八話
主が書籍化の作業を始めて、2ヶ月の時間が経っていた。その間、看護師の本業と書籍化作業を平行していた。
休みらしい休みもなく、時々入ってくる夜勤にうんざりしながらもそこまで辛く感じたことはなかった。
佐藤との打ち合わせで、世界観のすり合わせや次巻への導入など意見を闘わせることも新鮮な発見があり、より自分の小説に愛着を持って作業を進めることができた。
「問題なく発売まできましたね。先生」
ここ数日は徹夜だったのだろう。佐藤の清潔感は確実にすり減っていた。
「ありがとうございます! 佐藤さんのお陰です」
「いやいや、僕の見込みだと発売まであと3ヶ月かかる予定だったんですが、こんなに速いのは間違いなく先生の力です」
かく言う主も2・3歳は顔が老けるという代償を払っていた。
「で、帯はこれ許可取ったのでOKです」
帯は主の小説発売に至った元凶にお願いすることにした。アイドル本人ではなく運営の謝罪コメントではあるが、話題性は十分だろう。
一つの案として、テレビCMに御本人たちの謝罪と宣伝と言うのも上がったか、流石に大人げないと没になった。
「あの献本の件は?」
「大丈夫、バッチリです。なんなら本番も見てくださいって先方から。あ、こっちは記念用で持っていってください!」
主は製本されたての自分名義の本を片手に、慣れない東京の街を走った。
「えっと、ここかな?」
ナビ代わりのスマホと店名を何度も確認する。ついでに時間も確認、約束の時間までもうまもなくとなっている。
「本当に来てくれるかな、結び目さん」
作業中の合間をぬって、主はアカウント名『結び目』と連絡を取り続けた。それはアカウント消去を防ぐと共に、約束の最初の感想をもらうため。
何やら謝罪したいらしいが内容も分からず、形だけ受け入れた。
そうして約束の日取りとなった。
正直ここに来る結び目がどのような人物か見当もついていない主だか、今まで励ましてくれ、新しい道に入ることが出来るよう背中を押してくれだ。主は今か今かとアカウント名『結び目』を、今は珍しい純喫茶の店内でソワソワと待っていた。
ドアが開くたびに、主の背中が少し伸びる。気にしないよう努めるが、主の挙動不審さが店内で目立つ。
目印の自分の本をテーブルの上で何度も微調整をしてみる。端からみれば完全にマッチングアプリで釣られた惨めな男のようだった。
カラカラと何度めかの来客を告げる鈴が鳴る。テーブル席の方に迷いなく向きながらも、テーブルを気にしながら歩く姿に、主は確信した。
(この人が結び目さんだ)
髪の毛をすっぽりと隠す帽子をかぶり、顔が隠れるくらいの眼鏡をかけている。服はモノトーンのゆったりとした服で体型は解らないが、歩き方や所作が自分の想像と掛けはなれていることに主は気がついた。
そして自分の目の前に座るときに、またも確信した。
(結び目さん、女性だったかぁ~!)
職場以外で女性と触れあう機会のなかった主は、大いに戸惑っていた。しかも自分より明らかな年下といった顔貌。
「……こんにちは」
目の前で固まっている主を見かねて、結び目から声がかかった。
「あ、こ、こんにちは……」
「@滴先生?」
「は、はい。そうです。あ、あのそれ、本です」
会話としては見事な最低点を叩き出す。安定の混乱具合で見事に無言空間を作り出してしまう。
無言の空間で結び目は、目のまえに置かれた本を手に取り、じっくりと眺め両手で抱きしめる。
「本当に書籍になったんですね。おめでとうございます!」
眼鏡の向こうに満開の春のような笑顔に、主は見照れてしまう。
その笑顔は今まで主に向けられたどの笑顔よりも輝いていた。
「あ、ありがとう。全部結び目さんが背中を押してくれたからだよ」
なんとか目が合う前に自我を取り戻し、うつむきながら礼を言うことができた。
その後webもまた読んで欲しいとだけ伝えると、結び目もうつむきながら頷いてくれた。
結び目はこの後外せない用事があると、言いながら何度も本の礼を言いながら走って店を出て行ってしまった。
その間主は時折見せる結び目の笑顔に何度も何度も自我を手放していた。
そして結び目の出ていった店に残り、コーヒーのお代わりを注文しタバコの箱を手にしたところで、店内が禁煙なのを思い出し慌てて懐に戻す。
氷の解けたお冷をあおり一息はきだし、唸るように一言口からひねり出す。
「あんな娘いるんだなぁ。東京って怖い」
注文したコーヒーを火傷しながら流し込み、疲れた顔で喫煙所を探しさまよい歩いて、結び目との対面を無事(?)終えるのだった。