四十話
夕方には少し早い時間。主はとある場所で車を止める。
ようやく洗うことの出来た愛車を、車内から眺める。ノーズには大樹の葉まで綺麗に反射している。
昨日から乱れていた心は、洗車を禅とすることでなんとか落ち着きを取り戻した。
あの水城晴海の突然の告白と、彼女から投げ掛けられた疑問の答えを自分なりに用意することが出来たつもりだ。
そしてこうして彼女の高校近くで、彼女を待っていた。
横を通りすぎる高校生が、男女問わず車内にいる主へ不審な者を見つけたとばかりの視線をよこす。
それに負けじと、ただジッと一点の虚空を見つめ、ただただ水城晴海を待ち続けた。
次第に横を通りすぎる高校生の数が、減っていく。
そして主を見るものは誰もいなくなった。
そう、水城晴海の本日の予定には、アイドルとしての仕事が入るっていることを、主は知らない。
水城が登校していない可能性に思い当たるのは、日が完全に沈み夜となって数時間たったあとだった。
洗車までして下校中の高校生を観察しにいくという、間違いなく不審者な男の1日はこうして過ぎていった。結局水城とは話せず、水城の問いに対する答えはどちらも宙に浮いている。
しかし、あと何回か通えばいずれ水城と再会できるはずだと、よりにもよって高校で待ち伏せするという危険を繰り返そうと画策している主。冷静になれば通報フラグだと気が付くはずなのに、何故か変に意気込んでしまっている。
次の休みの日、主は水城の高校に行こうとしたところを電話で呼び止められた。
佐藤が急ぎの用事ということらしく、編集部に顔を出すことになった。
なんだかんだと佐藤には世話になっている。駅で手土産を購入し急ぎ編集部に向かう。
「先生ぇ~! 逢いたかったぁ」
何故か編集部で水城の出迎えを受け、圧倒的高所から降り注ぐ華やかな空気に、主は持っていた手土産のクッキーの袋を床に落とす。
「……なんで、ってそうか。職場がバレたのは佐藤さんの情報だったか」
「いや~、こんな可愛らしいJKにお願いされたら、先生の情報なんか簡単に出ちゃいますよね」
「佐藤さん。個人情報の保護について、後でお話ありますからね」
満面の笑みで答える佐藤の眼前に、人差し指を突きつけて主は生涯で何度しかしたことのない冷たい目線を向ける。
「なんで彼女、ここにいるんですか?」
「もぉ~。彼女だなんてぇ」
水城は主の一言一言に、本当に乙女チックな反応を寄越す。正直面白く、悪い気はしない主だが如何せん話が進まない。
「佐藤さん、喫煙所で話しましょうか。個人情報の件も含めて」
「了解です。じゃ水城さんは先生のお土産でも食べて待っててね」
「……は~い」
佐藤は床に落ちていた袋を拾い上げ、水城に押し付けると笑顔でついて来ようとした水城を押し留める。
「で? いったいどういうつもりなんですか?」
喫煙所に着くなり、高速で火を点け目一杯肺に吸い込んだ煙ごと佐藤に向けて質問を投げつける。
「ちょと……まあ、言いたいことはわかりますよ。なんであの子なのか? ですよね」
「ええ」
「そんなの先生の小説のためでしょ」
「……え?」
ようやく吸引可能となった電子タバコを吸いこみ、主に応戦するように煙と反論をぶつけていく佐藤。
「先生、僕がJKにほだされて個人情報教えたとか思ってません?」
「いや、絶対に愉快犯的に教えたと思ってますけど」
チッチッチッと、指を振りながら再び煙を再充填した佐藤は答える。
「先生の作品。チェックの合間に昔のも読んでみたんですけど、先生、恋愛苦手ですよね?」
「っな!」
「言わなくても作品は言ってましたよ。恋愛苦手でその年までまともに恋愛経験積んでこなかったって!」
まるで犯人を追い詰めた名探偵のように、佐藤の指はまっすぐに主に突き刺さる。
反論しようと口を開けては閉じる。半分開けてはまた閉じる。
プライドとそれを恥じる心のせめぎ合いを、見事に口元だけで表現した主。
「だ・か・ら、あの子に経験積ませてもらいましょうよ」
「あのね、あの子アイドルですよ?」
「はい、ただのアイドルです。僕たちが恐れるフィクサーのアイドルではないアイドルです。ちょうどいいじゃないですか、こっちは理由もわからないけど勝手に好きになってくれたんですよ? 確かに事務所から抗議のそこそこは来るでしょうし、先生のアカウントは炎上するでしょうけど」
「社会的制裁を忘れてますよ」
主はジトっとした目で佐藤を睨みつける。
「そこはそれ。先生はもう専業になっても安泰でしょうし、恋愛だって小説のために一回くらいしてもらわないと。これからの作品の展開考えれば、今しておかないと間に合いませんよ? 大丈夫、バレなきゃいいんですよ」
佐藤は突きつけたままの指で円を描き、話の内容に誘導する。
「向こうは先生が、先生であることで十分なんですよ。だからその生の感情を取材するつもりで、ね?
手を出さなければ、捕まりませんって」
「佐藤さん、あなた良い死に方できませんよ?」
「良い作品送り出せるなら、死に方の是非なんかクソ喰らえですね」
佐藤は両手のひらを空にむけ、空気を押し上げる。
主は葛藤している。水城は確かにアイドルをしているだけあって、主の人生で見かけた女性の中でも群を抜いて綺麗だし、その笑顔は可愛い。
その彼女が自分にだけ向けてくれる笑顔があり、それは主が1歩、いや、半歩でも踏み込めば独占できるだろう。だがしかし、主は長く看護師をしていて、その資格が容易に失われるのを自覚して生活してきた。
誰かを傷つけるなんてもってのほかだし、未成年の笑顔を独占できるように誘導するのは……。
だが誰かに独占されたいし、独占したい気持ちは年々大きくなっている。苦手になってきた孤独との戦いを終わりにできるところまで来ているのかもしれない。そう思うと佐藤の提案に乗ってしまいたくなる。
だが、それは水城晴海なのだろうか? そう考えたとき、一人浮かぶ顔がある。
主が水城晴海と特別な関係になってしまった時、その顔に浮かぶ笑顔はどうなってしまうのだろうか? その考えが他の問題よりも次第に大きくなる。
「まったく……大した魔法だわ」
「先生?」
「佐藤さん、申し訳ありません。例え作品のためでもできません」
主は丁寧に腰を折り、深々と頭を下げる。
その考えには賛同こそできなかったが、佐藤は佐藤の考えで主をサポートしようとしてくれたのは事実なのだから。そこには真摯に向き合おうと心から頭を下げる。




