第六幕
「こんな…事が、現実にあっていいの?!」
佐藤先生は、スケッチブックを持ったまま立ち尽くす。
看護師達は顔を見合わせるが、俺を床に押さえつける手は緩まない。
「だから、頼む。俺に《《それを》》試させてくれ!」
俺は顔を、目一杯上げて佐藤先生を見た。
先生は口元に手をやったまま、固まっているようだ。
頼む。
俺は愛奈を助けたいだけなんだ。
「……め。駄目よ、優人君。これは駄目だわ」
「な、そんな!?佐藤先生!それが彼女を助ける唯一の手段かも知れない。なんで…」
佐藤先生はスケッチブックを机の上に置くと、俺の方を見た。
「リスクは犯せない。これをやるには、彼女の命を繋いでいる酸素吸入器を外す事になる。そんな事は出来ないわ」
「先生!先生もスケッチブックを見た筈だ。なら、それが彼女の」
「無駄よ、優人君。こんな非現実的な事を信じて私達医師が裁定を下す事はない。例え愛奈さん本人の意思であったとしても、それを証明する術は何もないわ。そもそもそんな不確実な事に、私達医療従事者が動くわけにはいかないの」
「そ、んな、バカな!彼女が俺に残した最後のメッセージなんだ。愛奈に約束したんだ。こんどは俺がお前を守るって!」
先生は首を振った。
駄目だ。
このまま此処を離れたら俺は二度と愛奈に会えなくなる!!
「う、おおおっ!」
「な、こ、この野郎!?」
「抵抗する気か?!」
俺は今、ガタイの大きい二人の男性看護師に押さえ付けられている。
恐らく俺が押さえ付けられている力は200キロ以上有るだろう。
だがだから何だ!
ずっと待っていてくれた愛奈に比べたら大したことじゃない!
今、俺は確信を持って言える。
ここで音羽 愛奈を助けられるのは俺だけだと言う事実を!
「う、うがあああああーっ!」
「ゆ、優人君!?」
「うお?!」
「な、なんで!?」
俺が、俺しか、俺だけが!
愛奈!愛奈!愛奈! 愛奈!愛奈!愛奈!
愛奈を助けられるのは俺だけ!
ドカァアアアーッ
「うわああああ?!」
「はひ!な、なんで、馬鹿力なんだ!?」
俺はいつの間にか、押さえ付けていた二人の男性看護師を吹き飛ばしていた。
「ゆ、優人君!?」
俺は茫然と立ち尽くす佐藤先生の前を素通りすると、愛奈のベッドの橫に立った。
「?!だ、駄目よ!止めなさい、優人君!」
俺は愛奈の呼吸器を外すと、愛奈の耳元で囁く。
「愛奈、遅くなった。俺だ。優人だ。《心から…君を…愛してる…》」
チュッ
俺は愛奈の口唇にキスをした。
ピカッ、ガガーンッ
その瞬間、窓の外が光り雷鳴が聴こえた。
この時期には珍しい季節外れの雷だった。
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◆佐藤医師視点
「まさかね。このような不思議な現象があるなんてね………」
私は彼女のカルテを机に置くと、その隣に置いてあったスケッチブックを開く。
そして最期のページを開き、大きく溜め息をした。
【未来予知】
人間の潜在的意識は未だ謎に満ちている。
私はきっと、あの時その神秘の立会人になったのだろう。
あの時の優人君の力もそう。
百キロ越えの二人の男性看護師に押さえ付けられた、見るからに一般的な細身の少年が最後に出したあの力、あれは一体何だったのか。
「何にしても、まだまだ今の現代科学や医療知識では、測れることの出来ない力が、この世には存在するって事よね」
私はスケッチブックを改めて見直した。
そこには、白い病室のような所のベッドに、【まな】と書かれた少女が横たわっており、そして王子姿の【ゆうと】と書かれた少年が、キスをしようとする姿絵が描かれていた。
しかも部屋には、それを見守る白い服の女性と二人の男。
白い服の女性は私、なのかしら?
「ふふ、眠り姫…かしら…ね」
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「お兄ちゃん、行ってきます!」
「ああ、気をつけてな、紬」
妹の元気な声が家の玄関先に響く。
心なしか妹が明るくなった気がする。
もう妹を脅かす者は、何処にも居ないと信じたい。
いつもの朝の風景。
この地方都市は豊かな田園地帯に囲まれ、その環境の良さから、様々な福祉施設が多く点在する。
その施設の中に特別支援学校もある。
障害者等が「幼稚園、小学校、中学校、高等学校に準じた教育を受けること」と「学習上または生活上の困難を克服し自立が図られること」を目的とした学校である。
俺は部活を止め帰りはいつも、この学校の校門で彼女を待つ事にしている。
彼女を自宅に送り届けるのが、今の俺の日課になっている。
「ゆうと!」
「こっちだ、愛奈」
彼女はその、長い髪をポニーテールにして、その愛らしい小さめの口で俺を呼ぶ。
その彼女の名前は《音羽愛奈》。
俺の最愛であり、今では俺の婚約者だ。
「ゆうと、ゆうと、ゆうと!」
「はい愛奈、ご苦労様。今日はちゃんとお勉強は出来たかな」
「うん、せんせいがね、わたし、とっても、よくできましたって、おはなのまるをくれたのよ」
「そう、良かったね。凄いぞ愛奈」
「エヘヘ、ゆうとにもほめられちゃった」
結論からいえば、あの日、音羽愛奈は目を覚ました。
だが彼女の記憶は五歳児当時のままだった。
《天の声》の事も、自分が長い間眠っていた事も、何も判らなかったのだ。
そして《天の声》は聞こえない。
恐らく二度と聞こえる事は無いだろう。
その後、俺は病院側や警察の事情聴取を受けるなど色々と大変だった。
しかし目覚めた彼女が俺にべったりで、彼女の御両親が俺の事知っていた事で、たいしたお 咎めにはならなかった。
そして俺は彼女の御両親に、俺の体験した事や、今後は俺が一生かけて彼女を守りたいとの決心を伝えたところ、涙ぐんで俺の決心を喜んでくれ、そして家族同士の面談の上、彼女との婚約が成立した。
勿論、当人同士の同意の上だ。
あの日俺は、病室で彼女の 口唇にキスをした。
そして僅か数秒後、まるで俺がキスをするのを待っていたように、彼女の瞳は俺の顔を映していた。
佐藤先生や看護師達が茫然と立ち尽くす中、彼女は俺に言った。
「【ゆうと】」
fin