ヨルのジャム 私たちのセッション
「お久しぶり、シーちゃん」
私は『魔女の館』の玄関でコー兄の奥さんにあいさつした。
グランマのお葬式で会ったのが12年前、その後コー兄との結婚式で会ったのが最後だから…何年ぶりかな。
切れ長の瞳、口元のホクロ、意思の強そうな美人であることは変化がない。とても三児のママには見えないくらい若々しいね。
「ハナちゃん。ホントに久しぶり!」
栞さんはすでに涙ぐんでいる。
庭先で二人、ぎゅっと抱き合った。
「えっと、…8年ぶりかな?」
私の問いに栞さんが首を振る。
「ううん…10年ぶり。ごめんね。長いことご無沙汰をしてしまって」
「仕方ないよ。中東の…ドーハか。長かったね」
「そうだね。その前がグラナダ、そのまた前がシャウエンで…結局10年ぶりの日本」
馴染みのない場所ばかりだなあ。どこ?シャウエンて。
「このお家の手入れとか定期的にやってくれてたんでしょ。大変だったでしょう」
栞さんがまた頭を下げた。
「気にしないで。私はここをアトリエにして勝手気ままに使っていたんで」
今の私は1年の半分くらいはニューヨーク、残りの半分を東京の実家と、この高原の家で過ごしている。
私とコー兄が栞さんと絵を描いて過ごしたあの夏から3年後の冬、グランマは前日まで元気だったのに翌日のお昼、冷たくなってカドノさんちのオバさんに見つけられたそうだ。ご近所に配る予定のジャムの瓶が並べられたキッチンテーブル、そのそばで姿勢良く椅子に座っていたという。
グランパが病気で亡くなって、たったの一ヶ月後の朝だった。
私は朗らかな笑顔の写真を見て、お棺の前で愚痴を言った。
「100年は大丈夫って言ったのに。約束と違うよ、ばあば」
少しあった畑や林などの不動産は遺言で街の教会に寄付された。
でもこの館だけはまだ高校生だった私が相続人に指名されていた。
父さんも母さんも、そしてコー兄も『当然そうすると思った』と言っていたので文句は出なかったけれど、ちょっとだけ困ったことも確かだ。
「あなたが必要ならばここの管理は私たちがお金を出します」
父さんと母さんが二人揃って言ってくれた。離婚後初の共同作業だと母さんが笑ったので、ありがたく頂戴することにした。
というわけで、何とか自分でこの館の管理が出来るようになった20代の半ばからは名実ともにこの『魔女の館』が日本での私の住所となった。
美大に在籍中に私の絵を気に入ってくれた人が結構いて、私は数回個展を開くことが出来た。さらに大学の先生の橋渡しもあって、ニューヨークの美術館や画廊に買い手がついたのだった。
…ということで拠点を半分アメリカに移して作品制作をしている毎日だ。
ニューヨークのアパートは狭くて高いけれど、パートナーとまずまず幸せに自炊生活をしている。グランマのお陰だ。
この館を維持するのはホントのこというと、ちょっと大変だった。でも時折ここに来て私の原点を振り返るのも必要なことではあったんだ。
「この数年、夏はこの近所の小学生集めて『魔女の絵画教室』やってるの」
「まあ、素敵!今年も?」
「うん、その予定。シーちゃんとこの子供さんは…?」
「ウフフ、もう三人とも小学生。先に古都の建築見物ですって。お義母さんの家でお世話になってて、3日後にはこっちに来るわ」
「建築…お寺とか神社とかじゃなくて。さすがに好奇心旺盛、コー兄の息子たち」
私の言葉に栞さんは初めて出会ったあの夏の日のヒマワリのように笑った。
「三つ子でワイワイ言いながら、今頃賑やかに歩いてますよ。お義母さんに申し訳ないわ」
庭先から玄関に向かうと燻製小屋があり、あの青い壁画もそのままだ。
「少し色が褪せたかな」
私が呟くと、栞さんが首を振る。
「そんなことないわ。…うん、そんなことない。鮮やかなままよ」
そして振り返って、真顔で訊いてきた。
「あの華ちゃん…」
「うん?」
「あの…弟のことだけど」
私はギクリとして笑顔が引き攣った。
「…」
「ご迷惑をおかけして」
栞さんが頭を下げた。
ニューヨークに旅立つ直前、私は突然コータくんからプロポーズをされた。
六つ下でまだ大学生の彼を弟のように思っていた、というか実際義理の弟だ。だからその求婚に私は正直驚いてしまい『保留!』と叫んだ。
ところが周囲に相談すると意外なことに、栞さん以外はみんな大賛成するのだ。
『あいつを捕まえて離すな。お前には最後のチャンスだ』と電話で失礼なことを言ったのはコー兄、そういうところあるよね、あの人。
母さんも友人もみんな口を揃えて『あなたの恋愛偏差値では二度とあんな優良物件を見つけることができない』と言う。
父さんが『早く決めてしまおう。何なら既成事実を』などとどう考えてもセクハラな発言をして、私は完全にひねくれた。父親というのはもう少し娘の結婚にナーバスになって、反対したりするもんじゃないの?
繰り返すが相手は6つ下の学生で血のつながりはないにせよ、弟なのだ。春から院に進んで『リョーシブツリガク』をさらに研究するという変人でもある。
コータくんは言った。
「ハナちゃん、芸術も物理学も世界の秘密を解き明かす入り口だと思うんだ。一緒に真理探究の冒険に出よう」
この時指輪を差し出されなかったら誰もプロポーズだとは気がつかないセリフだった。
ちなみにこの時渡されたのはホントに小さな石のついたリングで『ロンズデーライト』という合成物質だと彼は言った。『ダイアモンドより硬くて稀少なもので』とコータくんは言うけれど絶対嘘だろう。
…とりあえずこの時は一応お断りをすることにした。やっぱりそういう対象には見られなかったから。
「ホントに迷惑をおかけして…」
栞さんがチラリと下から私を覗く。
「アメリカまで追いかけてったって」
その後コータくんはコータくんでニューヨークの大学への留学を決めた。真理を追いかけるんだか私を追いかけるんだか、どっちかよくわからないけれど。
「コータも数日後にはこっちに来るらしいよ。あっちの大学でも忙しいみたい」
すでに私のアパートで一緒に住んでいることは言い出せないでいた。もう1年以上前からだ。
私は決めてるんだ。どう考えても浮世離れしている彼は私が支える。自分で決めた好きなモノを大切にしてほしい。
「ハア」
栞さんがため息を漏らした。バレてる?
それからハッとして口に手を当てた。
「いけない、あんまり懐かしくて忘れてた。もう浩介さんも来てる。『屋根裏で待ってる』そうよ」
「もう来てる…の?」
ドクン!と私の胸が大きく鼓動する。
少しだけ栞さんが口を尖らせる。
「二人の間にはやっぱり他人が入れないところってあるわ」
「そんなこと」
私は言いかけたが、間違いではない。すぐにでもコー兄がいる屋根裏に飛んでいきたい。
栞さんが笑う。
「大丈夫、ちょっと意地悪したくて玄関先で長話ししてみたの。ごめんね」
「もう!シーちゃんは!」
「早く行ってあげて。きっと痺れを切らしてるわ」
私は自然と早足になり、玄関から階段を上がる頃には駆け足になっていた。
どういうことか、いつの間にか私の服装はあの中学生の時の冴えないジャージだ。
あれ?いつ着替えたっけ?そもそもこの寝間着代わりのジャージなんて随分昔に捨てたはずじゃ…
壁にかかる3枚の絵、母さんのと私の、その横にあの夏に描かれたコータくんの絵。
少し古びてきていたはずの全てのものがあの夏の頃と同じ色合いに戻っていた。
私は中学生の時と同じ身軽さで屋根裏まで駆け上がる。
不思議なことに、もう夜の帳が降りていた。
さっきまで青空の下で栞さんと話していたはずなのに…
屋根裏部屋からオレンジ色の光が漏れている
あのときのままだ。あのときのままだ。
…本当に!本当に!…本当にあの頃のままだ!
階下からグランマの煮詰めるジャムの匂いが漂ってくるような気がした。
少しだけ埃っぽい屋根裏。
私とコー兄の領域を分ける水色のカーテン。
私は自分のベッドに飛び込む。
当然のようにカーテンの向こうに懐かしい気配があった。
「ぐわし」
親指と中指、小指の3本を立てた謎のポーズでコー兄の手が突き出された。
熱いものがこみ上げ、声が震える。
「…何ですか?生徒会長」
カーテンを開けるとそこに高校2年生のコー兄がいて、ニヤリと笑った。
「驚いた。昔のまんまだな、ハナ」
コー兄が自分と私の姿を交互に見て言った。
「…うん」
私はぎりぎり涙を堪えて頷く。
「あのな、ハナ」
「うん」
視界が滲んでよく見えない。
「僕はグランマはやっぱり魔女だと思うんだ」
…そういうとこ、私はコー兄のそういうところが。
読んでいただきありがとうございました。
ずっと『ジャムの話』を描きたい…いや、書きたいと構想していて何とか形にすることができました。
とにかく私は「ばあちゃんの話」に弱いので今回も『グランマのお葬式』と書いた時点で涙腺が緩みました。どういうことでしょう。
…あと、いつかコータくんの話で続編を書きたいとは思っていますが、まあ今の時点で。