四十四話
昭和の中頃。最大の娯楽がテレビであり、生放送の歌番組が高視聴率を叩きだしていたころの話。
そこには売り出したばかりの作詞家、安本源次郎とその安本と組んだばかりの後の伝説的振付師の本多忠生も芸能界の一角で何とか生き残ろうと必死にもがいていた時代。
二人の目に留まった一人の少女がいた。
名前を奥野恵美子。この頃の安本は全くの無名で、たまたま有名な歌手に詩を取り上げられ何とか地位を確立するために奔走していた時に二人が出会った少女だった。
奥野はたまたま取り上げられた詩を見て、自分を安本に売り込みに来たアイドルでも何でもない、本当にただの少女だった。
「安本さん、私をあなたの歌で歌手にしてください!」
そう朗らかに言い放つ少女は、本当に何処にでもいるような何の変哲もない少女だった。
試しに歌わせてみれば、特別うまくもなくダンスの経験もなく、リズムの取り方すら知らないような残念な少女だった。
普通であれば門前払いで終わるはずだった。しかし、言いようのない魅力を見出した安本がその少女を題材に一曲の歌を書き上げた。単に気まぐれだったはずだ。
しかし、書いてしまったからには売らなくてはいけない。
そのころの芸能界は、話題を提供できる人間が正義でその質はさほど問題ではなかった。
だからこそ、安本が芸能界で地位を築こうと考えれば、ただの一曲すら無駄にできるわけはなかった。
何度も繰り返し投げつけられた、厳しいを通り越した暴言にも弱音を吐かず笑顔でレッスンをやり通し、何とかねじ込んだ歌番組。
新しいアイドルの売り出しとしては、破格の話題性のある番組だった。
そこに当時の安本は、投資とは言えないほどの借金をして奥野恵美子をねじ込んだのだ。
番組の最後、一番印象が強くなるように、視聴者にもっとも飢餓感を与えるような時間帯へと奥野恵美子を連れて行ったのだ。
しかし、お世辞にも万全とはいいがたい状況だった。
本多の振り付けしたダンスは、まだ5割ほどしか入っておらず、歌も完全な素人よりは多少マシなぐらい。どう聞いてもプロの歌声とは程遠い仕上がりだった。
そのころのテレビアイドルたちは、どれも似たような状況で、デビューしたからと言って3カ月後にまた見れることのほうが稀であった。各番組、各会社に急増されたアイドルもどきたちが、たまたま誰かの目に留まりようやくアイドルとして一角の人物になっていく。
ようは、アイドルとは誰かの思惑と誰かの思惑が合致した時にのみ成功するという、究極のギャンブルでもあった。
しかし、成功した暁にはそれまでの投資など雀の涙と言えるほど、多額の金額が動くテレビビジネスの最たるものでもあった。
そんな誰もが似たよなアイドルを売り出す時代において、一つの伝説的放送事故を奥野恵美子が引き起こす。
ようやくねじ込んだ歌番組。決まった時間で進行してきた終わりの時間。
奥野恵美子の出番は、もう間もなく。何が起きるかわからない生放送という緊張感が緩みかけた時間にそれは起きた。
生バンドの弦楽器、ギターの弦が放送中に切れてしまったのだ。
幸いにもギターパートの最後で切れたため、その楽曲中には大した問題はなかった。
しかし、これから出番の奥野恵美子には重大な問題となっていた。
ギターの弦を張り直し、チューニングし直さなければ奥野恵美子の楽曲演奏に行けない。しかも恵美子に与えられた番組の尺は、短い自己紹介を含めて7分しかない。
ギターの弦を待っていたら、歌に間に合わない。
演奏できないのであれば、放送しない方がいい。それが番組サイドの下した結論だった。
しかし、安くはない投資をした安本側がそれに納得するわけもない。
ようやく売り出すめどが立ったアイドルの人生をかけた晴れ舞台が、番組サイドの落ち度で無駄になろうとしているのだから納得などできるはずがなかった。
安本と番組側のいざこざは、司会への指示まで止めてしまい、もう控えめに行っても放送事故そのものだと言えた。
それを見ていた奥野恵美子は、何を想ったか舞台袖を出て司会者に一礼をして、舞台中央まで歩き出す。
そしてカメラを見据え、笑みを浮かべると伴奏もなしに自分の歌を歌いだした。
現場は異様なほど静まり返っていた。それまでの舞台裏での喧騒がウソのように静まり返り、すべてのスタッフが奥野恵美子の笑顔に取り込まれてしまっていた。
楽曲の1番が終わり、間奏にはいったときにようやくバンドマンが息を吹き返し、せめてリズムパートのみでもと演奏で追いかける。
流れてしまった電波を巻き戻すこともできない生放送。
どうにか取り繕うと、現場の誰もが奥野恵美子の唄を無事に終わらすという目標に一致する。
そして、提供が被る時間帯に歌い上げた奥野恵美子の笑顔が再び画面いっぱいに映し出され何とか番組は終わることができた。
その回の失態は安本にあると激高した制作陣は、翌日にはその手のひらを返さざるを得ない状況に追い込まれる。
何本もの電話がひっきりなしにテレビ局にかかってきたのだ。
あの少女は誰なんだ? あの歌はなんという歌なのか? 作詞は? 作曲は? どこの事務所のアイドルなのか?
質問は違えど、全部が奥野恵美子という少女についての質問ばかりだった。
そして、奥野恵美子は一躍時の人としてテレビ番組に取り上げられ、スター街道はすでに煌々と照らされていた。しかし、そんな伝説的なアイドルを美祢は耳にしたことがない。
「その人どうなったんですか?」
「それから、3カ月がたったくらいだったかな。あっけなくな、本当に呆気なく交通事故で逝っちまったのよ」
安本と一緒に移動していた車に別の車が突っ込み、延々に続くと思われたスター街道はその光を失った。
「笑顔は魔法か……違いない。確かにあの笑顔は魔法みたいに、俺たちの心にスッと入り込んで来やがったよ。まあそこからだ。俺たちがあの子の面影を探すようになったのは。今まで手がけたやつら全員に、あの子の面影を探してたんだ。俺らにとっては、それぐらい特別なやつだったよ」
「……私もですか?」
「どう……なんだろうな。ただ、あの子みたいに苦労してるのは間違いないけどな」
そう言って、本多は美祢を見ないままゆっくりとスタジオを後にするのだった。




