四百話
最後の参加楽曲の『夜明け前の空気が好きだと、君は言った』を終えると、美祢に何かを合図してメンバーたちはステージ後方に下がっていく。
そして美祢は、マイクを手に少しだけ前に出てくる。
何を語るのか、美祢の言葉に注目が集まる。
「改めまして、今日は私の卒業公演にご来場いただき、本当に、本当にありがとうございます」
美祢の言葉に応える声援。
それを受けながら、まだ話があるからと声援が鳴り止むのを待つ美祢の姿。
その表情は、それまでの美祢とは違い、固く不安そうな顔をしている。
「私はこのグループに入って、本当に大切なものが増えました。応援してくれたファンの皆、支えてくれたつぼみ……今はかすみそう25のメンバー。一緒に戦ってきた、はなみずき25の皆。楽曲で言えば、初めてのソロ曲『エンドマークの外側』、これのおかげで皆に私って言うアイドルを知ってもらうきっかけになりました。そしてさっきの『花散る頃』……これが私が花菜と初めてセンター務めた曲ですね。誰よりもダンスを頑張ってきたご褒美だと思っていました。私ができるのは、ダンスだけだったから。本当にうれしかった……。そして、『スタートラインは違っても』。初めて安本先生以外の方が作詞してくれた、私のアイドルとしての出世曲って言っていいと思ってる大事な大事な楽曲です。でも、『花散る頃』も花菜と智里が受け継いでくれるみたいだから、これからも聴けるから安心してね。……私は、今日をもってアイドルを引退します。いっぱいの応援ありがとう、みんな……大好きだったよ」
涙を我慢した美祢から、本来なら聞きたくはなかった言葉たち。
覆らない、覆ることはないとわかってはいても、ファンの口からは悲痛な願いが叫ばれる。
「みね~! 嫌だよ!! やめないで」
会場に響く声に、ゆっくりと首を振り目頭を押さえながら震える声をそのままに美祢は話す。
「ごめんね、もうアイドルとしてみんなの前には立てないの。私……最後に謝らないといけないんです。私は一人の人に恋をしています。ううん、私はその人に告白をしてしまいました。そして返事も聞かないまま、その人を5年待たせています。だからこの場を借りてその人にもう一度告白をさせてください。聞いているかわからないけど、みんなにアイドルとしてじゃなく、賀來村美祢個人として最初の言葉を一緒に聞いてほしいの。……あなたのことが好きです。待たせちゃってごめんね。これからはあなたのそばにいさせて欲しいです。……ごめんね、ファンの皆」
美祢の言葉に会場は静まり返る。本来であれば言わなくてもいい言葉。誰にも知られていない、知らさなくともいい言葉。
だが、美祢は口にした。それが自分を支えてくれたファンに対する最後の誠意だと。
アイドルとして言ってはいけない言葉を堂々と口にした美祢を会場の全員。ファンも見ならずスタッフもメンバーも何も言わず聞き入っていた。
「ん~!! それじゃ先生から貰っている最後のソロ曲を聞いてもらおうかな」
静まり返った会場で、一人伸びをする美祢。もう彼女をアイドルとして見ることのできる時間は少ない。
「みね吉~! やめないで」
発表から続けてきた、馴染みのあるコール。それは本心か、それとも少しでも時間を引き延ばしたいのか。美祢はゆっくりと頷く。
「うん。じゃあ、先にエンドマークかな?」
美祢はファンに向けて笑顔を見せる。アイドルとして舞台に立つ最後の姿をファンに捧げようとしていた。
会場中のカメラが美祢の笑顔を映し出す。それは、もう忘れ去られた駆け出しの頃によく見せていた、涙交じりのあの笑顔。アイドルとして大成したと言っていい美祢が見てもらいたかったアイドルとして最期の姿。
それを見た瞬間、会場の時が止まる。
その涙に、その笑顔にファンだけでなく、スタッフ全員の時が止まる。
まるで魔法にかけられたかのように。
美祢の歌声だけが、時の止まった会場に響き渡る。スポットライトもカメラも音楽もすべて止まった世界で、美祢は一人歌う。もういない少女の歌を。
羽ばたき堕ちた友を支えるために、回り道でも前に進んできた少女の歌を。
新しい仲間を引き連れ、自らも最前線へと舞い戻ってきたあの輝きに満ちた少女の歌。
失意に堕ちた仲間たちを立ち上がらせるために、逆風を一身に受けた少女の歌。
友が戻ってくると最後まで信じた、彼女の歌。
会場の全員が止まっていると思われたその中で、一人流れる涙を拭く男がいた。
暗いモニター室で安本は歓喜の涙を流す。
「おかえり恵美子。久し振りだね。どうだい? 今日のステージは楽しいかい?」
安本だけが、美祢を通して誰かに語り掛けていた。美祢の最後の姿、それは安本の夢が成就した瞬間でもあった。
マイクから流れる最後の一音が空気に溶けると、時間は流れ始める。
まるで会場が泣いているようだった。数万の嗚咽が一つになり会場全体に響いている。
これまでの美祢を思い出し、それまでの花菜を思い出し、誰よりも美祢に挑んできた智里を想い泣いていた。
「えへへ、ソロのアカペラはきついって。もぉ~! これが最後だから、お願いします。最後に安本先生に貰った、私がお願いして作ってもらった曲。これも大事な大事な曲です。これを聞いてもらって私の引退としますね。……『走り抜けた旅路の夢』」
まさにそれは美祢の曲だった。
アイドルとして底辺にいた少女が、走り抜けた10年間。誰にも見てもらえなかった辛く苦しいだけの下済みも、華やいだ舞台に躍り出た瞬間も、今ははるか向こうの空の下。色あせていく思い出を胸に、仲間と離れ、傷つきながらも追いついた親友を再び送り出す。親友の折れた翼は新しい強靭な翼へとかわり、今よりも大きく、高く羽ばたくだろう。それをもう追えないこの場所で見送る。
少女の旅の終焉を告げる唄。
そしてそれは感謝の歌でもあった。応援してくれたファンに向けて今までありがとうと。去っていく自分を忘れ、新しい花をまた応援してほしいという願いの歌。
新しい花に送るあなたの声がめぐり巡って、きっと私を助けてくれるから。だからさよならのあと、私には一筋の涙だけ置いて行って欲しい。それが私にとっては最高の贈り物。
それ以外は何も残さないでいいから。
いつか私は子供に語るだろう。自分を支えてくれた人達がいた事を。自分を夢の場所まで送り届けてくれた人がいた事を。
もしかしたら、その子があなたの前に現れるかもしれない。
だから、その時まで私を忘れていて欲しい。その子の面影に私を見つけるまで、どうか忘れていて欲しい。
それがあなたと私の幸せの旅路の果てなのだから。
ファンは想う。なんて美しく残酷な歌のなのかと。
自分たちの想いは彼女が活躍する姿を見ること、そこにすべて捧げられてきた。
その想いは確かに彼女に届いていた。しかしもういいんだと、もう十分だと彼女は歌う。
美祢が歌いながらメンバーの一人一人に寄り添う。カメラは美祢を追いながらメンバーの姿を映し出す。
ただ立ち尽くし涙するメンバーの姿を。
手を振る美祢の表情は、まるで次はこの子たちをお願いねと言わんばかりだ。人の心はそんなに簡単に切り替えることはできない。だがそれでも、もう自分を見なくていいと彼女は歌う。
涙を流しながら、精一杯の笑顔で。
自分よりもメンバーの、はなみずき25のことを想い支えてきたセンターは、最後の最後まではなみずき25という存在のためにだけにいたアイドルだった。
なんてファン心理を分ってくれないアイドルなのだろうか。
何で忘れないでと言ってくれないのか?
はなみずき25がある限り、はなみずき25を想う限り、君のことを忘れることなんてできないだろう。
それでも彼女が、あの劣等感にまみれた泣き顔の少女が、すべてにぶつかりながらも前に進む姿を見せてくれたあの最高のアイドルが、自分たちのアイドルが最後のお願いとして歌っている。
美祢のサイリウムの色が、ライトイエローの光が会場から一つまた一つと消えていく。
流れるメロディ―に乗せ、その歌声に合わせて消えていく。
美祢はそれを頷きながら、噛みしめながら笑顔で歌を続ける。
伸びやかな何にも縛られないその歌声。もう数分でこの世から消えてしまう歌声。
最後のビブラートがピアノの音とサイリウムの光ともに消えていく。
名残惜しそうに。
「本当に……ありがとうございました」
美祢は頭を下げ、いつまでもファンに感謝を伝えていた。
舞台は暗転し、美祢はステージを降りる。
こうして後に語られる伝説のライブは幕を下ろす。
語るな、思い出すな、忘れろ。そんなことなど無理な話だった。
しかし、その話題の中に美祢のファンがいたのかは誰も知らない。




