の言葉でありながら、どこか古の響きを帯びていた。


湖面が大きく揺らぎ、巨大な龍神が姿を現す。鱗は月光を受けて青く輝き、その威容は畏怖の念すら呼び起こした。


「弁財天様、私めにご用とは」


龍神の声は、湖底から響く轟きのようであった。


「この湖の均衡が崩れようとしている」弁財天は静かに告げた。「人の世と神の世の境が揺らぎ始めている」


龍神は黄金の瞳を細め、「されば、どうすれば」と問うた。


「契りを結びましょう」弁財天は柔らかな微笑みを浮かべる。「あなたの力を封じ、この島に眠っていただきたい。そして、時が来たら、新たな守り人たちと共に、再びこの湖を守るのです」


その時、一艘の丸子舟が静かに寄せる波に揺られていた。平底の舟は、まるで人と神の世界の境界線のように、闇と光の間を漂っていた。


「この舟に、私たちの契りを刻みましょう」


弁財天は舟の底に、古い文字を刻み始めた。それは後の世に「護符」と呼ばれることになる印であった。


「千年の時が流れた後、新たな守り人たちが現れる。その時、この舟は彼らを導く道しるべとなるでしょう」


龍神は深くうなずき、その巨体を徐々に光の粒子へと変えていった。光は竹生島の地下深くへと吸い込まれ、やがて静寂だけが残された。


弁財天は最後に、夜空を見上げた。


「さあ、千年の時が始まります」


その言葉は、未来への預言のように、静かな湖面に響いた。


* * *


伝説は、そう語り継がれてきた。


丸子舟が月夜に漂う時、時として不思議な光を放つという噂。

竹生島の地下に眠る何かの気配。

そして、水を見通す力を持つ者たちの存在。


それらは全て、千年前のあの夜に始まった物語の続きなのかもしれない。


---


「湖春、あなたに話があります」


夕暮れの社務所で、祖母の声が静かに響いた。障子越しの光が斜めに差し込み、畳の上に長い影を落としている。菅野湖春は、祖母の表情の険しさに、何か重大な話が来ることを直感していた。


十七歳の夏。それは、ごく普通の高校生だった彼女の人生が、大きく転換する瞬間だった。


「私たちの家に伝わる力のことは、話したことがあったわね」


祖母・菅野千鶴は、古びた箱を静かに開けた。中から取り出されたのは、深い藍色の巫女装束。月光を織り込んだような生地は、不思議な輝きを放っていた。


「水見の力...ですか?」


湖春は小さな声で問いかけた。子供の頃から何度か聞かされた言葉。琵琶湖の水の流れを読み、時として未来を映し出す――そんな不思議な力の話を、湖春はずっと昔話だと思っていた。


「そう。その力が、あなたに目覚めようとしています」


千鶴の手が震えているのが見えた。老いた手は、しかし確かな強さを秘めていた。


「でも、私にはそんな――」


言葉を遮るように、外から風が吹き込んだ。風鈴が清らかな音を響かせる。不思議なことに、その音は湖春の体の中で反響するように感じられた。


「昨日の夢を見たでしょう?」


湖春は息を呑んだ。昨夜見た夢。竹生島に向かって漂う丸子舟。月明かりの中、船底から放たれる青い光。そして、水面に映る何かの姿――。


「どうして...」


「その夢は、力が目覚める前触れよ」千鶴は静かに続けた。「あなたのお父さんが、まだ小さかったあなたを連れて竹生島に行った日のこと、覚えていない?」


記憶の底が揺れる。霧の中を進む船。父の大きな背中。そして、島から聞こえてきた不思議な音色――。


「明日から、観光協会で丸子舟の復活プロジェクトが始まるって聞いているわ」


千鶴は立ち上がり、窓際まで歩いた。琵琶湖に沈みゆく夕陽が、その姿を茜色に染めている。


「それは偶然じゃない。全て、時が来たということ」


湖春は自分の手を見つめた。普通の女子高生の手。しかし、その血の中に、千年の時を超えて受け継がれてきた何かが流れているというのか。


「私に...できるんでしょうか」


「心配しなくていい」千鶴は優しく微笑んだ。「あなたは一人じゃない。きっと、導き手が現れる」


その時、遠くで汽笛が鳴った。観光船の最終便だろう。その音が、これからの物語の始まりを告げているかのようだった。


* * *


翌日の午後、長浜市観光協会の会議室は、緊張感に包まれていた。


「では、丸子舟復活プロジェクトの概要説明を始めさせていただきます」


プロジェクトリーダーの西村課長が、プロジェクターに映された資料を指し示す。窓からは琵琶湖が見え、夏の陽光が水面を煌めかせていた。


湖春は会議室の端に座り、メモを取りながら、時折、祖母から託された巫女装束が入った風呂敷包みに目を向けた。観光協会でアルバイトを始めて三ヶ月。まさか、こんな形で伝統と向き合うことになるとは。


「現在、琵琶湖周辺で現役の丸子舟は五艘。そのうち、実際に観光や祭事で使用されているのは、わずか二艘です」


スクリーンに映し出された古い写真。かつて湖上を行き交った丸子舟の群れ。高い舟板を持つその姿は、まるで水鳥の群れのようだった。


「このプロジェクトでは、新たに三艘の丸子舟を建造し、定期観光航路を復活させる計画です」


会議室のドアが静かに開き、一人の若者が入ってきた。藍色の作業着姿で、凛とした表情を浮かべている。


「あ、塩津君が来てくれましたね」西村課長が明るく声をかける。「皆さん、塩津航君です。現役の丸子舟船頭見習いで、このプロジェクトの技術アドバイザーとして参加してもらいます」


航が軽く会釈をする。その横顔を見た瞬間、湖春は昨夜の夢の一場面を思い出していた。船の上で、誰かと共に立っていた場面。まさか、それが――。


「特に竹生島航路の復活は、このプロジェクトの目玉となります」西村課長の声が続く。「かつて丸子舟は、参拝客の足として重要な役割を果たしていました」


「すみません」突然、航が手を挙げた。「船底の古代文字についての調査は、どうなりましたか?」


会議室に小さなざわめきが走る。


「古代文字?」誰かが問いかけた。


「はい」航は真剣な表情で答える。「父が残した航海日誌に、竹生島航路の丸子舟の船底に、不思議な文字が刻まれているという記録があったんです」


湖春は思わず背筋を伸ばした。祖母の言葉が蘇る。

『その力が、あなたに目覚めようとしています』


「それについては」西村課長が資料をめくる。「実は来週、文化財保護課と合同で調査を行う予定です。湖春さん、その時の記録係を担当してもらえますか?」


「は、はい!」


返事をする瞬間、風呂敷包みの中から、かすかな温もりが伝わってきた気がした。


「では、次に予算案の説明に移ります」


会議は粛々と進められていったが、湖春の心は、これから始まろうとしている何かの予感に震えていた。窓の外では、一羽のカモメが湖面すれすれに飛んでいく。


その日の夕方、会議が終わって外に出ると、航が待っていた。


「菅野さん」


「あ、塩津君...」


「航でいいです」彼は真っ直ぐに湖春を見つめた。「菅野さんも、感じていますよね?」


「え?」


「この湖で、何かが始まろうとしていることを」


夕陽に照らされた航の瞳が、どこか神秘的な光を帯びて見えた。その時、遠くの湖面で、大きな波紋が広がった。


---


夜明け前の船着き場は、薄い霧に包まれていた。


「今日は、文化財調査の前に、まずは航路の確認をさせてもらいます」


航が丸子舟の舷側に手を置きながら説明する。まだ暗い水面に、古びた船体が静かに揺れていた。


「美しい...」


湖春は思わず声を漏らした。高い舟板を持つ丸子舟は、霧の中でひときわ凛々しい姿を見せている。船首には「湖龍丸」という文字が刻まれ、その周りには細かな彫刻が施されていた。


「この船は、うちの家で代々受け継いできた丸子舟です」航が誇らしげに語る。「父が失踪する前まで、竹生島航路の定期便として使っていました」


失踪――その言葉に、湖春は一瞬、航の表情の翳りを見た気がした。


「では、乗り込みましょうか」


航が手を差し伸べる。その手を取った瞬間、湖春の体に不思議な感覚が走った。まるで、船自体が彼女を迎え入れているかのような。


「気をつけて。船底が濡れてます」


丸子舟の中に足を踏み入れると、船が小さく揺れた。風呂敷包みの中の巫女装束が、かすかに温かみを帯びる。


「出航します」


航が長い櫓を手に取る。その仕草は無駄がなく、まるで古くからの所作を受け継いでいるかのようだった。


ゴトン――。


櫓を漕ぐ音が、静かな朝の湖面に響く。霧の向こうから、竹生島の影が徐々に姿を現し始めた。


「あの...」湖春が恐る恐る切り出す。「船底の古代文字の話なんですけど」


「ああ」航は櫓を漕ぎながら答えた。「父の航海日誌には、満月の夜に青い光を放つって書かれてたんです」


その時だった。


ザバッ――。


船の真横で、大きな水音が響いた。


「なっ...!」


湖春が思わず声を上げる。水面下で、何か巨大な影が動いたような。


「見えましたか?」航の声が真剣さを帯びる。「水の中、見えましたよね?」


「え、ええ...でも」


説明できない。確かに何かを見た。でも、普通の人には見えないはずのものを。


「やっぱり」航がつぶやく。「菅野さんには水見の力が」


「どうして、それを?」


「父の日誌に書いてありました」航は櫓を休め、湖春をまっすぐ見つめた。「かつて竹生島への渡航には、必ず水見の力を持つ巫女が同乗していたって」


霧が晴れ始め、朝日が水面を黄金色に染めていく。その光の中、竹生島の姿がくっきりと浮かび上がってきた。


「見えてきました」湖春が思わず立ち上がる。


宝厳寺の朱色の建物。都久夫須麻神社の鳥居。そして、島全体を覆う深い緑。竹生島は、まるで湖上に浮かぶ宝石のように輝いていた。


「ん?」


航が急に空を見上げた。一羽の白鷺が、船の上を旋回している。


「珍しいな...」航がつぶやく。「白鷺が、こんな沖まで」


その時、鷺は竹生島に向かって飛び立った。その姿を追いかけるように、湖春の視線が島の一点に釘付けになる。


宝厳寺の裏手。木々の間に、何か人影のようなものが。


「あそこに...」


言葉が途切れた瞬間、その影は消えていた。代わりに、かすかな鈴の音が風に乗って届いてくる。


「来たんだね」


航の声が、どこか懐かしそうに響いた。


「誰が、ですか?」


「きっと、もうすぐ会えます」航は再び櫓を取る。「竹生島の、本当の守り人に」


---


竹生島の船着き場に丸子舟が横付けされた時、朝日はすでに高く昇っていた。


「気をつけて」


航の手を借りて桟橋に上がった湖春は、思わず深い息を吸い込んだ。島の空気が違う。まるで時間の流れ方さえ、ここだけ異なるかのような感覚。


「この階段を上がっていくと」航が石段を指さす。「宝厳寺です」


苔むした石段は、まるで龍の背のように島の中腹へと続いていた。両脇には古木が立ち並び、木漏れ日が石畳に斑模様を描いている。


「あの...さっきの人影のことなんですけど」


「ああ」航は石段を上りながら答えた。「父の日誌にも書いてありました。『時として、島は訪れる者を選ぶ』って」


その時、風が吹き抜けた。


カラン、カラン――。


どこからともなく鈴の音が響く。湖春の持つ風呂敷包みが、かすかに震えた。


「来たね」航が立ち止まる。


石段の途中、古びた灯籠の前に、一人の僧侶が立っていた。三十代くらいだろうか。しかし、その眼差しには、はるかに古い時を見つめてきたような深みがあった。


「お待ちしていました」僧侶が穏やかな声で告げる。「水見の巫女様と、船霊を継ぐ者よ」


湖春と航は思わず顔を見合わせた。


「私は都久夫。この島の...まあ、守り人の一人です」


その自己紹介の仕方に、どこか気取りのなさと、同時に計り知れない重みが感じられた。


「あの、私たち」湖春が言葉を探す。「どうして私たちのことを?」


「千年の時が満ちようとしています」都久夫は遠くを見るような目をした。「新しい守り人たちが必要な時が」


突然、島全体が小さく震えた。木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。


「これは...」航の表情が引き締まる。


「ええ」都久夫が頷く。「地下の封印が、少しずつ緩みはじめている」


「地下の...封印?」


湖春の問いかけに、都久夫は灯籠に手を置いた。すると不思議なことに、灯籠の下部が静かに回転し始める。


ゴトン、という重い音とともに、灯籠の横の地面が、まるで扉のように開いていく。


「お二人に、見せたいものがあります」


現れたのは、石段の下へと続く古い階段。湿った空気と、かすかな光の粒子が漂っている。


「これが、竹生島の本当の姿」


都久夫の声が、不思議な響きを帯びて階段を下りていく。


「行きましょう」航が湖春に向かって頷く。「きっと、ここに全ての答えが」


風呂敷包みの中の巫女装束が、まるで同意するかのように温かみを増した。湖春は深く息を吸い、最初の一歩を踏み出した。


階段を下りていくにつれ、空気が変わっていく。そして、かすかに聞こえてきた。

水の流れる音。

誰かの祈りの声。

そして、はるか古の時代から響いてくるような、鈴の音。


「ここが」都久夫が立ち止まり、振り返る。「千年前、弁財天様と龍神様が契りを交わされた場所」


薄暗い地下空間に、青白い光が満ちていた。


---


地下空間は、想像をはるかに超える広がりを持っていた。


天井から垂れ下がる光の筋が、まるで水中のように揺らめいている。壁には古代の文字が刻まれ、所々に青く光る鉱物が埋め込まれていた。


「これは...」湖春が息を呑む。


中央には巨大な円形の水盤。その周りを、九本の石柱が取り囲んでいる。水盤の水は、どこからともなく湧き出ているようで、かすかな波紋を描いていた。


「弁財天様の祭壇です」都久夫が説明する。「そして、龍神様の封印の場所でもある」


航が水盤に近づき、縁に刻まれた文字を見つめる。

「これは...父の日誌に書かれていた文字と同じです」


「ええ」都久夫が頷く。「丸子舟の船底に刻まれた文字と同じ系統のもの。古の力を封じ、同時に制御するための印です」


その時、湖春の体に不思議な感覚が走った。風呂敷包みの中の巫女装束が、まるで生き物のように脈打っている。


「着てみなさい」都久夫が静かに告げる。「その装束を」


「ここで...ですか?」


「ええ。水盤の力が、あなたの中の血を呼び覚ましている」


航が部屋の隅に立ち、背を向けた。都久夫も同じように視線を逸らす。


湖春は震える手で風呂敷を解き、巫女装束を広げた。深い藍色の布地が、青白い光を受けて神々しく輝く。


装束に袖を通した瞬間、体中を電流が走ったような感覚。


「あっ...」


水盤の水面が、突然大きく波打った。


「始まりました」都久夫の声が響く。「水見の儀式が」


水面に映る自分の姿が、徐々に変化していく。そこに映るのは、まるで千年前の巫女のよう。


「見えます...」湖春の声が震える。「水の中に...何かが」


水面に、無数の映像が浮かび上がる。

琵琶湖を渡る古の丸子舟。

竹生島に降り立つ弁財天。

そして――。


「龍神様...」


巨大な龍の姿が、水面に浮かび上がった。


その瞬間、地下空間全体が震動を始める。壁に埋め込まれた鉱物が一斉に青く明滅し、水盤の水が渦を巻き始めた。


「湖春さん!」航が駆け寄る。


しかし彼女の意識は、すでに別の場所にあった。

水面に映る映像の中に。

千年前の記憶の中に。


『守りなさい』


誰かの声が響く。弁財天だろうか。それとも――。


『新たな契りの時が来るまで』


「っ!」


湖春の体が大きく後ろに倒れる。航が咄嗟に受け止める。


「大丈夫ですか!?」


「ええ...」湖春はかすかに頷く。「でも、とても不思議な...」


「水見の力が目覚めた証です」都久夫が近づいてくる。「そして、これは警告でもある」


「警告、ですか?」


「ええ」都久夫の表情が厳しくなる。「封印が限界に近づいている。龍神様の力が、少しずつ漏れ始めている」


「どれくらいの時間が?」航が問う。


「満月まで」都久夫は天井を見上げた。「あと二週間です」


湖春は自分の手を見つめた。まだ体中が震えている。水面に映った光景が、生々しく脳裏に焼き付いていた。


「私たちに、何ができるんでしょう?」


「それを見つけるところから」都久夫が微笑む。「修行が始まります」


---


夜明け前の琵琶湖。

水面に立ち込める霧の中、丸子舟が静かに漂っていた。


「呼吸を整えて」都久夫の声が、霧の向こうから届く。「水の音に意識を集中させるんです」


湖春は船首に正座し、巫女装束の袖を軽く翻らせながら目を閉じた。三日目の修行。しかし、まだ何も見えない。何も感じられない。


「焦らなくていい」


今度は航の声。彼は船尾で櫓を操りながら、絶妙なバランスで船を一定の位置に保っていた。


「でも...」


「ゆっくりでいいんです」都久夫が諭すように言う。「水見の力は、押し付けるものではない。水のように、自然に流れ出るもの」


その言葉に導かれるように、湖春は意識を解き放っていく。


波のさざめき。

風の囁き。

鳥たちの羽音。


そして――。


「あっ...」


かすかに、でも確かに感じた。水の中を流れる何か。目には見えない、でも確かにそこにある流れ。


「見えました?」都久夫の声が期待を含んで響く。


「はい...」湖春は目を閉じたまま答える。「青い光のような...糸のような...」


「龍脈です」都久夫が静かに告げる。「竹生島と琵琶湖を結ぶ、神聖な力の流れ」


その瞬間、湖春の意識が急速に水中へと引き込まれていく。


青い光の帯が、湖底で複雑な模様を描いている。まるで巨大な生き物の血管のよう。その中心が、竹生島の真下へと続いていく。


「すごい...」


「注意して」航の声が響く。「深追いしすぎると、意識が戻れなくなることもある」


しかし、その警告が届く前に、湖春の意識はさらに深く沈んでいった。


そこには――。


巨大な影。

鎖のような光。

そして、どこかで聞いたような鈴の音。


『来たか』


突如として響く声に、湖春は震えた。人の声とも、獣の唸りともつかない。


『選ばれし者よ』


「っ!」


意識が急速に現実へと引き戻される。体が大きく前のめりになるのを、航が支えていた。


「大丈夫ですか!?」


「は、はい...」


額には冷や汗が浮かんでいる。しかし、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、懐かしさのような、温かな感覚が残っていた。


「よく耐えました」都久夫が感心したように言う。「初めての龍脈視で、ここまで見えるのは珍しい」


「あの声は...」


「ええ」都久夫が頷く。「龍神様です。あなたを認めてくださった」


航が黙って湖春の肩に手をかける。その手に、かすかな震えが伝わってきた。


「でも、まだ序章です」都久夫が立ち上がる。「これから本当の修行が始まります」


朝日が霧を透かし始めていた。その光の中、都久夫は小さな箱を取り出した。


「これを」


箱の中には、一対の銀の鈴。繊細な彫刻が施され、紐には古い布が結ばれている。


「かつて、水見の巫女たちが使っていた神具です」都久夫が説明する。「水の流れを制御し、龍神様の力を鎮める力を持つ」


湖春が恐る恐る鈴を手に取る。すると、鈴が自然と音を奏で始めた。


カラン、カラン――。


その音が、水面に小さな波紋を描く。


「不思議...」湖春がつぶやく。「まるで、生きているみたい」


「すべては生きています」都久夫の声が響く。「水も、船も、鈴も。そして、この湖に眠る記憶も」


遠くで、朝を告げる寺の鐘が鳴り始めた。


---


「今夜です」


夕暮れ時、都久夫が告げた。竹生島の宝厳寺の縁側で、三人は琵琶湖に沈みゆく夕陽を見つめていた。


「半月の夜」航がつぶやく。「父の日誌にも書かれていた。龍脈が最も活性化する時」


湖春は腰に下げた銀の鈴に触れる。一週間の修行で、少しずつだが鈴を使いこなせるようになってきた。水の流れを読み、時には小さな波を起こすことさえできる。


「準備はいいですか?」都久夫が二人を見る。


「はい」

「ええ」


返事をする声に、緊張が混じっている。


「では、説明します」都久夫が古い巻物を広げる。「今夜、龍脈の力が高まる時、地下祭壇の封印を強化しなければなりません」


地図には、竹生島の地下構造が詳細に描かれていた。中央の水盤を中心に、九つの祠が配置されている。


「航君は丸子舟で島の周囲を巡り、外側の結界を保ってください」


「はい」


「湖春さんは、私と共に地下祭壇で儀式を」


その時、突然の風が吹き抜けた。巻物が大きくはためき、琵琶湖の水面が激しく波打つ。


「来ましたね」都久夫の表情が引き締まる。


遠雷のような音が、湖底から響いてくる。


「行きましょう」


三人は素早く立ち上がる。航は船着き場へ、湖春と都久夫は地下祭壇への階段へ。


「気をつけて」航が湖春に声をかける。


「あなたも」


別れ際の言葉を交わす間も、島全体の震動は強まっていた。


地下祭壇に降りていくと、いつもの青白い光が、今夜は不気味なまでに明滅している。水盤の水は渦を巻き、壁の古代文字が淡く光を放っていた。


「位置について」都久夫が湖春を水盤の前に導く。「私は向かいの祭壇で」


儀式が始まる。

都久夫の読経が、地下空間に響き渡る。

湖春は鈴を手に取り、目を閉じる。


すると――。


「!」


水中の景色が、意識に飛び込んでくる。

龍脈が、まるで荒れ狂う大蛇のように蠢いている。

その中心で、巨大な影が。

封印の鎖が、軋むような音を立てて。


『解放の時』


低い声が響く。龍神の声。

しかし、何かが違う。

この声は、かつて聞いたものとは。


「湖春さん、気をつけて!」都久夫の警告が響く。「これは...!」


水盤が激しく揺れ、渦が大きくなっていく。


カラン、カラン――。


必死に鈴を鳴らす。

しかし、水の流れが制御できない。

むしろ、どんどん暴走していく。


その時。


ゴォォォン!


轟音とともに、水盤から巨大な水柱が立ち上がった。


「きゃっ!」


湖春が後ろに弾き飛ばされる。

水柱は天井まで届き、そこから地下空間全体に水が降り注ぎ始める。


「これは...偽物です!」都久夫が叫ぶ。「本物の龍神様ではない!」


次の瞬間、水柱の中から、巨大な影が姿を現した。

龍の形をしているが、どこか歪で不自然。

まるで、誰かが龍の力を模倣したかのような。


『愚かな人間どもよ』


低く歪んだ声が響く。


「湖春さん!」都久夫が駆け寄ろうとするが、水の壁に阻まれる。


その時、湖春の耳に、かすかな音が。

遠くで鳴る船の音。

航の丸子舟の音。


「そうか...」


湖春はゆっくりと立ち上がる。

巫女装束は水に濡れ、髪は乱れている。

しかし、その目は強い光を宿していた。


「あなたは、偽物」


鈴を高く掲げる。

カランカランカラン――。


「本物の龍神様は...もっと...」


鈴の音が、水面に波紋を描く。

その波紋が、徐々に大きくなっていく。


「もっと、優しい声をしている!」


---


カランカランカラン――。


湖春の鈴の音が、地下空間に響き渡る。

その音は、まるで水面に落ちる雨粒のように、無数の波紋を生み出していく。


『貴様ッ!』


偽りの龍が咆哮を上げる。水柱が激しく揺れ、天井から岩が落ちてくる。


「湖春さん!」都久夫が叫ぶ。「その調べ、そのまま!」


鈴の音が、徐々に変化していく。

カラン、カラン、カラン――。

まるで古い記憶の中の音色。

千年前、巫女たちが奏でた祈りの音。


その時、湖春の意識に、新たな景色が広がった。


水面の下。

琵琶湖の最深部。

そこに見えるのは――。


「本物の龍脈...!」


青く輝く大河が、湖底で脈打っている。

その流れは穏やかで、しかし力強い。

まるで、大地の心臓の鼓動のよう。


「私にも見えます」都久夫の声が響く。「本物の龍神様の力が...!」


突然、地下空間の外から、船の音が。


「航さん...!」


丸子舟が放つ波動が、地下まで伝わってくる。

航が外側から、龍脈を整えている。


三者の力が、一つに重なり始めた。


『な、何をする!』


偽りの龍が暴れるが、もう遅い。

本物の龍脈の力が、地下空間に満ち始める。


湖春は目を閉じ、意識を水の流れに委ねた。

すると――。


『よくぞ気付いた』


温かな声が響く。

これこそが、本物の龍神の声。


『我が力を借りるがよい』


鈴が、自然と音色を変える。

カラン、カラン――。

その音が、水面に金色の文様を描き出していく。


「これは...」都久夫が息を呑む。「封印の真言」


古代文字が、水面に浮かび上がる。

それは丸子舟の船底に刻まれた文字と同じ。

そして、地下祭壇の壁に刻まれた文字とも同じ。


「詠唱します!」


湖春の声が、地下空間に響き渡る。

古の言葉が、自然と口をついて出てくる。


「月光照らす水底に

龍神眠る聖なる地

今ここに秘めし力のもと

再びの封印果たさん」


言葉が紡がれるたび、金色の文様が輝きを増していく。


『くっ...この力は!』


偽りの龍が苦しみもだえる。

その姿が、徐々に本来の形を現し始めた。


「あれは...」都久夫が声を潜める。「人の形...?」


水柱の中で、龍の姿が人型へと変化していく。

しかし、その正体を確認する間もない。


「封印!」


湖春が鈴を高く掲げる。

カランカランカラン!


金色の光が爆ぜ、地下空間全体が眩い光に包まれた。


「っ!」


目が眩んで、一瞬何も見えない。

耳鳴りのような音。

そして――。


静寂。


光が収まると、水盤は元の穏やかな姿を取り戻していた。

水面には、かすかな波紋だけが残る。


「やり遂げましたね」都久夫が近づいてくる。


「でも...あれは」


「ええ」都久夫が頷く。「誰かが、龍神様の力を模倣しようとした。しかし、本物の力の前では...」


その時、地上から足音が響いてきた。


「湖春さん!」


航が階段を駆け下りてくる。


「大丈夫でしたか!?」


「ええ」湖春は疲れた様子で微笑む。「なんとか...」


しかし、その言葉の途中で、膝から崩れ落ちた。


「っと」


航が咄嗟に受け止める。


「ありがとう...」


「無理もない」都久夫が言う。「初めて龍神様の力を受け止めたんですから」


三人は、水盤に映る天井の光を見上げた。

危機は去ったが、これが終わりではないことを、皆が感じていた。


「誰が...」航がつぶやく。「誰があんなことを」


「それを探るのが」都久夫が静かに告げる。「次の私たちの務めです」


---


夜が明けた竹生島。

宝厳寺の一室で、三人は向かい合っていた。


「お茶を」


都久夫が差し出した湯飲みから、温かな香りが立ち上る。

湖春は両手で器を包み込むように受け取った。まだ、わずかに指が震えている。


「昨夜の出来事について」都久夫が静かに切り出す。「整理しておきましょう」


航が懐から父の日誌を取り出し、新しいページを開く。


「まず」都久夫が言葉を続ける。「誰かが龍神様の力を模倣し、封印を解こうとした」


「でも、なぜ...」湖春がつぶやく。


「龍神様の力は強大です」都久夫の表情が曇る。「その力を手に入れようとする者が、古来より後を絶ちません」


「父の日誌にも」航がページをめくる。「似たような記述があります。二十年前、同じように封印が揺らいだことが」


「二十年前...」都久夫が目を細める。「ええ、あの事件ですね」


「あの事件?」


都久夫は立ち上がり、古い箪笥から一枚の新聞を取り出した。

二十年前の地方紙。見出しには「琵琶湖で謎の水難事故 三名が行方不明」とある。


「これは...」


「当時、封印を破ろうとした者たちです」都久夫が説明する。「しかし、龍神様の力は、そう簡単には制御できない」


航の手が、わずかに震える。

「父は...この事件のことを?」


「ええ」都久夫が頷く。「あなたのお父様は、船霊として封印を守っておられた。そして...」


言葉の続きは、沈黙に飲み込まれた。


その時、突然、湖春の鈴が音を立てた。

カラン――。


「これは...」


三人が顔を見合わせる。

次の瞬間、地震のような揺れが島全体を襲った。


「また!?」


しかし今度は、揺れとともに、どこからともなく声が響いてきた。


『見つけたぞ』


「この声!」湖春が立ち上がる。「昨夜の...」


『封印の在処が、ようやく』


都久夫が素早く立ち上がり、窓の外を見る。

琵琶湖の水面が、不自然に波打っている。

そして、遠くの水平線に、黒い影が。


「船...?」航が目を凝らす。


都久夫の表情が一変する。

「まさか...あの組織が!」


「組織?」


「かつて、龍神様の力を狙った者たち」都久夫が早口で説明する。「二十年前の事件の、生き残りです」


その時、湖春の体に、激しい痛みが走った。

「っ!」


巫女装束のお守り袋が、熱を持ったように脈打つ。

中から、古びた札が一枚、滑り出てきた。


「これは...」


都久夫が札を手に取る。

「龍神様からのお告げ」


文字が、札の表面に浮かび上がっていく。


「北の岬...」都久夫が読み上げる。「そこに、手がかりが...」


航が立ち上がる。

「丸子舟なら、すぐに」


「待って」湖春も腰を上げる。「私も行きます」


「危険です」都久夫が制する。「相手は、二十年も準備を重ねてきた」


「でも」湖春が鈴を握りしめる。「昨夜、確かに感じたんです。龍神様の本当の力を。だから...」


都久夫は、しばらく湖春の目を見つめていた。

そして、ゆっくりと頷く。


「わかりました。ですが...」

懐から、もう一つの鈴を取り出す。

「これを」


「二つ目の鈴...」


「代々、水見の巫女に伝わる対の鈴」都久夫が説明する。「本来なら、もっと修行を重ねてからですが...時間がありません」


湖春が、恐る恐る二つ目の鈴を受け取る。

左右の手に、一対の鈴。

カランカラン――。

二つの音が、不思議な共鳴を奏でる。


「行きましょう」航が声をかける。


窓の外では、黒い雲が琵琶湖の上空に集まり始めていた。

新たな戦いの予感に、湖春の心が高鳴る。


「気をつけて」都久夫が二人を見送る。「私は、ここで封印を守ります」


丸子舟が、朝もやの中、北へと舳先を向けた。


---


朝霧の琵琶湖を、丸子舟が静かに進んでいく。

航が櫓を操り、湖春は船首に立って、両手の鈴を軽く鳴らしている。


カランカラン――。


「波が...変です」航が声をかける。


確かに、水面の様子が普通ではない。

風もないのに、所々で渦を巻き、まるで何かが水中を泳ぎ回っているかのよう。


「龍脈が乱れています」湖春が目を閉じたまま答える。「誰かが...かき乱している」


二つの鈴の音が、水面に波紋を描く。

その波紋が、見えない何かを映し出す。


「これは...」


水中を黒い影が走っている。

龍脈に似ているが、どこか不自然で歪な流れ。

まるで、人工的に作られた水流のよう。


「注意して」航の声が緊張を帯びる。「父の日誌に書かれていました。『黒き流れは、偽りの道なり』」


その時。

ゴォォォ――。


遠くで、轟音が鳴り響く。

北の方角から、黒い雲が広がってくる。


「嵐...?」


「いいえ」湖春が鈴を強く鳴らす。「人が作り出した...」


カランカラン!


鈴の音が、黒雲に向かって放たれる。

すると、雲の中から人影が浮かび上がった。


「見えます」湖春の声が震える。「三人...いいえ、五人...」


黒雲の中で、何かの儀式を行っているような姿。

その手には、どこか見覚えのある道具。


「あれは...」航が目を凝らす。「鈴...?」


「偽物です」湖春が即座に答える。「本物の鈴は、こんな暗い音は出しません」


確かに、黒雲の中から響いてくる音は、不協和音に満ちている。

その音が、湖面を濁らせ、龍脈を歪めていく。


「このままでは...」


航が櫓を強く漕ぐ。

丸子舟が、波を切って進む。


その時。

ザバァッ!


船の横で、大きな水柱が立ち上がった。


「きゃっ!」


湖春が体勢を崩す。

航が咄嗟に彼女の腕を掴む。


「大丈夫ですか!」


「は、はい...」


水柱の中に、人影が見える。

黒い装束に身を包んだ姿。

その手にも、偽物の鈴。


『お帰りなさい』


低い声が響く。

「!」

航の体が強張る。


『二十年ぶりですね、航君』


「あなたは...」航の声が震える。「あの時の...」


『よく覚えていましたね』黒装束の人物が笑う。『あの日、あなたのお父様は、私たちの計画を邪魔した』


「父が...?」


『そう』声が冷たくなる。『だから、あのような最期を...』


「っ!」


航の手が震える。

湖春は、彼の表情が変わるのを見た。

悲しみと、怒りと、そして決意が、入り混じっている。


「許さない...」航の声が低く響く。


丸子舟が、不思議な輝きを放ち始める。

船底の古代文字が、淡く光を発する。


「航さん...」


『おや?』黒装束の人物が首を傾げる。『父親譲りの力が目覚めましたか』


その時、湖春の両手の鈴が、強く共鳴し始めた。


カランカランカラン!


「この音は!」


丸子舟の周りに、青い光の渦が形成される。

それは、本物の龍脈の力。


『なるほど』黒装束の者が腕を上げる。『では、力比べと行きましょうか』


黒雲が、三人を包み込むように迫ってくる。

琵琶湖の上で、新たな戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。


---


黒雲と青い光が、琵琶湖の上空でぶつかり合う。

雷鳴のような音が、水面を震わせる。


『見事な力です』黒装束の男が言う。『しかし...』


その手の偽物の鈴が、不協和音を奏でる。

ギィィン――。


黒い渦が、丸子舟を取り囲む。


「これは...」湖春が息を呑む。


水面から、無数の黒い手が伸びてくる。

龍脈を模した偽りの力が、形を得て襲いかかる。


「させません!」


航が櫓を強く漕ぐ。

丸子舟が、まるで生きているかのように動き、黒い手をかわす。


カランカラン!


湖春の鈴が響き、青い光の壁を作り出す。


『無駄な抵抗です』


黒雲の中から、残りの黒装束の者たちが姿を現す。

五人が円陣を組み、同時に偽物の鈴を鳴らす。


ギィィンギィィン――。


不協和音が重なり、渦は更に強まる。


「くっ...!」


青い光の壁が、徐々に押し込まれていく。


その時。

湖春の意識に、声が響いた。


『恐れるな』


龍神の声。


『水は、すべてを映す鏡』

『偽りもまた、真実を映し出す』


「真実を...映す?」


湖春は、黒い渦を見つめる。

すると、不思議なことに気付いた。


「航さん!」湖春が叫ぶ。「見えます?あの渦の中に!」


航も目を凝らす。

「これは...」


黒い渦の中に、かすかな光の筋が走っている。

まるで、ひび割れのよう。


「偽物の力には、限界が」湖春が理解する。「本物の龍脈に触れると...」


その時、航の目が輝いた。

「父の日誌に!」


彼は急いで、船底の古代文字の一つに手を触れる。

文字が淡く光り、丸子舟全体が震動を始める。


「これが、父の残した...」


『何を!?』黒装束の男の声が焦りを帯びる。


湖春は、両手の鈴を高く掲げる。

「今です!」


カランカランカラン!


純粋な音が、湖面に響き渡る。

その音が、黒い渦のひび割れに共鳴する。


バキバキバキ...!


渦の中に、大きな亀裂が走り始める。


『や、やめろ!』


黒装束の者たちが必死に鈴を鳴らすが、もう遅い。

偽りの力が、内側から崩れ始めていた。


その時。

湖春の意識が、水底へと導かれる。


そこには――。

本物の龍脈が、大きな輪を描いていた。


『我が力を、その身に』


龍神の声とともに、青い光が湖春の体を包み込む。


「詠唱します!」


古の言葉が、自然と口をついて出てくる。


「水底に眠る聖なる力よ

偽りの闇を照らし

真実の道を示したまえ」


両手の鈴が、まるで一つであるかのように共鳴する。

カランカランカラン!


その瞬間。


ゴォォォォォン!


巨大な光の柱が、丸子舟を中心に立ち上がった。


『ばかな...!』


黒装束の者たちの姿が、光の中に飲み込まれていく。

偽物の鈴が砕け散り、黒い渦が音を立てて崩壊していく。


「父さん...」航がつぶやく。「見ていてください」


光は更に強まり、ついに――。


パァァァン!


眩い光が、琵琶湖全体を包み込んだ。


そして。

静寂。


霧が晴れるように、光が薄れていく。

水面は、穏やかな姿を取り戻していた。


黒装束の者たちの姿はなく、ただ水面に、五つの鈴が浮かんでいる。

すでに、偽りの力は消え失せていた。


「終わったんですね...」湖春が膝をつく。


航が、彼女の肩を支える。

「ええ」


その時、二人の頭上で、小さな虹が架かった。

龍神様からの、最後の贈り物。


丸子舟は、ゆっくりと竹生島へと向かい始める。

朝日が、新しい一日の始まりを告げていた。


---


夕暮れ時の竹生島。

宝厳寺の境内で、湖春は一人、琵琶湖を見つめていた。

あれから一週間。平穏な日々が戻ってきている。


カラン――。


手の中で、鈴が小さな音を立てる。

今では、二つの鈴を使いこなせるようになっていた。


「ここにいると思いました」


振り返ると、航が立っていた。

手には、父の日誌。


「見つかったんです」航が近づいてくる。「あの日のことが書かれた最後のページ」


二人は縁側に腰を下ろす。

夕陽が、琵琶湖の水面を黄金色に染めていく。


「二十年前」航が日誌を開く。「父は、龍神様の力を守るため、最後まで戦ったそうです」


「それで...」


「ええ」航が静かに頷く。「でも、父は後悔していなかった。そう書かれています」


日誌の最後のページには、こう記されていた。


『我が子よ。

いつかお前が、この日誌を手に取る時が来るだろう。

私が果たせなかった使命を、お前に託すことを許してほしい。

だが、それは重荷であってはならない。

龍神様の力は、決して暴力のためにあるのではない。

水の流れのように、自然に、優しく。

そして、人々の心を潤すために。

私は誇りを持って、この道を選んだ。

お前もまた、自分の選んだ道を誇りに思えるはずだ。』


「父さん...」


航の目に、涙が光る。

湖春は、そっと彼の手に触れた。


「都久夫さんは?」


「本山に報告に」航が答える。「例の五つの鈴も、浄化の儀式のために」


風が吹き、木々が揺れる。

夕暮れの境内に、鐘の音が響く。


その時。

湖春の鈴が、不思議な音を立てた。


カランカラン――。


「これは...」


水面が、かすかに光を放つ。

龍脈が、穏やかに脈打っている。


『よくぞ成し遂げた』


龍神の声が、二人の心に響く。


『これより汝ら、新たなる守り手として』

『代々受け継がれし使命を』

『己が道として歩むがよい』


光が消え、声が遠ざかっていく。

しかし、その温かな気配は、しっかりと心に残された。


「私たちの道」湖春がつぶやく。


「ええ」航も頷く。「これからも、一緒に」


夕陽が沈み、最初の星が空に瞬き始める。

琵琶湖の水面に、月の道が浮かび上がる。


その時、遠くで船の音が聞こえた。

都久夫が戻ってくる丸子舟の音。


「行きましょう」航が立ち上がる。「新しい務めが、私たちを待っています」


湖春も立ち上がり、二つの鈴を優しく鳴らす。

カランカラン――。


純粋な音が、夕暮れの空に溶けていく。

それは、新たな物語の始まりを告げる音色。


琵琶湖の水底で、龍脈は静かに、しかし力強く脈打っていた。

これからも、この地を、この人々を、守り続けるように。


* * *


その後、竹生島には新しい伝説が加わった。


二つの鈴の音が聞こえたら、

それは水見の巫女と船霊が、

この湖を守っている証。


そして、時々、月明かりの中に

小さな虹が架かることがある。

それは、龍神様からの

そっとした祝福の印なのだと。


※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません

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