六十話
「……」
「……」
うっすらと寒気を帯びた風が、二人の顔を冷やすと二人の視線はお互いの顔に泊まる。一度視界に入ってしまうと、二人ともお互いの顔がやけに近いと思いながらも、離れることどころか目を離すことさえできないでいる。
いや、今の二人は身じろぎ一つできないでいた。もし動いてしまったら、この空気が壊れてしまうかもしれない。それはもっいないかもしれないと、心のどこかで声が聞こえる。
主は今まで美祢の顔をここまで近くで見た記憶がない。ああ、まつ毛長いんだなぁ、あ、うっすらメイクしてるのか、気が付かなかった。などと、意識を別にもっていきたいが、どうしてもその顔から目も頭も離れない。
美祢も美祢で、あ、こんな所にホクロあったんだ。意外と先生って童顔系なんだなぁ。といった感じで、やはり目を逸らすことさえしない。
しかし、二人は気が付いてはいなかった。暗がりで、近いとはいえモノをよく見ようとしてしまえば、無意識的にそのモノに近づいてしまうものだ。
段々と二人の顔が、それとは意識しないまま、ゆっくりと、ただゆっくりと接近していく。
それに気が付いたのは主だった。美祢の唇に気を取られながらも、自分の視界がやけにクリアなのが気になり、自分が美祢の顔に近寄っていっていることに思い至る。とっさに美祢のほほを手で押さえてしまう。
急に触られた美祢はピクリと肩に力が入るが、主に触れられた頬に不快感を感じない。そればかりか、ゴツゴツとした男らしい手であるにもかかわらず、手のひらはしっとりと柔らかい。その感触が心地いいとさえ思ってしまう。
美祢が手の感触を確かめるように、肩で主の手を抑え小首をかしげながら頬に手を擦り付ける。
その様子を間近で見せつけられた主の目は、縫い留められたように美祢の顔から再び離せなくなってしまう。
そんな主を見た美祢も、その視線から目を離せなくなり、再び二つの顔が接近し始める。
そこにいたのは、もはやアイドルと小説家でもなく、JKとオッサンでもなかった。
お互いの唇が触れる距離にまで接近していく。
美祢と主はお互い目をつぶり、ようやく二人の視界からお互いが消える。
「先生~! もうオフィス閉めますんで、そろそろ……」
そう声をかけたのは、よく立木といる女性スタッフだった。
「……? どうかしました?」
女性スタッフが二人を視界に収める刹那の時間、二人は光速に近い動きで別れ、それなりの距離を確保することに成功する。
「なんっでも! ね、賀來村さん」
「そ、そうですね、あ、先生。早く下りないとぉ~」
「そうだね、あ、荷物どこ置いたっけなぁ~」
焦りまくっている二人の言葉から、アクセントが消え去っている。
なぜそんな事態なのか分からない女性スタッフも、自身の帰宅時間の方が心配であるため二人への不信感は瞬間的に消し去ってしまう。
暗がりから明るい場所に出て、なんとなく美祢と主はお互いを見てしまう。
動揺からか、お互いの顔が紅く染まっている。それを見た二人は、もうそれ以上お互いの顔を見ることができなくなってしまった。なぜなら、目を合わせる前以上に紅くなってしまったのを自覚してしまったから。
そんな顔を見せてしまったら、次はどんな顔をして会話をすれば良いのか?
二人は呼びに来てくれた女性スタッフを置き去りにして、同じ速度で階段を爆走していくのだった。
「じゃ、じゃあ、荷物取ってくるから」
歩調のあっている美祢に、何も言わず離れることに躊躇した主は何の気なしに自分の行動を美祢に伝える。まだ顔に熱が残り、美祢の方を向くのさえ憚れる。
一秒でも早く美祢の前から姿を消したい気分の主が、一歩進もうとすると右の袖に違和感を感じて思わず振り返る。
美祢が顔の紅いまま、主の袖口をつまんで引き留めようと必死な表情を浮かべている。
そう美祢は必死だった。主が自分に背を向けることに言いようのない不安を感じ、思わず手が出てしまった。意識とは別の力が働き、主の袖をつまんでしまったのだ。
「あ、あの、先生。私のこと賀來村さんとか、結び目って呼ばないでください」
何故引き留めようと思ったのか、わからないまま。なんとか自分の中に引き留めた理由を探し、捻りだした言葉がこれだった。
「え、じゃあ何て呼べば……?」
心臓の鼓動のせいで、上手く頭が働いていない二人はそうとは思わず、屋上の時のようにお互いの目を見つめ合っている。
「美祢って、……名前で呼んで欲しいです」
「あ、うん。美祢ちゃん……美祢さんね。……わかった、そう呼ばせてもらいます」
「……お願いします」
美祢はなぜかいたたまれない気分になり、再び走り出していってしまう。
あとに残された主は、ただ茫然と美祢を見送るしかなかった。そして、誰に聞かせるでもなく、一言つぶやく。
「なんだ……あの破壊力」
経験値の少ない主にとって、美祢の見せた一般的には可愛らしい仕草はとても暴力的な威力があった。
全く抵抗を許さない。まるで格闘技の有段者と路上で対峙したかのような戦慄すら覚える威力があった。足に力が入らず、背を壁に付けてようやく二足歩行を保つことができる状態で、主は自分の荷物へと力を振り絞って歩いていく。
「~~!! っふぅ~。~~~~!!!」
美祢は走りながら、声にならない雄たけびを発していた。
自分が何をして、何をしようとし、なにを言ったのか。それを思い返しては何か音を出さないといけないような強迫観念に襲われる。
更衣室で急ぎ着替え、紅い顔のまま誰に何も言わず、寮へと逃げ帰ってしまう美祢であった。




