最後の一屁
かの名作『最後の一葉』とは何の関係もありません。
ご了承下さい。
空に浮かぶ雲は、細かくて高い。
あれは何という雲だろう。うろこ雲、それともいわし雲だっただろうか。いずれにしても、そんな名前であっただろうことは間違いないし、私が名前をつけるとしても、そんな名前を選ぶだろう。
少しだけ視線を下ろすと、病院を囲んでいる落葉樹の一本が目に入る。あの鮮やかな黄色は子供の頃から知っている。昔は苦手だった銀杏も、茶碗蒸しに入っている限りにおいては気にならなくなった。季節が季節だ。その葉はほとんどが地面に落ち、自らの領土を誇示しているかのように黄色く染め上げている。その上を歩いている母子――おそらくは誰かの見舞いにでも来たのだろう二人の笑顔が、今の私にはことさらに眩しく映った。
健康な様子が羨ましい、というのももちろんある。
だがそれ以上に、あの二人が私の病室にでも立ち寄ってくれないだろうかと、あり得る筈のない妄想を膨らませるほどに、今の私は会話に飢えていた。というより、退屈に飽きていた。
昨日はまだ母がいた。もっとも、痛みもあったしだるかったしで、他人と話をしたいなどとは思えなかったから、正直言って比較にもならない。こんなことならもう一日傍にいてもらうんだった。
そんなことを思った矢先、左手の小指に微かな振動が走る。
私は携帯を持ち上げ、スライドさせてメールを確認した。
「……私が知るわけないでしょーが」
伯父の姿が見えないけど知らないか、というのがその中身だ。そういう相談を入院中の娘に送ってくる辺りに、母の人となりというか、ある種の可愛げが垣間見える。もっとも、もう何年も付き合っている私にとっては、その一つ一つを拾い上げて相手をしてやるほど新鮮ではない。私は即座に『しらん』と三文字だけ送り返すと、枕の横へ放り投げた。
「でもまぁ、少しは紛れたかな」
簡単なメールでも、何もないよりは遥かにマシだと気付く。特に病院という場所が携帯禁止だと思っていただけに、格別なのかもしれない。私自身も驚いたのだけど、最近の病院では携帯電話を解禁する方向で話が進んでいるのだそうだ。もっとも、いかに退屈とはいえ、携帯で長電話をしようと思うほど無神経ではないし、それだけの元気もない。それに、この時間は友人一同も授業中だろう。向こうも病院内で携帯電話が通じないと思っているのか、メール一つ入ってはこなかった。
「せめて、もう少し景色が良かったらなー」
改めて窓の外へと視線を送り、力なく溜め息を吐く。とはいえ、一昨日の晩に盲腸の手術をしてから一切の食べ物を口にしていないのだ。体力も気力も湧いてこないのは、むしろ当然だろう。
そもそも、銀杏の木が一本に稲刈りの終わった一面の田んぼでは、仮に気力が充実していても楽しみようがない。出来ることと言ったら、残された黄色い葉の数を数える程度のことだろう。もちろん、そんな死へのカウントダウンをするような真似はしたくもない。あの葉が落ちたら私は死ぬかもとか、そんな想像を巡らせることすら億劫だった。
大体、盲腸で死ぬ気はない。
「……こんな時こそ、顔を見せる時なんじゃないの?」
伯父の顔を思い出し、不平をこぼす。あの人はいつだって、不必要なことをしでかす天才だった。傍にいるだけでも役立ちそうな時に限っていないとか、いかにも伯父らしい。
「寝よ寝よ」
いよいよすることが見付からなくなった私は、溜め息を吐いて横になる。慌てたところで、しばらくは入院生活が続くことに変わりがない。病人の仕事が養生することだとでも言うのなら、その任を果たすまでのことだ。
目を閉じて、意識を沈める。
耳の奥に微かな違和感を覚えながら、それでもすんなりと眠りの世界へ旅立つのだった。
ノックの音に気付いて、私は目を覚ます。
目を擦りながらとぼけた返事をすると、控えめに開かれたドアから二人の友人が顔を覗かせた。
「ヨッシー、チーちゃん!」
待望の客人到来に、脳細胞が急速な覚醒を果たす。
「何だ、思ったより元気そうじゃん」
「ゴメンねー、寝てたんでしょ?」
楽天家のヨッシーと気遣い家のチーちゃん、学校ではメシもトイレも一緒に済ます仲だ。あまり話したことのなかった憧れの男子が、なんて展開もアリだけど、やっぱり親しい友人の訪問というのは素直に嬉しい。
「別に気持ち悪くて寝てたんじゃないよ。することなくて退屈だったから寝てただけ」
「そうなんだ」
心配そうなチーちゃんにようやく笑顔の花が咲く。この子の優しさは本物だ。自然に他人を気遣えるってのは、凄い長所だと思う。少なくとも、私には真似が出来ない。
「平日の昼間からお昼寝とは、いいご身分ですなー」
「なら盲腸になる?」
「遠慮しておきます」
おどけた様子に場が和む。ヨッシーはいつもこんなだ。ユーモアがあると言うか、どんな時でも場を明るくしようと励んでいるようにも見える。
それにしてもと、サイドキャビネットに載っている愛用の真っ赤な目覚まし時計に目を向けた。時刻はもう四時を回っている。二時間くらいは眠っていたようだ。そんなに寝た感覚はなかったんだけど、どうやら自分で思っているよりも身体の方は衰弱しているってことなのかもしれない。
まぁ、ハラキリなんて初めての経験だし、無理もないよね。
「ではでは、そんなアンニュイなキー坊にお見舞いの品をば」
じゃーんとか言いつつ、ヨッシーは鞄から包装紙に包まれた箱を取り出す。愛読している少女漫画と同じくらいの大きさだろうか。少なくとも花ではない。
「さぁ、開けてたもれ」
「うん、なら早速……」
とりあえず受け取り、ペリペリと慎重にテープを剥がしていく。
やがて、綺麗に広げられた包装紙の中央に、厚紙で作られた箱が姿を現した。その右端には『恋鯉サブレ』の文字が浮き上がっている。この平凡な町の数少ない名物、鯉を題材にした銘菓だった。
「買ってみると、結構するんだねー。しかも枚数少ないし」
「ヨッシー……」
「なに? 感激して泣きそう?」
「盲腸で入院している患者に食い物持ってくるなっ!」
「え、何で?」
「だから言ったじゃない。きっとまだ食べられないよって」
隣のチーちゃんは、きっと止めてくれたのだろう。もちろん、控えめな彼女の制止で思い止まろう筈もないことは、重々承知している。だからこそのヨッシーでもある。むろん、それがわかっているからこそ、こうして正面から突っ込むことも出来るわけだが。
それにしても、常識くらい知っとけ。
手術以降、私は何も口にしていない。腸が運動を再開して、それから徐々に食べられるようになると説明を受けた。どのくらいなのかはともかく、食べられなくなることは以前から知っている。
「そっか。じゃあワタシが食べていい?」
「どんな嫌がらせだ!」
「ごご、ごめんね、キヨちゃん。でもホラ、サブレならすぐには悪くならないと思うし、食べられるようになってから食べたらいいよ、ね?」
「チーの言う通りだぞ。ホントはケーキにするつもりだったんだからな」
「アンタは黙ってろ」
最大限の譲歩をしました、みたいな顔をするな。
「それにしても食えないのか。恋鯉サブレは食ったことなかったから、ちょっと楽しみにしてたのになー。なぁ、主治医に頼んで許可もらってきていいか?」
「良いわけあるか!」
サブレ食いに来たのか、この女は。
「キヨちゃん、おなら出た?」
「ううん、まだ」
「何だ、それ。どんな会話?」
「盲腸の手術をした後は、腸の動きが止まってるの。だからそれがまた動き出したのを、おならが出たかどうかで知るんだよ」
「つまり、屁をしないとサブレは食えないと?」
チーちゃんの説明を端的に、都合良く解釈するヨッシー。
「よし、今すぐ屁をこけ。そして食え」
「お断りだ!」
そもそも、ここで屁をこいたからといってすぐに食べられるようになるわけではない。おならは、あくまで目安らしい。仮に許可が出たとしても、いきなりサブレみたいな固形物が食べられるわけでもなく、もっと消化の良い食べ物を、様子を見ながら食べられるようになるというプロセスらしい。
正直言って私も、この辺りは少し舐めていた。まぁ、昨日までは食べたいとも思わなかったから、ダイエットに丁度良いとかうそぶいていたんだけど。
「何だよ、屁の一つや二つ、今更恥ずかしがるような仲でもあるまいに」
「いや、そういう問題じゃなくて――」
溜め息を吐きながら呆れ顔で友人の言動を嗜めよう、そう思いつつ姿勢を正した瞬間だった。
ぷぅ、という独特の音が、インテリアの少ない白い個室に木霊する。私、ではない。しかしこのタイミングでおならとは、どちらにしても失態だ。ヨッシーなら責めてやるところだけど、チーちゃんなら流しておきたい。
だが、二人の様子もどこかおかしかった。チーちゃんなら即座に誤魔化すだろうし、ヨッシーなら爆笑するか気にも留めないだろう。しかしその表情を見る限り、二人のどちらがかましたのか、判断することができない。
不自然といえば不自然な演出に、場が沈黙する。私達はまるで互いを牽制し合うように、それぞれの顔色を伺っていた。
「そ、そうだ。学校の方は――」
このままでは雰囲気が悪化すると考えた私の台詞を遮るように、またもや可愛げな『ぷぅ』が割って入る。まさか二発目が炸裂するなどとは思っていなかった私は、その不意打ちに唖然としてしまった。
その音に何かを確信したのか、二人は互いに見詰め合った後、大きな頷きを交わす。そしてあろうことか、こんなことを言い出した。
「良かったじゃないか、キー坊」
「おめでとう、キヨちゃん」
「ち、ちが――」
私の屁ではないと主張しかけたところで、まさかの三度目が、今度はロングバージョンで鳴り響く。しかしこの瞬間、私はある可能性に気付くと共に、その発想を確信した。
目覚まし時計を掴み、周囲に視線を走らせる。
そういえばと、寝る直前に何者かの微かな気配を感じていたことを思い出す。お見舞いの二人が呆気に取られたような顔で私を見ているが、とりあえず構ってはいられない。あの馬鹿を引きずり出さないことには、どんな言い訳も無意味だ。
「そこかっ!」
クローゼットに向けて、赤い砲弾を発射する。それは見事にクローゼットのど真ん中に着弾し、僅かにクリーム色の表面を凹ませた。そして当たり所が良かったのか、ジャバラのような扉がスルリと開き、その奥に隠れていた変質者を炙り出す。
が、この程度で狼狽するほど相手もヤワじゃない。奴はプールにでも飛び込むようにしてクローゼットから飛び出すと、ゴロンゴロンと幼稚園児のように下手くそな前転をしながら部屋の中央まで進み、そこでグリコっぽいポーズを決めてみせる。
少し揺れているのは、目が回ったからだろう。
「えーと、どなた?」
「変質者よ、ただの」
チーちゃんの疑問に、私は明確にして的確な返答をする。
「自分の伯父を捕まえて『変質者』はないだろう、清音くん」
「馴れ馴れしく呼ぶなっ、変態!」
自称発明家にして我が家のお荷物、それが伯父の正体だ。ドクターなんちゃらみたいに特許でも取って金を稼いでくれるというならともかく、何の役に立つのか、そもそも役に立つことを前提として作っているのかすら不明な物を作っては家族に悲鳴を上げさせているという変人である。
「オッサン、覗きか?」
「ヨシちゃん、そういう時は歪んだ愛情ですかって聞くのよ」
いや、それもどうなんだ。
ともあれ、白髪交じりの四十過ぎの白衣着たオッサンが、突然クローゼットから飛び出してきたのだ。通報されても文句は言えない。というか、返答しだいによっては私がする。
「……で、何だってこんな悪戯をしちゃったわけ?」
「悪戯とは心外だな。これは清音くんのことを思えばこその行為、すなわち愛情表現じゃないか」
「そんな愛情いらんわ!」
「いやいや、ご友人達に術後の経過が良好だと伝えるには、口先の『大丈夫』より一発の屁だと思わんかね?」
「おー、説得力ある」
「ないない」
騙されんなよ、ヨッシー。
そもそもこのオッサン、いつか誰もが驚く発明品を作ってやるぜって、私が生まれる前から言ってるような人なんだから。
「大事な姪っ子が入院したと知ったその日の夜、私は遠隔おなら発生装置『おならくん』の製作に取り掛かったのだ」
「あのー、それはつまりブーブークッションですよね?」
というチーちゃんの突っ込みに、伯父の目が光る。
あーあ、まさか二人してこんな馬鹿の話に耳を傾けようとは。こうなってしまった伯父を止めることは、家族にも難しい。
「私の発明品を、あんな下品な玩具と一緒にされては困るな。そもそもあの玩具、体重を利用して空気を押し出し、その勢いで振動を起こして音を鳴らしている。基本的な原理は合っているが、その圧力は確実に強すぎるのだ。おならというのは身体の内側と外側の差圧によって生ずるもので、過剰な圧力がかかることはそれほどない。山の上など、気圧の低い所に行くと屁が出やすいというのは、この辺りに原因があると言われているな」
何というか、ホントにどうでもいい説明だ。
「すなわち、ブーブークッションは圧力が常に過剰であり、だからこそあのように不自然な、かつ下品な音を鳴らす訳だ。その点、我が『おならくん』であれば、腸内を再現した適度な圧力をもって排出、自然な音と匂いを発生する。しかも、ワザワザ採取したサンプルを参考に匂いの成分を調整し、女子高生の肛門に合わせた音色にまでこだわったのだ。すなわちこれこそ科学の――」
「はいはい、もうわかったから出てった出てった」
下らない口上を遮るように立ち上がり、スリッパを履いて一歩を踏み出す。
その瞬間、ブリッと可愛げのない音が響いた。
油断、まさしくその一言でしか例えようのない一撃だった。
「……伯父さん、もう悪戯はやめてください」
拳を握り、ニコやかに告げる。
「いや、私の『おならくん』の音はもう少しキュートな――」
「い・た・ず・ら、ですよね?」
「はい、ごめんなさい」
私の視線がよほど怖かったのか、即座に頭を下げる。
奇妙な話だが、伯父の発明品が私の役に立った、最初で最後の瞬間だった。道具にとって大事なのは性能じゃない。どう使うかってことだと思う。
うん、間違いない。
すいません。魔が差しました。