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伯爵邸の泣いた絵

「もう、トーマスったら。逃げたわね」


 クーパー邸で過ごすようになってからというものの、なぜか執事のリックをはじめとする使用人は皆、エイベル様についてほとんど教えてはくれない。


 以前、今のようにうっかり口を滑らせたトーマスが、エイベル様に口止めされていると言っていたけれど。

 リックも、私が"クーパー男爵夫人"を名乗るに必要な範囲を慎重に見極めながら、避けられない情報だけを教えてくれているようだった。


 ……仕方ないわね。

 気になるけれど、私の我儘でクーパー邸の皆がエイベル様に叱られては可哀想だもの。


 緑の中にリックの赤い髪がひょこひょこ動くのを視界に捉えながら、私も庭をぐるりと見渡す。

 春に伸びたのだろう若々しい草や柔らかい枝が元気に育ってしまっているけれど、想像よりも荒れていない。


 少なくとも、数か月前には一度人の手が入っているように見える。

 冬の間に落ちただろう枯れ葉が少ない。


「シャロン夫人、お待たせして申し訳ありません」


「! 二コラ様」


 先日クーパー邸を訪ねて来られた時とは異なり、別邸で過ごすお貴族様らしくジャケットのないベスト姿の二コラ様。

 彼は私達の近くまで歩を進め、


「お茶の準備が整いましたので、ご案内いたします」


 二コラ様の後ろについて、屋敷に踏み入れる。

 庭師が泣いて拒否した、と聞いたから、てっきり屋敷内の使用人もいないのかと思っていたけれど。

 給仕をしてくれているメイドをはじめ、明らかにクーパー邸よりも多い人数の使用人が、しずしずと働いている。


「今回連れてきたのは、母とこの邸に馴染みある者ばかりなんです」


 用意された紅茶とクッキーをいただきながら、柔らかなソファーに腰かけ二コラ様の話に耳を傾ける。


 発端は五年前。この別邸を訪れていた前サールマン伯爵こと二コラ様のお父様が、酒に酔い足を滑らせ階段から転落。

 惜しくも亡くなり、一人息子である二コラ様が、十八歳という若さで当主を継ぐことに。

 そしてこの代替わりを機に、二コラ様のお母様は生活をこちらの邸に移したのだそう。


「本邸は首都の近くに構えているのですが、父が昔から絵の好きな人でして。この別邸の庭にある小屋にこもっては、自ら筆をふるっていました。母もまた、首都や他の領地よりもこの地が性に合っていたようで……。いえ、もしかしたら、この地で重ねた父との思い出に浸り、寂しさを紛らわせていたのかもしれません。父は本邸ではよく怒鳴り散らす人でしたが、この別邸で思うままに絵を描いていた時は、別人のように穏やかでしたから」


 ところが二年前、穏やかな日々を慈しんでいたお母さまが病に侵されていたことが発覚。

 二コラ様が医者も近く使用人も多い本邸での生活を促したものの、お母様は自然に身を任せたいからと、この別邸での生活をお選びに。


 そしてとうとう、昨年の冬に風邪をこじらせ、帰らぬ人になってしまった。

 二コラ様はこの別邸で働いていた使用人たちを本邸へと引き上げさせ、以降は定期的に清掃や庭の手入れを指示していたのだという。


 前回の手入れは雪が融けた頃。その時は、特に変わったことはなかったそう。

 そして今回、草木の息吹く春も終わりそうだからと、二コラ様は再びこの別邸の手入れを指示された。

 庭師も、一度はここを訪れていたという。


「異変に気が付いたのは、清掃に入ったメイドの一人でした」


 そうして見つかったのが――"泣いた絵"だった。

 二コラ様は静かに立ち上がり、「行きましょう」と促す。


「実際に見ていただいたほうが、早いでしょうから」


 二コラ様に案内されたのは、二階の居間であるパーラーだった。

 落ち着いたブラウンを貴重としていた一階と異なり、こちらは白に塗られた壁にクリーム色の壁紙が配置され、上品ながらも華やかな空間になっている。


 リックとの"お勉強会"によると、通常のパーラーは親しいお客様との歓談の場になったり、セレモニーの会場として使用することが多い部屋だったはず。


 けれども二コラ様の話では、ご両親ともこの邸にいる間は基本的に外部の人間を招かないため、二コラ様のお母様が本を読んだり手芸をしたりと、私的な空間になっていたのだとか。


「だから、なのかもしれません」


 部屋に踏み入れた二コラ様は中央まで進んで、窓を横に、壁にかけられた絵を見つめて「これです」と呟いた。

 私も同じようにして入室し、絵を見遣る。


「これは……っ」


 胸から上を描いた、女性の肖像画。

 柔らく波打つ果実を思わせる橙色の髪で顔を縁取り、慈悲深く緩まる藍色の瞳は、こちらに向けられている。


 若かりし頃の、二コラ様のお母様かしら。

 そう簡単に連想させるほど、二コラ様とこの肖像画の女性はよく似ている。


「父が描いたものです。遺言により、父の描いた他の絵は全て燃やしてしまったのですが、母が、この絵だけは残したいと、この部屋に」


「……私はあまり絵に詳しくはありませんが、それでも亡きお父様のお母様への深い愛情が感じられる、優しい絵に思えます。二コラ様は、お母様似でらしたのね」


「父はよく"最大の悲劇で、最良の結果だ"と言っていました」


 やっぱり思った通り、仲の良いご夫婦だったみたい。

 私がふふ、と小さく笑みを零すと、二コラ様は苦笑交じりに「怖くはないですか」と尋ねてきた。

 私は再び絵を見つめる。


 この愛おし気な瞳はいったい、誰を見つめているのかしら。

 吸い込まれそうなほど艶やかな瞳はその穏やかな微笑みとは裏腹に、とろりと一部がゆがみ、まさしく涙を零しているよう。


 画家の描くそれに匹敵するほど見事な絵ではないけれど、丁寧に描き込まれているからこそ目立つ、その歪んだ箇所の不自然さ。

 意図された描写ではないと、一目でわかる。

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