コウメのジャム 高原キャベツのオイル焼き
「グランマ、なぜ僕は勉強をしなくちゃいけないんだろう」
コー兄が大きな欅のテーブルに頬杖をついたまま、唇と鼻でシャーペンを挟みながら言った。
そんなポーズはマンガでしか見たことがない。
グランマはジャムに使う小梅のヘタを取りながら、さほど興味がなさそうに兄を見た。
「しなくちゃいけないンデスか?」
コー兄はこの世の終わりのような表情で嘆く。
「来年は受験なんだよ、グランマ。夏休みだというのに、ここに勉強道具を持参している僕を褒めてほしい」
「ふうん」
グランマはそんな風に流して再び小梅に目を落とした。
「偉いデスね。勉強が好きで」
私は吹きだした。
「ヨカッタですね、コー兄。勉強好きってほめられて」
少しだけ兄は真面目な顔で祖母に尋ねた。
「グランマ、僕が勉強好きに見える?」
「大学に行くのは勉強が好きな人です。違うのデスか?」
彼女の視線の先にはやはり廊下の2枚の絵がある。私は気がつかないフリをする。
小梅のヘタを取るのは面倒な作業だ。集中したグランマはその後もう顔をあげない。
「いい大学に行って誰かの役に立つ仕事をして…そういう将来を実現するために」
返事をもらうことを諦めたコー兄も顔をあげず再び問題集と格闘を始めていた。
「人は悩むことで前進する。越えられる困難しか人生には与えられない。ブツブツ…」
何言ってんだかわからないけど、名言ぽいことを口ずさむ。そういうとこあるのだ、このヒト。
ただ勉強が嫌になっただけじゃん。
まあやれば出来る兄だ。(と風の噂に聞いた)
その後グランマはキッチンに移動していって、小梅を流水で洗う音だけが家に響いた。
朝釣りに出かけた祖父が帰ってきて、そろそろランチの時間だ。
私はいつの間にかリビングの低いハンモックでウトウトしていた。
お腹の上にある読みかけの文庫本に庭で拾った葉っぱを挟む。
簡単に見えてハンモックからスッと立ち上がるにはコツが必要だ。
私も兄も最初は床に転がり落ちた。
まず寝転んだままハンモックを挟むような格好で床に両足を下ろす。
それから上体を起こし、立ち上がってからハンモックを乗り越えるのだ。
キッチンで声が聞こえる。
「ただいま、カミーユ」
「マーくん、お帰り」
「ちゅっ♡」
なーにがマーくんだ、と思うがグレタガルボ似の(兄の見解)グランマの風貌でそれをやられると違和感はない。祖父の方もワイルドサンタクロースの大男だし。
「華、浩介。帰りがけにホンダさんのところでキャベツを貰ったから昼はこれだ」
グランマ、朝釣りの方はどうやらボーズだったらしい。サンタで坊主で宗旨が不明だけど。
「キャベツ…」
「またキャベツか…」
私たち二人の声に抑揚はない。あまり十代が熱烈に好きな単語ではないと思う。
どこのホンダさんか知らないけれどごめんなさい。
でもその後私たちはこの絶品キャベツに悶絶する。
グランマがバゲットを切って、テーブルの中央に盛る。横には作りたての小梅ジャム。
そしてグランパが大皿にのせて運んできたのは四分の一にカットしてオーブンで焼いたキャベツどっさりだ。
「ううう、何だ。このいい匂い」
コー兄が自分の取り皿を両手で抱えたまま覗き込む。
キャベツにはオリーブオイルと塩胡椒だけ、焼き目がこんがりとついていて湯気があがっている。
「夏の高原キャベツは柔らかくて、しかも葉の厚さがあるから加熱することで甘みが出る。うめえぞ」
グランパがそう言いながら取り分けてくれた。
「美味い!ただのキャベツなのに…めちゃ旨い!」
単純な味付けがかえってキャベツの甘さや旨みを際立てる。
青臭さはまったくなく、歯触りはむしろホクホクした感じだ。
コー兄はすぐにおかわりした。午前中、生き方に疑問を抱いていたくせに。
私もゆっくり味わい、それからグランマ特製のバゲットにこれも出来たて手作り小梅ジャムをのせた。
「!……酸っぱい!」
「梅ジャムは酸っぱいから美味しいのデス。あんまり甘くし過ぎちゃダメ」
グランマがそう言って微笑みながらコー兄を見た。
そうだね。甘やかすとつけあがるからね。
それにしてもこのジャムも絶品だ。熟した梅の香りが食欲を煽り、口に入れる前よりもお腹が空いたような気がする。ストレートなキャベツの味をまったく邪魔しない、と言うよりオリーブオイルのコッテリ感を荒い流してくれるみたい。美味い、美味い!
「うん。酸っぱいけれどすごく爽やか。このバゲットとキャベツ、止まらないね。あれ?」
山盛りキャベツの下から焼き目のついたソーセージが出てきた。
「うわっ!お宝発見!」
「タンパク質も大切だからな」
サンタが白髭をなぜながら得意そうに言う。
「う、美味そう!」
コー兄は素早く自分の分を確保して頬張った。
パキッといい音がする。
「これは…絶品だ。ドイツ北部の風が吹いてきたような気がする」
ドイツ行ったことないでしょ、アンタ。コー兄は例によって知ったかなのだ。
「グランパ、これもグランパが…?」
私の声にグランパは被せ気味に返事をした。
「ワハハハハ、これは街のスーパーで買ったシャウエッセンだ。特売だったぞ」
『何だ、これはあのこ汚い燻製小屋で燻したものではなかったんだ』とコー兄が呟いて、グランマが笑いを堪えた。
洗い物をしながらグランマに尋ねてみた。
「グランマ、ヤモリをスープに入れたりする?」
グランマがキョトンとした後、笑い出す。
「ヤモリの黒焼きは滋養があるそうですから、今度入れてあげまショウ」
「い、いらない。いりません」
私はお皿の拭き上げをすべて終え、布巾を片付けながら首を傾げた。
「じゃあ…コー兄が見たヤモリって…?」
「昨日の晩のスープですカ?」
グランマは腰をかがめゴソゴソと流し台の下を探った。
「これデしょうかネ?」
それは只の小魚だったが…手があった。
「あれ?手じゃ…ないね」
祖母はまた笑い出す。
「コースケは面白いですね。これが爬虫類に見えるトハ」
よく見たら魚の側面についているのは羽根だった。
「…トビウオ?」
「そうデス。『アゴダシ』ですネ。いいお味だったでしょう。ええと…」
グランマがトビウオをしまいながら、またキッチン下をゴソゴソしている。
「何してんの?グランマ」
そう言った私の鼻先に黒い何かが突き出された。
「これデスね。ヤモリの黒焼き、だいぶ前に乾かしてから焼いてみました」
私は鼻先でヒラヒラする爬虫類のなれの果てに悲鳴をあげた。
午後、私は近くの川に遊びに行くことにした。
小学生以来の『家で服の中に水着を着ていく』作戦だ。
「何だ、受験勉強の僕を置いて遊びに行く気か。冷たい奴だな」
コー兄が相変わらず欅テーブルで『難関大学突破用難題集(本人談)』に悶絶しながら上目遣いに私を見る。
「コー兄は今日一日は勉強の日って決めたんでしょ。アフタヌーンティーを楽しみに頑張りなさい」
私は麦わら帽子を被って、水筒とタオルの入ったバッグを肩に引っかける。
「むう。地元の子供達と一緒にな。溺れるなよ」
「コー兄は問題集に溺れてなさいね」
二人のやりとりにキッチンからグランマも顔を出した。
「後で私がクッキーとアイスティーを持っていきマス。外でピクニックティータイムにしましょう」
私は嬉しくてスキップする。
「うーん、素敵!やったね!」
「グランマ…僕の分は?」
「コースケの分はここに置いてってあげるから、問題集が一段落ついたら食べるといいデス」
ニコニコとグランマが告げると兄は天を仰いだ。
「オーマイグランマ」
私はスクール水着のままレジャーシートに座って、グランマの焼いてくれたクッキーに齧り付いた。サクサクと歯触りが良く、いつものクッキーよりは甘いように感じる。
彼女によればアーモンドの粉を混ぜてよく冷やすのが歯触りのいいクッキーを作るコツだそうだ。
グランマが一緒に小川で遊んでいた地元の小学生に『ホラホラ、食べなサイ』と気前よく分けてから、スカートを畳んでシートに優雅に座った。
ふと気がつくとちょっと離れたところで一人の男の子がじっとこっちを見ている。
貰いそびれちゃったのかな?
私にはその間の悪さや気の弱さがよくわかる。自分と同じだからだ。
私はグランマに一言ことわって、彼にクッキーをあげに行った。
「はい、よかったらこれ、食べて」
「…え」
男の子がビックリした顔で私を見上げた。小学校の低学年かな。
「美味しいよ。グランマのクッキー」
男の子がニッコリと笑って離れていくのを見送って、私もグランマの横に座った。
「ねえ、グランマ。他にコツはある?クッキー焼くの」
グランマがいつもの美味しい紅茶を一口啜る。
「生地をあんまりいじらないことデスかネ。バターや砂糖の風味を活かすためには」
私はクッキーに小梅のジャムをちょいとのっけて口に入れる。
「酸っぱい!美味しい!」
「男性陣にはイマイチの評判でしたガネ」
「そんなことないよ。コー兄はガツガツ食べてたし」
「あの子は何でもガツガツ食べるネ」
グランマが表情を変えずに言ったので私はまた吹きだした。
しばし私たちがクッキー談義をしていると、近くに私と同年代くらいの女の子が近づいて来た。
後ろにさっきの男の子が隠れている。
「あの…」
「おや、どうしましたカ?」
「あの、弟にクッキーありがとうございました」
グランマの顔を正面から見て、女の子の顔に戸惑いがあった。
日本人には見えないかもしれないね。
グランマが私の方を見て微笑む。私は少し緊張しながら続けた。
「大丈夫です。うちの祖母はあちこちにクッキーをあげたいヒトなんです」
「まあ!」
グランマが笑う。
「あなたもひとつ、どうデスか…と。品切れデシタ、スミマセン」
空の紙袋をひっくり返してグランマが両手の平を上に向けた。この仕草は欧米人だよね。
「とんでもない、ホントに。弟に聞いたらお礼をしっかり言ってないっていうから」
彼女は弟の頭に軽く手を添えてお礼を促す。
「…んと、えっと」
それから一息深呼吸し、頬を赤くして言う。
「お姉ちゃん、おばあちゃん、ありがとう」
可愛らしくて照れくさそうなセリフに私は心が温まる。
もう一度頭を下げ、手をつないで去って行く二人の後ろ姿にグランマが声を掛けた。
「お嬢さん、今度はあなたも一緒に食べマショウね」
「ねえ、グランマ」
紅茶を貰って、まったりしながら訊いてみた。
「やっぱり大学は行った方がいいのかな?」
やっぱりグランマはさほど興味が湧かないのか、小川の方を眺めながら微笑む。
「勉強をやる動機は何でもいいと思いマス」
「うん」
「でも自分の進む道を人に決めてもらうのはダメ。自分の好きな物は自分で選ぶ。やりたいことは自分の気持ちに正直に」
そう言ってグランマが私の胸を手のひらで優しく押した。
「華は…まだ絵が好きデスか?」
「…」
私は答えられない。嫌いになったわけじゃない。気持ちが奮い立たないんだ。
「私はあなたの絵がダイスキなんデス」
グランマの微笑みが私にはちょっと痛かった。
「ぐわし」
カーテンの向こうから手が出てきた。例によって3本の指が立っている。
私はカーテンを少しだけ開けて、パジャマの上半身をコー兄側のクッションにのせる。
「本日の議題は何でしょうか、コースケくん」
コー兄は今日もクソ真面目な顔だ。
「なあ、華。グランマはやっぱり魔女だよな」
「…またですか」
「グランパがいなくなった」
「…え?」
「昼食の後から姿が見えない」
「ふうん。また釣りじゃないの?」
私は欠伸をしてカーテンを閉めようとした。
小川で地元の小学生男子と遊んだため体力を消耗した。早く寝たい。
コー兄が押しとどめる。
「まあ、聞けって」
そしてキョロキョロと周りを見渡した。
「盗聴されていないか注意だ」
ここにも小学生男子がいた。
「今日お前が小川にアホの子のようにスキップして出て行った後」
「お休み、また明日」
私はカーテンを閉めた。
「スマン、スマン。ごめんなさい。聞いてください、華さん」
コー兄がカーテンの隙間から両手だけ出して合掌した。
その懇願に私は再び笑って天岩戸を開けた。
「はい、領空侵犯。ウフフフ、明日の洗濯もよろしく」
「受験勉強に毎日の洗濯と掃除…何という生活苦だ」
それほど嫌そうでもなく、そう言って続ける。
「だから、華が出て行ってから、いつの間にかグランパも消えた。釣り道具は消えてない」
「じゃあ、ホンダさんとこで麻雀じゃない?前もそうだったし」
「この時間にも帰ってきてない。そしてだな…」
兄がここで切って、充分に溜めてから言う。何だか鬱陶しい。
「台所には大量の茶色いジャムが!」
私はたまらず爆笑した。
「グランパのジャム?アハハハハハ!」
「それだけじゃないぞ。夕飯の後、グランマが庭で『ごめんね、マーくん』と拝んでいた」
そこまで言うとコー兄は天井を見上げて、それからまた私を見た。
「恐ろしい。サバでジャムを作るばあちゃんだ。人間で作るのもお手のものに違いない」
何という馬鹿馬鹿しい想像力…『あれはホントはパテとかテリーヌとか呼ぶ』というグランマの言葉を伝えるまでもなく、『恐怖のグランパジャム』を主張する兄の顔を呆れて眺める。こんなヒトだったかな?
「あのさ、華」
馬鹿話の後、急にコー兄の口調が変わった。
ちょっと話しにくいことを言うときの顔だ。
「そっちの家のほうは大丈夫か?」
突然だな。
「私は大丈夫。何?急に。私変だった?」
「いや、そんなことない。父さんも変わりないんだな」
兄があまり目を合わせようとしない。
「同じだよ。いつも私に気を遣ってるかな。母さんは?」
コー兄が微笑む。
「うん、元気だ。華のことを気にしてる。元気かどうかって」
「うん」
「華は…」
(一度会いに来たらどうだ)っていう顔だ。
「私はいいよ。そっちのパパがいい気分じゃないでしょ」
コー兄の顔は何故かつらそうだ。
「そういう風に気を遣うところがお前も父さんと似ている」
「…」
私が黙っているので兄が続ける。
「僕は大学に行ったら家を出る」
「…家に居づらいの?」
コー兄が笑った。
「そんなことないよ。優しくしてもらってるし、大学の学費も心配してくれてる」
「うん」
「ごめんよ。父さんのこと、まかせてしまって」
「それはコー兄も同じじゃん。母さん結構口うるさいし」
両親の離婚後、私は父さんと暮らしている。兄は母について出て行った。
二人で示し合わせたわけじゃない。でも何となく兄が母の方に行くと決めたとき、私は父さんの側にいてあげたいと思ってしまった。でもこれは別に同情だけじゃない。
…私なりにあっちに行きたくないという事情もあったんだ。
「華…」
「うん?」
「いつか…お前が笑って絵を描けるといいと僕も思う」
「…」
「でも別に描かなくても、それはそれでいいと思う」
「うん」
私は素直に頷いた。
二人でしばらく父さんと母さんの様子について情報交換をし、話が意外と早めに尽きてお互い欠伸した顔を見合わせる。
アハハと微笑みあって、私はカーテンを閉めた。
この家の廊下に並んでいるのは私と母さんの絵だ。
仲が良くて趣味の似た親子に見えるのかもしれないな。
ランプを消した暗闇で私はもう母さんの顔を忘れかけていることに気がついた。
それがいいことか悪いことか、ボンヤリ考えているうち眠くなってきた。
まあいいや、どうでも。
明日のジャムは何かな?新作かな?でも昨日のコケモモもいいな。
地元の小学生たちは何であんなに警戒せずに余所者を受け入れるかね?
お姉ちゃんと弟っていうのも悪くないね。あの娘は同学年くらいかな?
やっぱり同じくらいの子と喋るのは緊張する…私も成長しないね。
…そういやグランパは本当にジャムに…いいや、テリーヌになっちゃったのかな。
フフフ、コー兄は…変わらないな…嬉しいな…Zzzzzz
読んでいただきありがとうございます。
じいちゃんはホントにジャムになったのかどうか、次回謎?が解き明かされます。
大きな事件は起きませんが、少しだけ揺れ動く兄弟の休暇と美味しいジャムの話を楽しんでいただければ嬉しいです。次回、多分週末に投稿します。よろしければ。