三百八十六話
「賀來村美祢から聞き取りを行いまして、彼女は次のシングルでの引退を申し出ました」
兵藤は重役たちを前に、堂々と言い放った。
賀來村美祢が引退するという言葉に、何名かの役員はため息を落とす。
アイドル業界において、引退という言葉は特別なものだ。
グループを『卒業』と言って離れるなら、それはグループを離れた後も芸能人として活動をするということ。その場合、ある程度は自社で面倒を見ながら他社との契約によっては移籍などの話にもなり、自社に利益を生む。
だがアイドルが引退と言えば、それは芸能活動の全てを辞めることを意味する。
グループを離れた時点で、芸能人ではなく一般の個人として扱われる。
もうこれ以上の利益を生む存在ではなくなるという意味になる。
だからため息が出てしまう役員がいるのも仕方がない。
だが、そうではない者も居る。
漏れ出てしまう経営という理性を飲み込み、ただ一人のアイドルの決断を受け止める大人の姿。
その姿に先ほど理性が勝った者たちも居住まいを正す。
「そうか、残念だ」
そう言ったのは、安本には意外な人物だった。
「君もそう思うんだね。賢木くん」
「あなたがどう思っていようが、私もアイドルのプロデュースが本業でしたからね。あのレベルのアイドルがいなくなるのは、残念で仕方がない」
そう誰の目にも、賀來村美祢というアイドルが成功していたのは事実だ。
本人がそう想っていなくとも、それ自体は事実。
もっと見れた光景があっただろうか? もっと連れていけるステージはあったんじゃないだろうか?
経営をしているからこその後悔もある。
しかし、もうそれも後の祭りだ。
彼女はもう自分たちの手を離れることを決めてしまった。
であるなら、もうこれ以上言う言葉はない。
ただ、残念だとしか。
「次のシングルまでか。……スケジュールは?」
「あと約2カ月程度です」
「なら、どうあることが『はなみずき25』の最大利益か」
賀來村美祢がいなくなるグループ。それは一時代が終わる印象が強い。
だがグループは続いていく。
賀來村美祢が抜けたはなみずき25がたどる物語が必要になってくる。
役員全員の視線が安本源次郎へと集まる。
「ここはやはり、ライバルが必要だと思う」
「ライバル?」
その返しは、理解はできるが存在するのかという疑問だった。
はなみずき25と言えば、賀來村美祢のお陰で広く世間に認知されたグループ。
そのグループのライバルともなれば、生半可なライバルでは話題にすらならない。
安本は神妙な顔をしながら、寝かせておいた物語を披露する。
「実はね、岐阜に面白いグループがいるんだよ」
そう言って見せた資料には、岐阜発のアイドルグループが書かれていた。
地方出身者だけで構成されたアイドルグループ。
その経歴だけではいささか弱い。
だが、誰もが安本の資料を繰り返し読み込む。
そこの光景に安本の口角が上がる。
気が付いてくれたかと。
「全員が……馬術経験者?」
「ああ、そのお陰か地方競馬、馬術関連の仕事はほぼ独占状態だ」
「地方競馬場でのライブ……満員とあるが?」
「まあ、多く見積もっても5千人くらいだがね。はつらつとしたいいライブだったよ」
そして、資料に掲載されているメインプロデューサーの名前に、数人の役員の目が厳しくなる。
「立木……立木ってあの立木か?」
「ああ! あの問題児が育てたグループだ」
「……」
笑顔の安本とは違い、言葉にこそ出さないが周りの役員たちは渋い顔のままだ。
「地方で鳴らしたアイドルが、東京で大暴れなんて……懐かしいだろ?」
「……やっぱり、お前発案か」
唯一の安本側の役員、尾能は頭を抱える。
確かに懐かしい物語だ。老若男女問わず誰もがそのアイドルに熱狂した時代がある。
事実、そんな奇跡のようなアイドルがいたのだ。
バブル全盛期に性別も……種族さえも違う、スーパーアイドルが。
他の誰でもない、彼がもたらした伝説を全く違う形で追うために走り出した8人組アイドルユニット。
かのアイドルの独特な走行姿勢から取られたグループ名『クロール』。
直訳すると這いずるやハイハイなど、おおよそアイドルには似つかわしくはない言葉だ。
しかし、自分たちの手探りなアイドル活動と似てると、メンバーたちには好評だ。
そんなアイドルグループのデビュー曲『約束の坂路』は、出演した地方競馬場でのイベントなどで手売りされたにもかかわらず、今や知る人ぞ知るヒットナンバーとなっていた。
この地方アイドルグループ『クロール』の目標は、中山競馬場でのライブだ。
あの奇跡の現場で、いつか自分たちも! と、毎回ライブ最後に歌う曲。それが『約束の坂路』。
徐々にファンを増やしながら、着実に夢へと歩んでいくアイドルたち。彼女たち共にファンもその後を追っている姿は、はなみずき25にもかすみそう25にもない、独特な雰囲気を醸し出している。
そして、アイドルグループ『クロール』は、ライブ会場でファンに嬉しいお知らせを伝えることができたのだ。
夢の急坂への新しい一歩を、また踏み出せたと。




