花壇の悪役令嬢様
ミニひまわりを植えたんですが、全然花が咲かなくて、カッとなって書きました。
「そんな木の根元で、何をしてますの?」
僕には好きな子がいた。身分違いで、高嶺の花で、僕とは住む世界が違う侯爵令嬢様。クルクルと癖のある金髪と、雲一つ無い秋空を思わせる瞳が綺麗だった。
彼女は誰にでも厳しかった。
『遅刻ですよ!休み時間もまともに守れないの!?』
『身分を理由に虐げるなんて、貴方それでもここの学生ですの!?恥を知りなさい!』
『才能を言い訳にして勉強をサボる位なら、平民に堕して肉体労働に精を出すことね』
服装が乱れていれば厳しく正し、言動の乱れを許さず、貴族としての正しい振る舞いと能力を強要する人だった。
「土だって学園の所有物よ。花を植えたいなら、そっちの花壇か、寮の自室でやりなさいな」
厳しい物言いと、反論を許さない上級貴族令嬢の正論に、誰もが嫌悪感を抱いてきた。
でも、僕はその子の真っ直ぐさが好きだった。
正しいことを正しいと言って、間違いを直そうと躍起になる。そんな彼女の虜だった。
「弔っているんです」
関心を持ってもらえたことが嬉しくて、賢くもないのに、つい遠回しな言葉を選んでしまう。
「何を?」
こうやって少しでも、会話を続けていたいから。
「魔鳥の雛です。魔物は強く育たない子を必要としません。初めから弱い雛は、親から捨てられて、終わりです」
土の下に埋められた雛を思い、花壇の隅で咲いていた野草の花を添える。どうか、せめて、次は魔鳥以外の生き物に生まれ変われますように。
「不合理だわ」
「何がですか?」
「雛が弱いのは当たり前よ。強い大人になるまで、待ってあげればいいのに」
それも正論だ。でも。
「……もしも餌が一つだけ手に入ったなら」
「えっ?」
僕と君の、どちらかを選ぶしかないなら。
「期待できる方に、餌を与えるものです」
「貴方でもそうしますの?」
どうだろうか。そんな強い立場には、多分なれない気がする。
「……わかりません。でも、弔う側でありたいとは、思いますね」
「……そう。終わったなら、手の土を洗い落としなさい。次の授業が始まりますわよ」
死体に触った手は不潔だから、とは言われなかった。学園に墓を建てるなとも、言わないでくれた。
「はい」
それが彼女の、本来の優しさだと思った。
教室に戻ると、僕の座席のすぐ傍に人集りが出来ていた。目的はもちろん、僕ではない。僕の席の左後ろに、公爵子息様の席があるからだ。
だけど午後からではなく、お昼前に登校されているのは、結構珍しい。
キャーキャーと高い声を響かせる女子群の中には、彼女の姿もあった。
「アリューゼ様、今日はお時間を頂けますか?」
彼女は取り巻きの中にいるときは、いつも無表情だ。
「うん?なにかな、クラリス。婚約者同士なのだし、君とはいつでも会えるだろうに」
彼女を名前で呼んでいいのは、公爵子息様と教師だけだ。他の人は名字の方で、"様"を付けて呼ぶ。
「そういう意味ではなく……」
「逢瀬が足りぬのであれば、放課後で予定を組もう。学園でしか触れ合えない子も多いのだ。今は許せ」
「……はい」
二人は婚約者同士だけど、色んな面で対照的だ。
正論で敵を作りがちな彼女に対し、アリューゼ様は寛容と許容で友人を作り続ける。アリューゼ様が未来の夫でもあり、何かと彼女のブレーキ役になっているからか、自然と皆もアリューゼ様を頼るようになっていた。
だけどそんな二人だから、アリューゼ様の婚約者として、彼女が本当に相応しいのかと疑問視する声も多い……らしい。もっとアリューゼ様に相応しい、優しい女の子と結婚すべきだとか、そんな無責任な意見も聞こえている。たぶん、彼女の耳にも。
男爵家の末っ子に過ぎない僕には、あまりにも縁遠く、そして関係性の薄い話題だ。だけど。
「……好きなんだったら、仕方ないじゃないか」
胸から飛び出そうと暴れていた一言を、飲み下すことが出来なかった。
お昼過ぎ。いつもの花壇にやってきた僕は、今朝こっそり設置した魔鳥の墓に手を合わせた。
花壇と言っても、大きなものではない。そもそも僕が手入れをするまで、ここは雑草が生い茂っていた。かつて花壇があったことを、古参の先生たちでさえ忘れていたくらいだ。
こことは反対側に植物園と呼ばれる、別の大きな憩いの場があって、皆はそっちを使っている。僕がここに気付いたのも、本当にただの偶然だった。
そこで先生にお願いして手入れ係を務め、密かにここをマイガーデンにしていたというわけだ。
……そういえば、彼女は今朝、どうしてここに来ていたのだろう。
「……ぐすっ」
そんな心の声が、どこかに届いたのかもしれない。女の子のすすり泣きが、花壇の方から聞こえてきた。
「……ヒック……うぅっ……」
木の裏にいたから、気付かれなかったのだろうか。あの子が、花壇の前にしゃがみ込んで、独りで泣いていた。
信じられない光景だった。いつも真面目で、太陽のように怒り、規範であり続けた彼女とは、あまりにもイメージが違いすぎた。
「もう……やだぁ……!やだよぉ……!」
……あの子も、涙を流すのか。
「っ!?誰!?」
見惚れていたせいで、隠れるのを忘れていた。すぐに観念して両手を上げて命乞いをする。
「……あなたは」
「すみません、墓参りをしてました。覗くつもりは無くて」
僕であることに失望したのか、彼女はため息とともに、花壇へ目を背けた。
「ぐすっ……いえ、ごめんなさい。そうよね、ここは私だけの場所じゃないんだったわ」
「……もしかして、お嬢様は前からここを利用されていたのですか?」
「……貴方も、なの?」
「ここは僕が手入れをしているんですよ。早朝と夕方に、水やりをしています」
お昼はここではなく、食堂か植物園にいることが多い。ちょうど彼女とは、使う時間がずれていたのか。
「そう、だったの……」
「ええ、土いじりが好きなんです」
「……でしょうね。だってここの花、いつ来ても綺麗だもの」
それは良かった。僕に見られるよりも、彼女に見られた方が花も喜ぶだろう。
「お気に召して頂けましたか」
「ねえ、さっきの話だけど」
……覗き見をしたことについてだろうか。命乞いの時間は、まだ終わっていなかったらしい。
「……先程は大変失礼いたしました。僕は普段であれば、昼には来ません。どうぞこれからも、心ゆくまで――」
「そ、そうじゃなくて!」
違うの?
「なんで、私のことをお嬢様って呼ぶのよ?皆みたいに、普通に呼べばいいのに」
「……何となく、です」
本当は違う。……名字を呼ぶだけでも、心臓が破裂しそうになるからだ。それにお嬢様呼びであれば、彼女が遠い存在だと再確認できる。
間違っても、彼女に告白しようと思わないための、自己防衛手段だ。
「ふーん……ねえ、貴方の名前は?」
「ヘンリクセンです」
男爵家にしては、大袈裟な名字だとよく言われる。
「姓の方は知ってるわよ。名を聞きたいの」
彼女の記憶に僕の名前が残るなんて、あまりにもおこがましいのではないか。姓を覚えてもらえてただけで、こんなにも嬉しいというのに。
「ど、どうしてですか?僕の名前なんて……」
「何となくよ」
……最強のお言葉だ。
「私は、クラリス・ローゼンベルト。貴方は?」
「……ニコルです、お嬢様。ニコル・ヘンリクセンです」
「そう、よろしくねニコル君。ここでは私のことを、クラリスと呼びなさいね」
「そ、そんな恐れ多い!他の皆さんに聞かれたら、どう思われるか!」
ていうか万が一にも公爵家に知られたら、不敬罪によって比喩抜きで首が飛びかねない。
「ここなら花以外には聞かれないでしょうに」
流石は正論家だ、反論しにくい……!だけど問題はそこだけじゃないんだ!
「そ、そういう問題でも、なくてですね……!」
「じゃあ、どうして?私が良いって言ってるのに」
「き、緊張し過ぎて、ま、まともに話せなくなりそう、だからです……!ロ、ロ、ローゼンベルト、樣……!」
これだけで全身が震えてるのに、名前呼びなんてしたら死んでしまう!
目を丸くする彼女は、とても愛らしかった。きっと目に入れても痛くないはず。今は舌をかみまくって、激痛に襲われているけど。
「そう。まあ、それならそれでいいわ」
「はいっ」
「また来るわね」
そう言って校舎へ戻る彼女の口元は、ほんの少しだけ上がっていたように見えた。僕の見間違いかもしらないけど。
……ていうか、また来るって言った?なんで?まさか僕に会いにか!?
「い、いやいやいや、調子乗るな……!花だよ、花を見に来るんだって……!」
次に来たときには、ちゃんと好きな花を聞いておかないと。
婚約者であるアリューゼ様が、彼女と一緒に過ごしているのを、僕は殆ど見かけたことがない。多分、僕だけではなく、クラスメイト達も同じだろう。
翌日もアリューゼ様の周りには女子が集まり、その中に彼女も混じっていた。
でも昨日と違って、今日は笑顔だ。声を出して笑うわけでは無いけど、アリューゼ様からの声掛けににこやかに応じられている。最近なにか良いことがあったのだろうか。
二人は理想的な婚約者同士に見えた。人気者のアリューゼ様と、アリューゼ様に集まる女子を受け入れる彼女からは、上級貴族特有の高貴な空気を漂わせていた。
やっぱり住む世界が違うのだ、彼女達と僕では。
そしてその日の昼は、花壇には僕以外誰も来なかった。
放課後、花壇への水やりを終えた僕は、ジョウロをいつもの倉庫にしまった。転生者と呼ばれる天才がこれを発明するまでは、木桶に手を突っ込んで水を撒いていたらしい。色んな発明があったらしいが、僕にとってはこの道具が一番便利で有り難い。
水を浴び、夕陽でキラキラと輝く花と、彼女の涙が重なった気がした。
泣いてる彼女が衝撃的過ぎて、聞きそびれたけど……どうしてあの子は、あの日泣いていたのだろう。
「あら?」
うぇ!?
「もう水やりは終わっちゃったの?」
「は、はい」
昨日もそうだったけど、彼女からは足音がしない。姿勢が良すぎて、足に体重が乗ってないんじゃないか?
「まさか、放課後にいらっしゃるとは思いませんでした」
「朝と放課後にいるって言ってたじゃない」
むむっ……いや、それは君が一人で過ごせるようにと……。
「折角なら水やりのお手伝いをしたかったのだけども」
「えっ?お嬢様も、土いじりがお好きなのですか?」
彼女の頬がむっと膨らんだ。かわいい。……いやいやいや、そうじゃないか。えーっと……。
「ロ、ローゼン、ベルト、様も……?」
「噛みすぎでしょ……次来るまでに、名前呼びの練習しときなさい、ニコル君。そうね、土は触らないけど、花は好きよ。部屋に飾った花の水やりも、たまにするの」
たまにかー……たまにだと、普通に枯れるんじゃないか?その辺はメイドさんとかがいい感じにフォローしてるのかな。或いは多肉植物か?
それにしても、たまにでも自ら水やりをしてるなんて驚きだ。
一般的なご令嬢は、花の希少性や庭の手入れ具合を楽しみ、自慢するものである。そして手入れは全部他人任せで、一切やらないご令嬢の方が多数派だ。
なお貴族子息でありながら、毎日花壇の水やりを欠かさない僕は、相当の希少種だろう。
「どんな花がお好きなのですか」
「そうね……これとか、これとか」
ふむふむ……コスモスと、ダリアと……。
「あと、これも好きよ」
マーガレット、か。
「意外と庶民的なのですね」
「そうね。でも、好きなんだから仕方ないでしょ?」
「たしかに」
それなら仕方ない。
「例えばもっと高貴な……ルビーカナリアや、ダイヤローズなどはいかがです?夜会でもよく話題に挙がる、最近流行りのマジックフラワーだそうですが」
「ギラギラした花は好きじゃないのよ。自分が美しいと自覚してるみたいで、近寄り難いわ。貴方は好きなの?」
「好きなら、もうここに咲いてますね」
「でしょ」
夕陽を浴びてコロコロと笑う彼女が、ルビーカナリアよりも遥かに美しく輝いて見えた。やはり彼女に涙は似合わない。
「……ここに咲いてる花以外で、好きなものはありますか?ご希望があれば、植えますが」
「え、本当に?でも種はあるの?」
「花壇用にいくつか取ってあるんですよ。一般的な範囲であれば、多分用意できます。ここには無くとも、実家に行けば手に入るでしょう」
無くても、絶対に用意します。必ず。
「好きな花……色々あるけど、どれにしようかしら」
「今から植えるなら、春の花になりますね」
「春ね。うーん……じゃあ――」
「――なるほど。それは種ではなく、球根が必要ですね」
ちょっと意外なチョイスだ。可愛いもの好きなのかな。
「難しいの?」
「ここにはありませんが、実家に行けば余ったものがあります。綺麗な花を咲かせましょう」
「ええ!」
その日から、彼女と過ごす時間が少し増えた。増えたと言っても、お昼と放課後に過ごす花壇の世話くらいなもので、校舎での彼女はいつも通りだった。
「ニコル君、その土汚れは何ですの?ここは神聖な学び舎です。もっと清潔を心掛けなさい!」
「はい、すみません」
時に生徒を叱り。
「アリューゼ様、そろそろお時間ですわ」
「ん?もう授業が始まるのか。友人達と過ごす時間はあっという間だな」
「さあ!皆様も席に付きなさい!先生が到着しますわよ!」
時に婚約者をフォローし。
「芽が出てきたわね」
「そろそろ肥料を加えましょう」
「私やってみたいわ。やり方を教えて」
そして、花壇で一緒に花を育てていた。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
彼女の花に小さな蕾が出来始めて、まだ吐く息が白い頃。寒さで頬を赤くする彼女が、蕾を撫でながら話しかけてくれた。
「ねえ、ニコル君」
「はい?」
「どうして私がここに来てたか、わかる?」
理由……そういえば、聞こうとしてて結局聞いてなかったかも。でも今ならわかるかな。
「花を育ててみたかったからですよね」
「それはニコル君にバレてからでしょ。その前だよ」
……あれ?
「私ね、疲れてたんだ」
誰だ、この子?……彼女に違いないのに、すごく違和感がある。
「……侯爵家のご令嬢ともあれば、プライベートでもさぞお忙しいのでしょう」
「ううん、そうじゃなくて」
……こんなにも幼い印象だっただろうか?
「私はローゼンベルト家の末っ子でね、とっても可愛がられたの」
「意外です」
「ちょっと、それどういう意味?」
しまった、考える前に口から出てしまった。今の彼女は幼過ぎて、心のガードを無意識に下ろしてしまう。
「が……学園でのローゼンベルト様を見ていますと、さぞ厳しく学ばれてきたのだろうと思っていました」
「間違ってはいないかな。侯爵令嬢として求められるものは、確かに厳しかったと思う。でも父上も母上も、私が失敗した後で、いつも美味しいケーキや、本を用意してくれていたの。クラリスならもっと頑張れるよって、優しい声で励ましてくれた」
「お優しいご両親なのですね」
「ええ。だからお勉強も頑張れたし、苦痛じゃなかった。お姉様がやってたような王妃教育も無かったし、私にはもったいないくらい、素敵な婚約者様も用意してくれたわ」
素敵な婚約者様という言葉が、僕の胸を刺した。
「……アリューゼ様ですね」
何故、そんなことで胸が痛むのだろう。初めから叶わぬ恋だと、わかっていただろうに。
「ええ。頭が良くて、容姿も優れてて、卒業後に公爵領の地方自治を任されることが、既に約束されているほどの人よ」
「その公爵様の夫人となるのですから、ご立派です」
「ご立派?ふふっ……」
自虐的な笑みは、まるで僕自身にも向けられているかのように、痛々しかった。
「私はご立派じゃないわ。私は、必死にお勉強してきただけの、ただの娘。あの人からは……何にも、期待されてない……ただの……」
「何をおっしゃいますか。ローゼンベルト様は学園の規範とも言える方で……ローゼンベルト様?」
夕陽が沈み始めている。おそらくもう少しで、ここは夕闇で包まれるに違いない。
だが、ここが闇で満たされたとしても、彼女の姿を見失うことは有り得ないだろう。
「うっ……!ううぅ……!ふっ……ぐぅぅ!!」
彼女が、泣いていた。泣き叫ぶのを必死に耐えるように、両手で口を塞ぎながら、涙を流し続けていた。
「ごべん、なざい……!」
突然の慟哭は、困惑よりも不安の方が強く掻き立てられた。
「い、いえ、あの」
「わだじ……!もう、辛くて……つらすぎで……!もう、ここしか、なかったの……!ここしかっ……!」
この人が、他人の前で泣くなんて、想像もしていなかった。
僕はなんて無力で、無価値なのだろう。
好きな女の子が目の前で泣いているのに、肩を抱いて慰めてあげる事もできない。
好きだ。君が婚約してても関係なく、君のことが好きだ。だから泣き止んで。僕と一緒に遠くへ逃げよう。
そう、叫びたかった。
だけど僕には、それが出来ない。
もしそれを、誰かに見られていたら、困るのは僕ではなく、彼女と侯爵家だ。まず間違いなく、不貞を疑われてしまうだろう。そうなれば政略結婚を反故にした罰で、下手すれば国外追放だ。
僕の身勝手な恋心に、彼女の家族を道連れにして良い理由なんて、あるわけがないんだ。
胸に秘めたまま大きく育ち、外へ出たくて暴れる恋心を、力いっぱい握り締めた両手で抑え込んだ。
彼女が落ち着くまでに、数分が必要だった。その間に、夕陽は殆どその役目を終えてしまい、彼女の顔を判別することも難しくなっていた。
「……ごめんね。急に泣いたって、困るよね」
「いえ……お力になれず、残念です」
彼女がそれで、少しでも楽になるなら、いくらでも泣いてくれて良い。
……そう、思うことができれば、僕にとっても楽だったはずなのに。
「貴方が前に言った通りだと、最近思うようになったの」
「僕が言ったこと?」
「期待している方にだけ、餌を上げるってやつ」
それは、魔鳥の雛を弔った時の……。
「ほんと、その通りだよ」
何が、その通りなんだ。君の身に一体、何が起こっているんだ。
不安が際限なく広がり、僕の手足から体温を奪っていく。夕闇が深まるに連れて、彼女の影も深くなっていった。
「……ローゼンベルト様、僕は――」
「クラリス」
その彼女の目に、収まっていたはずの涙が、再び溢れ出していた。
「お願い、ニコル君。一回で良いから、私のことをそう呼んで。そしたら私、もう大丈夫。もう二度と、泣かないでずっと、頑張れるから」
「……」
「だめ……?」
……何がだよ。
「……え?」
心の中の声が、無意識に出ていた。湧き上がってきたのは、彼女に対する同情ではなく。
怒り。全て抱え込もうとする彼女への怒りと、無力過ぎる自分への憤怒だった。
一度吐き出した言葉は、もう頭では止められなかった。
「僕に見つかるまで、花壇で毎日、花の前で泣いてたってことですか?そんなの大丈夫って言いませんよ!」
「……そんなこと」
「だったら話してくださいよ!なんで僕に相談しないんですか!?僕はそんなに頼りないですか!?」
「違うよ!!私は貴方を巻き込みたくないだけ!!」
違うものかよ!!
「巻き込んで良いじゃないですか!貴方を泣かせてる重荷を、一緒に背負いたいんですよ!それの何が悪いんですか!」
「……っ!?」
「僕は護られるだけの雛鳥じゃない!!僕に君を護らせてくれよ!!」
夕陽を失った空には、それを惜しむような明るい満月が浮かんでいた。
「…………」
「…………すみません、出過ぎたことを言いました」
「…………っ」
「すっかり暗くなりましたね。寮までお送りします」
「ニコル君」
月に照らされた彼女の笑顔は、綺麗で、かわいくて――
「……助けてくれて、ありがとう」
――居た堪れなかった。
それから一ヶ月。彼女が花壇に現れることはなくなった。校舎ではいつも通り、常に正しく、常に間違いを許さないでいる。
だけど、唯一人。僕にだけは何も言わなくなった。
最初は見逃されてるのかと思った。でも明らかに服が土で汚れていても、何も言われなかった。
彼女は、僕を、避けている。それだけは流石の僕にも理解できた。
……だけど。
「水やりされてる……」
僕よりも早くに来ているのか、朝の水やりは毎日欠かさず行われていた。そして夕方の水やりだけを、放課後に僕が続けていた。
水やりの分担作業。それが、僕と彼女を結ぶ、唯一の細い線になった。冬を越え、早春を迎えても、この細い線が切れることはなかった。
だけど、僕らが同じ花壇の前で過ごすことは、無くなっていた。
「すごい咲きっぷり。こんな立派に育ったの、初めてじゃないか?」
卒業の時期になり、僕と彼女の花壇は、満開の花で埋め尽くされていた。
「それにしても……彼女がこれを選んだのは、本当に意外だったな」
彼女が植えた花。それは、チューリップだった。
赤いチューリップと、黄色のチューリップが、所狭しと花を咲かせている。零れ落ちそうなほど大きな花で、咲いてから散るまで数日しか無い儚い花。
苦労に見合わないと思う人もいる。でも彼女は、この花をどうしても咲かせたかったと言っていた。
「……頑張りましたね、お嬢様」
きっと彼女も満足してくれただろう。
数ヶ月間、まともに話さなくなった彼女を想いながら、ジョウロに残された水をまき続けた。
「よしっと」
この時間の学園は静かだ。放課後に残るのは、僕のような物好きくらいなもので、殆どの生徒はお茶会や夜会の準備のため、すでに帰宅している。
しかし、倉庫にジョウロをしまって帰ろうとした時、廊下の奥から聞き慣れた、しかし最近はあまり聞かなかった怒鳴り声が耳に飛び込んだ。
彼女の声だとすぐに分かった。だけど様子がおかしい。こんな時間に、誰を叱っているのだろう?
――だと申しているのです!
目上に対する言葉遣い……?相手はまさか、先生だろうか。だけど言葉遣いよりも、次に聞こえたその内容に、頭を殴られたような気分になった。
「学園の皆さんは、毎日とてもよく頑張ってます!些細なミスや弛みは、誰にでもあることですわ!もう十分ではありませんか!」
間違いなく彼女の声だ。しかし、本当にこれを彼女が叫んでいるのか?誰よりもそれを許してこなかったはずの、彼女が?
「些細な失敗を怖がる生活なんて、間違っていますわ!」
信じられなかった僕は、手に持っていたジョウロを投げ捨てて、声の出処まで走った。
「貴方の言う理想の社会とは何ですか!?」
彼女は泣きながら叱ったりしない。
「貴方様の理想に私は含まれているのですか!?」
困ってる彼女を助けたい。
「私はもう、貴方の理想を皆に強要したくはありません!!」
彼女をこれ以上泣かせたくない。
「お答えください!!アリューゼ様!!」
息切れしながら辿り着いた先。そこには涙を浮かべて怒る彼女とは反対に、不敵な笑顔を浮かべたアリューゼ様がいた。
「入学前から決めていたことじゃないか。君が憎まれ役を演じ、ボクが生徒たちの盾になる。君が鞭で、ボクが飴となる。そうするだけで皆がボクを頼るようになり、卒業後の人脈作りが楽になる。簡単で、確実で、かつ金も掛からない策だ」
何を言っているんだ、この人は?演技だったというのか、今までが。最初から、彼女を悪役にするつもりだったってことか!?
「そして君はこれに同意し、計画通りに動いている。常に正論を振りまく、立派な憎まれ役として。あとちょうど1年で卒業じゃないか。何が不満なんだい?」
「私がどのような思いで、皆を叱りつけてきたとお思いですか?自分は完璧なフリをして、徹底的に他人の揚げ足を取り続ける毎日が、どれほど苦痛だったか。皆私を怖がって、近寄ろうともしません。貴方の代弁をしてる私は避けられ、私を悪役に仕立てた貴方は慕われるなんて……こんなの、やっぱり間違っています!」
「あの頃とは随分と変わったものだな……恋でもしたのか?好きな男を責めるのに耐えかねたか」
「なっ……!?」
「婚約者がいながら、ふしだらなものだな」
この人は……!!
「……話をそらさないでください」
「いずれにせよ、あの時に僕が考えた計画以上の対案を、君は出せなかったじゃないか?君がもっと真っ当に、妻として公爵家の役に立つ作戦を提示していれば、僕もそれに従ったよ。だけど君は、結局僕の計画に乗った」
……真っ黒な感情で、今にも手が出そうだった。
「悪役を選んだのは君だよ、クラリス」
でも、駄目だ。これは公爵家と、侯爵家の……二人と両家の問題だ。ただのクラスメイトに過ぎない、男爵子息の僕が、何をしたって……。
「そうです、アリューゼ様の言う通りです。でも私はもうこれ以上、演技で皆を傷付けることは出来ません!」
いや、違う……違うぞ……!
「私は皆と笑顔で過ごしたい!皆にもっと笑って過ごしてほしいのです!もしお続けになるとおっしゃるのなら、真実を皆の前に明かします!!」
お前は、言い訳をして、逃げようとしてるだけだ……!
「君は自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
助けたいと言ったのは嘘か……!?
「もう止めましょう、アリューゼ様!貴方様は、こんな策を弄せずとも、十分な人脈と求心力をお持ちです!」
今泣いてる彼女を、助けなくていい理由なんて、あるわけないだろ!
「どう取り繕うとも、これは真実を人質に取った、立派な脅迫だ。それがどういう結果をもたらすか、君にわからないはずが――」
自分と彼女の、どっちを護るつもりなんだ!!ニコル・ヘンリクセン!!
「待ってください!!」
僕は何の策もないまま、彼女たちの前に飛び出した。
「えっ……ニコル君!?」
「うん?誰だい?」
「い……今の話、全部聞きました!!」
ど、どうする……次はどうすれば良い!?何を言えば良い!?公爵子息様に何を言えば、男爵子息の訴えを聞いてくれるんだ!?くそ、考えてもわからん……!
「い、今のが本当なら、すぐに演技をやめてください!僕もローゼンベルト様が悲しむのを、見たくありません!!」
「ニコル君……」
「…………ふむ」
くそっ、黙ってないで何か言ってくれよ……!
「……ああ、思い出した。僕の右前の席にいる男子だったね?」
「そ、それがどうかしましたか?」
「すまなかった」
…………え?
「顔を見る機会が少ないから、君を見てもすぐに思い出せなかった。そして君の主張は理解したよ。どうやら悪意を持った意見ではなく、真に彼女を案じてくれているようだな。彼女に代わって礼を言わせてくれ」
思ったよりも話がわかる人なのかと、一瞬だけ気持ちが緩んだ。でもその油断は、すぐに改められることになる。
「では僕の計画を中断する前に、3つほど質問をしても良いかな?返答次第では、君に口封じをしなくてはいけない」
この人の目が、友好的とはあまりにも程遠かったからだ。にこやかなのに、底知れない程に深い目。どこまで潜れば、彼の真意に辿り着けるのか、想像もできないほどに暗い目だった。
「……どうぞ」
「1つ目。君の姓は、ニコルと言うのか?」
アリューゼ様は、いつもの彼女と鏡合わせのように映る。もしそれが、目にも表れているとするなら、あれに込められたものは、彼女の真反対。つまり――。
「……いいえ、ヘンリクセン男爵家です」
「では何故、クラリスは君を名前で呼ぶ?随分と親しげに映るが」
――敵意だ。それも憎悪に近いほどの。
「アリューゼ様、彼は花壇で私の花を代わりに育ててくれてるだけで――」
「黙っててくれ。君には聞いていない」
「……っ」
「……たった今、お嬢様が仰ったとおりの関係です。恐れながら、僕がお嬢様に許しを乞いました。どうか僕を、アリューゼ様や他の皆がいないところでは、名前で呼んでほしいと」
「ニコル君!?」
「黙れクラリス。……なるほど、この子はこう見えて優しいところがあるからな。哀れな下級貴族の願いを聞き入れたわけだ」
「はい」
「わかった、1つ目の答えはそれでいい。あと2つだけ質問をする」
……たった2つが、これほど途方もなく感じたのは初めてだ。
「2つ目。どうして彼女が悲しんでいると分かった?」
「え?」
「普段の彼女を見ていれば、むしろ怒っているように映るはずだが。悲しんでいると結論づけるには、些か飛躍し過ぎている。よほど彼女を理解していなければ、出来ない解釈だ」
そんなの……簡単じゃないか。
「彼女が涙を流していたからです。それ以外に解釈しようがありませんでした」
「…………良いだろう、そういうことにしてやる。では、最後の質問だ」
彼の瞳が、闇で染まりきったように見えたのは、夕陽が傾き始めたからだろうか。
「先程から、クラリスが君の方ばかり見つめているのは、何故だと思う?」
「えっ……」
それとも人の目は、これほどまでに深い闇を、自ら宿すことが出来るのだろうか。
「……そ、れは……!彼女が、僕に同情している、から」
「先程も君は、クラリスのことを彼女と呼んだな。僕の婚約者のことを、随分と親しげに呼んでくれるものだ。今の彼女の様子と、関係があるのか?」
「……それ、は……その……っ」
息が詰まる。頭が回らない。このままでは、彼女に迷惑が掛かる。
「どうした?そんなにも答えるのが難しい質問だったか?」
どう返せば良い?どうすれば彼女を救える?僕の何を犠牲にすれば、アリューゼ様は満足する……!?
「無駄な考えはやめろ。ボクはもうわかっているぞ」
「!?」
「クラリスは、君のことを――」
乾いた音が、誰もいない廊下に響き渡った。
左の頬から、ジクジクとした熱さを感じる。
僕の頬が叩かれていた。彼女の、平手打ちによって。
「思い上がるのもいい加減にしなさい!アリューゼ樣、もう私は黙っていられませんわ!」
「お嬢様……!?」
「花の世話しか能のない貴方が、水やりを手伝ったくらいで私の寵愛を受けたと勘違いしたのかしら!?」
そんな……!?
「ペットを呼ぶ時に、姓を使うわけが無いでしょう!貴方を名で呼ぶのは、貴方がペット以下だからに過ぎませんわ!!」
「待ってくれ!僕は本気で」
「お黙りなさい、ヘンリクセン!!」
僕を叩いて赤くなった手を握りしめて、彼女は罪人のように頭を垂れながら、アリューゼ様に向き直った。
「アリューゼ樣、大変申し訳ありませんでした。この者の躾を怠ったのは、全て私の責任。計画の放棄も、彼の無礼も、責任は全て私にあります。どんな罰でもお受けいたしますので、どうかこの場はお収めいただけますでしょうか」
……くそっ……くそっ!!
「それでいいんだな?クラリス」
「はい」
「いいだろう。望み通り重い罰を受けてもらう。飼い主様に感謝するのだな、ニコル君。彼女は君の、命の恩人だ」
……僕は本当に……なんて無力なんだ。
翌日。二人共学園にやってこなかった。アリューゼ様はともかく、彼女が休んだのはこれが初めてだった。
教室にはどこか、のどかな空気が流れていた。監視役がいないことを、誰も口にしなくとも喜んでいるようだった。
彼女がいない方が平和だと、無言で主張されてるようで、行場のない怒りを覚えた。
二日目になっても、二人は登校しなかった。
しかし三日目の朝、噂によって僕は知ってしまった――。
「……なんだって!?それは、本当ですか!?」
彼女が……クラリス・ローゼンベルトが、婚約していながら不貞を働いたとして、国外追放されるという報せを。
そしてそれを強行したのが、公爵子息アリューゼであるということを。
「小さいが、手入れの行き届いた良い花壇じゃないか。なるほど、クラリスが姿を見せない時は、ここに籠もっていたわけだ」
アリューゼ様が登校したのは、僕が噂を聞いた翌日の昼だった。
婚約者を自ら切り捨てたアリューゼ様からは、なんの痛痒も感じられない。それが無性に腹立たしかった。
「で?こんな所に呼びつけたからには、僕に言いたいことがあるのだろう?」
「……撤回してください」
「何を?」
「お嬢様の国外追放をです!!当事者である貴方なら出来るはずでしょう!お嬢様がそれほどまでに重い罪を犯したと言うのですか!?」
「犯したとも。婚約者がいながら不貞を犯すなど言語道断だ」
「彼女はそんなことしていない!!」
「想い人である君が言うのなら、そうなのだろうな」
淡々と、しかし容赦無い言葉が、僕の頭と胸を揺らした。
「違っ……僕は!」
「ちょうどいい。クラリスがいない今こそ、あの日言えなかったことを言ってやろう。彼女はな、君に恋をしているのだよ」
……彼女が……僕を……?
「……嘘だ」
「僕もあの時までは半信半疑だったよ。決め手になったのは、廊下で君の頬を叩いた時だ」
「あれは、思い上がった僕を叱責するためです!」
彼女が僕を好きになるはずがない。だって僕は、彼女に何もしてあげられてない。それどころか……。
「下級貴族に過ぎない僕が、アリューゼ様からお叱りを受けないように、すべての責任を被って下さったんです。敢えて僕を叩くことで、自分を悪者に見せようとしたのでしょう。恐らく婚約者であるアリューゼ様なら、寛大なお心で許してくださると、政治的に判断されたに違いありません。……そんな優秀な方を、僕一人のために損なってはいけません!あの方は……あの方こそ……」
「…………」
胸が痛む。
だけどこの痛みは知っている。
これは、本音を隠す時の痛みだ。
「……っ、あの方こそが、公爵家を支えるに足る人だと思います。アリューゼ様のお隣に立てるのは、どんなときでも冷静に物事を判断できる、あの方以外に考えられません!だからどうか……どうか、お考え直しください!」
自分を偽る時の、癒えない傷だ。
「大した忠誠心だ。だがニコル君、君は一つ、根本的な誤解をしている」
「誤解……?」
「まず彼女に、そんな政治的なセンスはない。無能ではないが、人の感情を計算に入れて動けるほど強かでもない。そんな強い女なら、僕の計画を放棄したいなんて言わないだろうし、むしろもっと効果的な対案を出せていたはずだ」
……悔しいけど、一理あるかもしれない。彼女は辛い気持ちを、一人で泣くことで発散していた。他人を変えるよりも、自分が耐えることを選ぶ人だ。
「思うにあの場で君を叩いたのは、もっと直線的で、感情的な理由だ」
「それは……?ぐっ!?」
「そこまで僕に言わせるつもりか?ニコル・ヘンリクセン」
普段温厚で、誰にでも優しいアリューゼ様が、僕の胸ぐらを掴んで持ち上げた。あまりにも軽々と持ち上げられた僕は、苦しくてアリューゼ様の手を振りほどこうとしたが、全く無駄な抵抗だった。
でもその苦しさも、アリューゼ様の目から落ちた一粒を見て、全て消し飛んだ。
「好きだって気持ちを、君に知られたくなかったからだ……!」
「……!?」
「君に気持ちが伝わって、拒まれるのが怖かったんだ!!それ以外に彼女が悪役に徹した理由なんて、他に無いんだよ!!」
彼女が、僕のことを、そこまで……!?
「……だが、そのクラリスももう終わりだ。いい気味だな」
アリューゼ様は、僕を軽々と花壇へ放り投げると、露悪的な笑みを浮かべて見下ろした。
「国外追放は、既に決定事項だ。今日にも出発するだろう。身分と資産も奪われているから、おそらくは徒歩だな」
「そんな!?お嬢様が国外まで一人旅なんて、出来るはずがない!!」
「まず野垂れ死にだろうな。あるいは誰かに拾われて愛玩具になるか」
「貴方の心は少しも傷まないんですか!?」
「傷まんよ」
ボクの物じゃなくなった女に、もう興味はない。
そう鼓膜を打ったと同時に、僕は今までで一番速く駆けだして――
――一番強い力で、アリューゼ様の顔面を殴っていた。
「ふざけるな……!ふざけんなよクソ野郎!!どこまで自分本位なんだ!それが貴族のすることかよ!!」
「君にそんなことを言う資格があるのか?」
「ああ、そうさ!!僕だって最低だ!!婚約者がいるってわかってたのに、彼女を冷たくあしらえなかった!!好きな女の子がここに通うことを、心から喜んでしまったんだ!!僕だって最低のクソ野郎だ!!けどな!!」
だけど……彼女は、いつだって……!
「……いつも怒ってた彼女が、ここでは笑顔だったんだぞ!!」
「……!」
「チューリップを育ててる時の彼女の目は、いつも輝いていた!!彼女はこの花が咲かせるために、毎朝水やりをしてたんだぞ!!アンタはそれを知ってたか!?」
我慢できず、力任せにアリューゼの胸ぐらを掴んだ。体格差が違いすぎて持ち上がらなかった。自分の非力さが強調されて、情けなかった。
……それでも、僕は、これだけは言わなきゃいけないんだ!!
「あの子を幸せに出来たのは!!部外者の僕じゃなくて婚約者の、アンタだけだったはずなんだぞ!!アンタがあの子を笑顔に出来なくて、アンタがあの子を泣かせて、どうすんだよ!!」
「ーーっ!!?」
「僕が惚れた子を悲しませてるんじゃねーよ!!この馬鹿野郎!!!」
息切れが収まった頃に、彼は僕の手を振り解いた。
「……公爵子息へ暴力を振るったな。これはれっきとした犯罪行為だ。罰を受けてもらうぞ」
「……卑怯な物言いですね」
「ああ、そうでなくては政治はできない。僕は常に考えながら行動しているんだ。……即決裁判だ。君を、国外追放の刑に処す。当然、君の身分も没収されるだろう。金も無く、着の身着のまま、当てのない旅の中で、君は朽ち果てることになる。相応しい末路だな」
「望むところです」
彼女がいない国に未練なんて無い。彼女と同じ末路を辿ると言うなら、たしかに相応しい末路だろう。
「冥土の土産に良いことを教えてやる」
「必要ありません」
「ならこれは独り言だ。西国には、チューリップの名産地があるらしい」
……なんだって?
「恐らくこの花壇の株も、そこから輸入されたものだろう。低俗な花だが、平民にはお似合いだな」
「アリューゼ、様……?」
「そういえば、平民に堕した小娘が一人、そこに向かったらしい」
「!?」
「きっと君に似合いの、低俗で、ふしだらな娘に違いない。恐らく街道を真っ直ぐに歩いていくだろう。当てがないなら、その娘の尻でも追いかけてみてはどうだ」
……感謝なんて、絶対にしない。この人のせいで、彼女は悲しい思いをしたのだから。
……でも。
「……貴方のことを、一生恨みますよ。アリューゼ様」
「ボクの台詞だよ、間男君。さっさ消えろ。どっかの誰かさんと一緒に、仲良く野垂れ死ぬといい」
彼を忘れないでいることくらいは、彼女も許してくれるだろう。
「はい……!」
僕が花壇を世話したのは、その日が最後だった――。
「よろしかったのですか、アリューゼ樣?」
「公爵家に手を出したのは事実だ。彼一人に詰め腹を切らせて、それで納得してやろうというのだ。文句は出まい」
「いえ、父君が不在のまま、独断で全て処理した件についてです。ルーズベルト家の件についても」
「全く親の管理不行き届きだな。ボクも不良少年に育ったものだ」
「冗談では済みませんぞ」
「……父上に任せていたら裁判になる。国外追放どころか、あの家全体が処罰の対象になる。そうなったら、優しい彼女には耐えきれまい」
「まさか……クラリス様を案じてのことなのですか?彼を挑発したのも?」
「…………はははっ!なんてな。嘘だよ。ボクに楯突いた生意気な女子と、ピーピーと小五月蝿い男子が目障りだから、目の届かない土地へまとめて処分しただけだ。ボクがそんな善人に見えたのか?」
「……そうですか」
「そうさ。面倒だが、今のうちに反省文でも書いておくとしよう。今日はもう帰ろうか」
「承知しました」
「……ふん。ここの水やりぐらいは、してやるか」
――でも何故か、僕が国外追放されてから10年以上もの間、その小さな花壇では毎年見事なチューリップが咲いていたらしい。
「はあ……!はあ……!……あら、貴方も、旅人かしら?」
「はい。しかし随分とお疲れのご様子ですね、お嬢さん。お一人で旅をされているのですか?」
「ええ。色々あって、西国を目指してるの。水と食べ物も少ないし、急いでるのよ」
「徒歩で一人旅とは……無謀ですね」
「無謀でも行くの!……最後は絶対、あの花を見るって、心に決めてるんだから」
「しかし……着く頃にはチューリップの季節は終わってますよ、お嬢様」
「……!?」
「最低でもこの先一年は、生き延びないといけませんね。もしよろしければ、僕に貴方のお世話をさせてもらえませんか?」
「……学園生活を捨ててまで、平民を養う気?期待できる方にだけ、餌をあげるんじゃなかったのかしら」
「貴方以上の人なんて、僕にはいませんよ、お嬢様」
「もうお嬢様じゃないわ。それに……皆が聞いてないところでは、名前で呼んでって、言ったでしょ。……ニコル君」
「はい、クラリス樣。次は花壇よりももっと、大きなチューリップ畑を作りましょう」
「うん、そうしましょう。私も……」
私も一緒に、頑張るから。
今度こそ、ちゃんと最後まで。
チューリップの花言葉……「思いやり」「理想の恋人」「名声」。
赤いチューリップ……「愛の告白」。
黄色いチューリップ……「望みのない恋」。