六話
受け付けに来訪を知らせると、年若い男が主に近寄ってくる。身なりを整えた男は、主から見ても清潔感のある男の教科書のように映る。年は主よりも3つ4つ若いだろうが、出来る男の匂いのようなものを纏って見える。
案内中にガラスに写る主との対比は、月なんてものではなくそれ以上の大差がついていると主は感じていた。
しかし主にとっては安心出来るようにも思えた。
「こちらへどうぞ」
通された会議室で向かい合って座る二人。緊張している主に対して落ち着いて資料を主の前に置いていく。
「では、こちらから提示する条件や報酬の資料になるのでよく目を通してください」
書かれている条件がどれほどのものなのか。主は判断できないでいた。報酬の高低などわかるものではないし、目立ってリスクのあるような項目も見当たらない。
「まあこんな資料じゃ解りずらいですよね。正直申し上げてこれは我が社が提示する条件としては破格の条件だと言っておきます。報酬も中堅の作家さんと同額ですし、お話させていただいた作品の最終巻までの発刊は確約させていただきます」
「確かに破格だと思いますけど、どうしてわたしなんでしょう?」
「それはひとえに話題性ですね」
目の前の男、佐藤満丸という男は包み隠さず本音を話す。
「作品は面白いですけどそこそこって言うところでしょうね。流し読みしてみましたけど誤字や誤用も多いですし編集から考えれば扱いたい作品ではないでしょうね」
佐藤の表情が変わる。取り繕ったような表情がはがれ、まるで見下しているかのような目を主にむける。
「言わせてもらえれば、おそらく他の出版さんからもお話行ってるとは思いますけど、どこも似たような条件だと思いますよ? その額は中堅用とはいえいわゆる飼い殺し用の金額ですし、今回の話題を知らなければあなたの作品に目を向ける人はいないでしょう」
痛いところをついて来ると、主は思った。こうして出版社に来る前に流石に興奮して上った血はとっくに下がっていた。それは作品の閲覧人数の推移にも出ていた。
しかし、どうにもわからないことがあった。
「確かに急激に伸びたのは話題とは思いますけど、それでこの額って言うのが」
主は未だに何が原因なのかわかっていなかった。炎上中のSNSを見る気にもならないし、サイトのメールボックスも機能制限をかけたので迷惑なものを目にしない代わりに事の発端が分からなくなってしまったのだ。
佐藤の話では話題性を強調している。だから、あの状態になる以前のなにかがあるんじゃないか、それがわかるんじゃないかという期待もあって今日ここにきたのだ。
「え? ああ、ご本人は知らなかったんですね。なんだ、どこぞのおバカが金にモノ言わせてステマさせたとばかり」
そして佐藤は今回の件を丁寧に説明してくれた。
アイドル番組で話題に上がり、ファンが暴走し結果作品が人目に触れたらしい。
「であるなら、これはチャンスですよ。相手側のミスですから借りを作った状態ですからね、販促のやりかたも考えないと。……いや、すみません。正直面白くない役割押し付けられたと思ってたんですよ。けど、これはものすっごく! 面白い状態ですね。やりがいを感じますよ」
さっきとは打って変って人好きそうな表情を向けてくる。
しかし主は衝撃的すぎてそんな佐藤の変化を見ている余裕はなかった。
それはそうだろう。自分の読者にアイドルがいて、番組で情報を出され出版社にそれだけの理由で呼び出されたのだから。ご褒美出すから話題の分け前をくれということなのだから。
「チャンスですか。なんだかもうどうでもよくなっちゃいますね」
「いやいや、佐川さんはとっても幸運だと思いますよ。なにせこの業界無名が一番の悪ですから、悪名は十分正義です。しかも被害者なんであればやりかたはいくらでもありますし。因みにですけど当社は件のアイドル事務所と他より繋がり有りますし、憤りがあるようでしたら協力できると思いますよ?」
そう言いながら契約書をひらひらと見せつけてくる。
ビルを出た主は正直やってしまったと反省している。
そう契約書にサインをしてしまったのだ。その場のノリというか、若干の怒りに任せて。
深いため息を吐き出して、改めてビルを見上げる。
出された条件は破格、そして一部条件に付いては譲歩もしてもらった。
そしてあの短い時間で、ああも表情を変え言いたいことを言ってくる佐藤にちょっと好感を抱いてしまった。
そう考えれば、そこまで悪い契約ではなかったのかもしれない。
何より未経験ではあるが副業のアテをもらったのだ。社会人にとってこんなにうれしいものがあるだろうか?
冷静になれば当事者であるアイドルにも感謝がわいてくる。
帰り道主の足取りは来た時より軽やかであった。
こうして後の佐川主の戦友たる佐藤満丸との初開合は終了したのだった。