折れたリンゴの木と幽霊
私は「そうですね」と口を開き、
「恐ろしいという気持ちは沸きません。それよりも……二コラ様のお母様は、どうして泣いてしまわれたのかしら」
「はは、さすがですね。やはり、シャロン夫人を訪ねて正解でした」
笑う二コラ様の言葉に嫌味はない。むしろ、どこか安堵の響きを含んでいる。
彼はついと、窓の外へと視線を投げた。
「リンゴの木です」
二コラ様の視線を追い窓の外を見遣ると、確かに立派な枝を伸ばした一本の木が望める。
青々とした葉がブーケのように集まる箇所には、深く濃いピンク色の丸々しい蕾が開き、白い花弁をぱかりと開いている。
この近辺のお屋敷には、庭にリンゴの木があるのも珍しくはない。
そのほとんどが酸味の強い品種で、クーパー邸でも時期が来ると収穫してジャムやデザート……例えば、アップルパイにしてくれる。
ちなみに生家のあった領地でも、リンゴは重宝していた。
私も収穫シーズンには高齢の領民のもとに赴き、収穫の手伝いをしていたくらいに。
窓に近づいた二コラ様が、「この辺りですね」と窓ごしに枝の一部を指さす。
私もその側に立ち、示された箇所を確認した。
刹那、気が付く。
「折れてしまったのですか?」
剪定したとするには、切口は荒く枝の皮が不揃いにめくれている。
二コラ様は「おっしゃる通りです。夫人は園芸の知識にも長けてらっしゃるのですね」と頷き、
「冬の間にどこからか麻袋が飛んできたようで、枝に絡まっていたのです。そのままにしておくには不格好だからと、取り除くために庭師が枝に登ったのですが、バランスを崩して足場にしていたこの枝を折ってしまいまして。庭師はたいそう謝っておりましたが、現在は使われていない屋敷です。僕としてはそこまで大事とは思わず、特に気に留めてはいなかったのですが……」
「その直後、お母様の絵があのように?」
「残念ながら、正確な時期はわかりません。ですが確かに枝を折ってしまったのは前回の手入れの時で、絵に異変が起きたことに気が付いたのは、先日の訪問時でした。……母は、このリンゴの木をとても好いていて、この部屋からよく眺めていました。庭師もそのことを覚えていたものですから、自分のせいで母の霊が泣いているのだと、ひどく怯えてしまって……」
二コラ様は物憂げに伏せた瞳をぎゅっと閉じ、ゆるりと首を左右に振る。
「庭師だけではありません。母に仕えていた使用人の一部にも、恐れる声が広まっているんです。無念の死を遂げた母の魂が、まだこの屋敷から離れられずに、泣いているのではないかと」
ですが、と。
二コラ様は肖像画へと視線を向ける。
「たとえ幽霊であろうと、僕にとって母は母です。怖れる理由はありません。……僕は、母の死に目に間に合いませんでした。もしこの怪異が母によるものならば、薄情な息子を嘆いているのでしょう」
「そんな……っ」
心苦し気な二コラ様の告白に、私もぎゅっと胸が締め付けられて苦しくなる。
そんな、そんな悲しいこと。
私は思わず二コラ様の片手をそっと両手で包み、
「お母様は本邸にお戻りにならないと決められた時点で、そうした事態も想定されていたはずですわ。薄情だなんて、決して考えてはいらっしゃらないと思います」
二コラ様の、絵と同じ藍色の瞳が驚愕に見開かれる。
それからどこか泣き出しそうな微笑みを浮かべ、
「ありがとうございます、シャロン夫人。僕もそう、望みます」
***
「ねえ、エレナ。エレナは"幽霊"って本当にいると思う?」
クーパー邸に戻っての夕食時。
食堂でいただいているのは今日もとっても美味しい取れたてお野菜のローストと、ナイフですっと切れてしまうほど柔らかくて美しいお肉。
柑橘の香りがさっぱりとしたソースもまた絶妙で、疲れた身体が癒されていくよう。
なのに。
こんなにも幸せ溢れる食事の魅力が半減してしまっているのは、昼間に見た"泣いた絵"と、"幽霊"になったお母様の影響だと揶揄され心を痛めている二コラ様の姿が忘れられないから。
エレナは私のグラスに水を注ぎながら、
「旦那様は実在しております」
「エイベル様のことではないわ。それに私、一度もエイベル様を"幽霊"だなんて思ったことないもの」
エレナは私の顔を見つめると、水差しを机上に戻す。
「死者の魂と"幽霊"は、切り離せない関係にあるとは考えております。しかしどちらも、生者の見解でどうとでも変わるものではないかと。こちらが霊の仕業だと判断すればそうなのでしょうし、反対に違う理由によるものだとするのなら、それが答えとなるのではないでしょうか。死者は、真実を伝える術を持ちませんので」
「そうねえ……直接二コラ様のお母様に聞けたなら、どんなによかったことか」
いくら私が"違う"と主張しようと、二コラ様が負い目を感じている間は、ただの気休めにしかならない。
二コラ様がお母様を大切に思ってらしたのは、使っていないにも関わらず綺麗に掃除されていた邸内や、私に語ってくれている際の懐かしむような瞳をみれば一目瞭然なのに。
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