三百六十九話
「……っ、ひ、広い」
少女は、初めて訪れたはなみずき25のライブ会場を見上げて息をのむ。
いや、正確には一人では初めてなだけで、親と共にライブには来たことはあった。
ようやく一人で観覧できる年齢になり、初めて参戦する現場。
しかもこの会場は初めて訪れる。
前回はツアー中、地元の会場ではなみずき25を見ていた。
しかし初めての東京、初めての一人。初めての、握手会。
少女の喉がゴクリとなる。
少女は緊張していた。自分の目のまえの人々も後ろに控える人々も、自分と同じはなみずき25のライブが目当てなのだ。
「あ、……」
ファンの男性の一人に目が行く。
彼の持つサイリウム。今回新しく発売された新シングル『でこぼこ』のファングッズ。
自分の持つずいぶん前のシングルのサイリウムを思い出すと、自分が場違いな場所にいるのではないかと恥ずかしくなってしまう。
あ~、やっぱり買えばよかった。
でもなぁ、中学生には買えないし。
思わず後悔のため息が漏れる。
しかし後悔もあるが、財布を考えれば買えるわけもないことは自覚している。
楽しみにしていたライブ会場だというのに、どこか心に影が落ちる。
そんな些細な後悔が、少女を人の流れからそれさせる。
楽しみで楽しみで仕方なかったライブ。抽選という難関を潜り抜けてこの場にいるという幸運も、どこか薄れてしまう。
憧れの賀來村美祢を間近に見れる会場だと、喜んで家を出てきたというのに。
「はぁ……」
「あの、大丈夫ですか?」
「え?」
まさか自分に話しかける人がいるとは思っていなかった少女は、驚いたように顔を上げる。
声をかけてきた青年も、急に上げられた少女の顔に驚いているようだ。
「あの、具合……悪くなっちゃった?」
青年は自分よりも幼い少女の顔を見て、視線を合わせるようにひざを折る。
「あ、いえ……そんなんじゃないです」
少女は見知らぬ誰かに迷惑をかけてしまったと、顔を紅くする。
「大丈夫? 救護の人呼んでこようか?」
「いえ! ほ、本当に大丈夫なんで」
改めて大丈夫だと少女は伝えるが、青年はその場を動こうとしない。
心配そうに周囲を見渡すが、少女の関係者も、その姿に声をかけてくる者も居ない。
しばらく無言の時間が流れる。
少女は青年の姿を見て、はなみずき25のライブに来たファンだと理解した。
「あ、あの……」
「ん?」
「大丈夫なんで、ライブ行ってください」
「あ、やっぱり。君もはなみずき25の?」
「はい、人に酔っちゃったみたいで」
作り笑いでその場を切り抜けようとする少女。
そんな少女のとなりに座り、にこやかに見える笑顔を見せる青年。
「そうなんだ。……誰推しか聞いてもいい?」
思わぬファン同士の交流が始まった。
「あ、私は……美祢ちゃん推しです」
「本当っ! 奇遇、俺もなんだ」
そう言って彼がみせたのは、数作品前の久しぶりの美祢ソロ曲が収録されたシングルのサイリウム。
「あ、それ」
慌てて自分も同じサイリウムをカバンから取り出す。
「あ、同じだ! いいよねこれ」
「はい、可愛くって好きなんです」
少女はサイリウムを買った時のことを思い出す。いつかはライブに行きたいと思い、お年玉や小遣いを貯めてようやく買った初めてのサイリウム。
はなみずき25のサイリウムは、シングルごとにデザインが変わる。
そんな中でも、このサイリウムは特別だ。
「そうなんだよ! メンバーのあだ名が書いてあるのがいいよね!」
この時のサイリウムは、メンバーのフルネームではなくメンバーやファンに認知されているあだ名が書かれている。美祢であれば『みね吉』を書かれているのだ。
これ以降のグッズでは、こういった表記の物は出ていない。
ファンにとっても特別感のあるサイリウムとなっている。
そんな当時のことを思い出して、少女の顔は笑顔になっていた。
「もう大丈夫そうだね」
「あ、……はい。大丈夫です」
「行こうか?」
座り込んでいた少女に伸びる成年の手。
それを自然に握って少女は青年と歩き始める。
「そう言えば、握手会は行くの?」
「あ、はい……行こうと想ってたんですけど」
「行こうよ! せっかく話の合う人見つけたんだし、もうちょっと話したいんだ」
「……わ、わかりました。行きます」
普段触れ合う男子とは違う、落ち着いた感じの青年が見せる子供のような笑顔。
少女は自分の胸がいつもより弾んでいることに気が付いた。
「そう言えば、名前……聞いてもいい?」
「あ、光希です。神山光希」
「光希ちゃんか、俺は横山、横山和人。よろしくね」
予期していなかったファン同士の交流。
思わぬ初恋に光希が気が付くのは、もう少し後。
それが彼女にもたらす変化は、光希の人生をも変える重大な変化になるのだが。
それはまた別のお話。




