八十九話
傘部ランカへ動画を渡して1カ月ほどたったある日、主はかすみそう25の番組、『かすみそうの花束を』の収録のためにスタジオに来ていた。
楽屋に置いてあるのは、ブタの着ぐるみ『アットくん』の頭部のみ。胴体は用意されていない。
それを見て主は、ここ数日でもう何百回としてきたため息をする。
今日の収録の企画は、はなみずき25の番組に企画を取られた腹いせに、アットくんのかすみそう25愛を再確認しようという企画。
主としては、どちらが上とかは無いが、オーディションから関わっているかすみそう25を蔑ろにしているつもりはない。
「はぁ、……? はい」
再びため息をすると、ノックの音が聞こえる。反射的に返事をすると開けられたドアの向こうには、意外な人物が立っていた。
「高尾さん? どうしたの?」
「先生の芸名見つけたから、挨拶しておこうかな? って」
「芸名ね」
花菜の言い回しに、思わず笑ってしまう主。
「あ! その服、私が選んだやつ?」
「あ、うん。企画でさ、この前選んだ服着てこいって話で……どうかな?」
花菜は主の周りをぐるりと一周まわり、うんうんと確かめるようにみる。
「うん! 我ながら良いセンスしてる。似合ってるよ! 先生!!」
「改めて、ありがとうね」
ニコニコとしていた花菜の顔が一瞬にして曇る。
「ねえ、先生? リングは?」
花菜の顔が怒っているような、悲しんでいるような微妙な表情を創る。主は慌てて胸元からリングのついたネックレスを引き出す。
「も、もちろんあるよ、ほら! ……でも無くしちゃったらと思うと付けられないんだよね」
高かったしと出掛かったが、何とか飲み込む。
花菜の表情は一瞬明るくなりはしたが、すぐにふくれっ面になってしまう。
「まあ、そういうことなら仕方が無いか……」
納得の言葉を口にするが、その顔はどうにも納得していない。
「とかいって! 私も同じことしてるんだけどね」
そう言いながら、花菜も胸元から主と同じデザインのリングが掛かったネックレスを引き出す。
それを見て、改めてあの言葉が現実のセリフであったことを痛感する主。
「……本当にペアリングだったんだね」
「? 言わなかったっけ?」
「いや、聞いたけどさ」
今度は主の表情が曇る。
花菜が、アイドルが自分とペアのものを持っているという事実に困惑し、花菜が自分に好意を持っている可能性に少しの期待感が芽生えている。そんな自分がどこか許せない主もいるのだ。
そんな表情をみている花菜は、耐えられないかのように俯いてしまう。
そんな表情をさせるつもりはなかった。純粋に好きな人と同じものを持ち、秘密を共有していたかっただけだったのに。
この人の眼には、自分はどう映っていたのだろうか? そして今、どう映っているのだろうか?
ほんの数秒前まで、顔を見れた喜びに高鳴っていた鼓動が、今は嫌われたかもしれないという焦りで早鐘を打っている。
手足が冷たい、呼吸がこんなにも苦しい。主の顔を見ているだけで、涙があふれそうになってしまう。
今まで自分は、この人の前でどんな表情だった? そんな声で話していた?
わからない。
「ごめんね、先生。……迷惑だった?」
「っあ、そういうわけじゃないんだけど……と、戸惑ってはいる……かな」
迷惑ではないと言われただけで、自分の血液がまるで沸騰したかのような熱をもって全身を駆け巡っている。もう、花菜自身にも自分の心が制御できない。
「……っ先生! か、髪にゴミついてる」
「え? どこだろ」
ついてもいないゴミを探す主を屈ませると、花菜はもうどうにでもなれと思うがままに、心に行動を任せてしまう。
主の頬に、柔らかな感触が残っている。
いったい何をされたのか? そんなものわかり切っているが、それが本当のことなのか信じることができない。
花菜の方を見ればただただ紅い顔をした花菜が自分の唇を押さえながら、目には涙をためている。
「……先生、私を見て」
消え入りそうな、いつもの花菜からは想像もできないか細い声が主の耳に届く。
いったい自分はどんな表情をしてしまったのか?
花菜が走り去ったドアを、ただ茫然と眺めるしかなかった。
「おーい、先生。いるかい?」
意識を飛ばしている主の返事を待たずに、山賀がドアを開け入ってくる。
「……ああ、やっぱりそうか」
ドアの向こうに走り去った花菜に山賀の目線が向く。
「あのさ、先生。とりあえず、顔……洗っといたほうがいいよ」
そう言われ、ようやく主の意識が戻ってくる。鏡を見れば、自分の頬にピンクのリップが付いているのがはっきりとわかる。
どう言い訳をするべきか、山賀の顔を見ながら頬を今さら隠す。
「先生、わかったからとりあえず洗いなって」
その表情から主が混乱しているのを再確認した山賀は、諭すように洗顔を促す。
それでも動けない主に、山賀はため息をつきながら近寄ると、ティッシュでその頬を拭ってやる。
「いいかい、先生。わかるが今はその顔を洗うんだ、そしたらちゃんと話は聞いてやるから」
頷いた主は備え付けの石鹸を手に取り、入念な洗顔をはじめる。




