三百五十六話
「おーっす! 月男くんいる?」
「あんだよ! 入ってくんなよ!」
馴染みの店の個室。野島月男の憩いの場所。
そこに土足で侵入してきたのは主だった。
「主水……てめぇ、俺の酒マズくしたら殺すって言ったよな?」
「でも、仕事の話は酒の席じゃないとしないって言ったのは、月男くんだったよね?」
「てめぇ……この業界じゃ俺が先輩だぞ。月男くんなんて気安く呼ぶな!」
「ごめんごめん。でさ、この詩に曲つけてくれない?」
主は月男に大量の紙の束を押し付ける。主が月男にこの形式で仕事を依頼するときは、必ず特急の仕事だ。
だからここで一番会いたくないのが、主なのだと月男は顔を歪める。
もう何度も一緒に仕事をして、それなりに名声を高めた主と月男だったが、月男は第一印象のまま主を苦手としていた。
主のほうは、嘘や建前を使わない月男をいたく気に入っている。
ダメな詞にはダメだというその正直な性格。主が欲している編集者的視点の持ち主だと、最近になって気が付いた。特定の仕事なのが惜しいぐらい、便利使いしたい衝動に駆られている。
「だいたい、お前の歌詞は良い時と悪い時の差が激しくてなぁ。そろそろアベレージで戦えるようになれよ」
「いやいや、そう言うの月男くん嫌いじゃん」
「ああ言えばこう言う。本当に口の減らない……これ……」
「ああ、それは美祢ちゃ……賀來村さんのソロ曲用の歌詞だね」
「スローバラードかぁ……あのアイドル様に合うのか?」
主の歌詞から漂ってくる悲しみにも似た匂いを嗅ぎつけ、内容からバラード曲だと感じた月男は首をひねる。
月男の認識している賀來村美祢は、どこまでも明るく強いアイドルだ。
しかもどんなライバルが現れようと、真正面から受けて立つチャンピオン的な立ち位置を要求される。
「それによ、あの娘はグループだろ? なんでソロなんだよ」
「あれ? 知らないの? 今度ソロライブやるんだよ。それ用の曲」
「アルバムでも出すのか?」
「本人は乗り気じゃないけどね」
ぜいたくな悩みだと月男は鼻で笑う。
今でこそ作曲家として食っているが、自身も歌手デビューを目指していた過去を想えば、何と恵まれたわがままだと思ってしまう。
アイドルだと言うだけで、曲も出せればソロアルバムまで作てもらえる。
デビューアルバムで出した大量の在庫という黒歴史が、月男の頭に蘇る。
そんな嫌な思い出を酒で流そうとすれば、もちろん旨くはない。
「クソ! マズくなったじゃないか!」
「それは……まあ、ゴメン」
「ったくよ。……ああ、こっちは明るくって良いな。こういう方が俺は好きだ」
「ああ、それは岐阜のアイドルグループ用の歌詞だね」
「岐阜っ!? お前そんな地方の仕事もしてんのかよ」
「まあね。……立木さんの依頼でね」
依頼者の名前を主が言ったとたん、月男は口に含んでいた酒を盛大に吐き出してしまう。
「あ~あ。もう、学生みたいな飲み方するから……」
「っんぐ……げふぉっ! え……っぶふぉ!! ……お、お前のせいだろ!! ああ……もったいない」
むせながら睨む月男。それをたしなめる主。
誰のせいで大事な酒を吐きだすことになったんだと抗議し、テーブルに散らばった酒を切なく見るしかなかった。
「ったくよ! お前本当にここに来るなよ。今度からはお前の事務所に呼べ」
「お、言質頂きました」
「……しかしよ、大丈夫なのか?」
「何が?」
月男の心配は立木と一緒に仕事をしていること以外にない。
事務所にもレーベルにも多大な損害を与え、はなみずき25というアイドルグループを窮地に追い込んだ張本人。月男の目線では、安本源次郎に対する謀反人に見えるのだ。
「大丈夫かって……安本先生も参加してるし、大丈夫でしょ」
「あ、え? 大先生も参加してんの?」
「当たり前じゃない。立木さんの名前や事務所の名前、まして僕の名前で募集して人が集まると思う?」
確かに冷静に考えれば、アイドルグループ新設ともなれば一大事業。そんな大事業を成功させようと思えば、安本源次郎以外適任はいない。
ただ地方でなら、慣らし運転という意味合いでなら、新人アイドルプロデューサーを起用しても不思議ではない。
安本源次郎のことだ。もしかすると、本気でそんな思惑もありそうだと月男は考える。
もちろん、考えただけでそれを口にはしない。どんな意図があるにせよ、それを口にして何か得になるかといえばそんなことは無い。つまらない憶測を口にして安本源次郎に切られる方が痛手だ。
何よりこんなふざけた仕事の振り方をする、この男の仕事もバカにできない。
収入もその触れる題材も、心と財布に優しい大事な取引相手。
安本源次郎も四代目主水之介も、繋がりはあって損はない。
そんな打算的な計算をし終わったのを見計らって、主は月男に言い放つ。
「それにしても、さすがに天才作曲家。ちゃんと本命引き当てるね」
「お前なぁ、俺を試したの?」
「そんなことないよ。ただ自分の詞に自信がないだけ」
「ふぅ~ん、そんなもんか」
「そうそう、そんなもん」
この時主が描いた賀來村美祢ソロアルバム収録曲『月の雫』は、今は見ることのできない美祢の涙を想って書かれた歌詞。
その涙にどれほど寄り添い歩けるのかを自問する歌詞だった。
私的感情が乗っている主にとっては重要な曲ではあったが、ほかの安本源次郎作詞のアルバム収録楽曲に見事に埋もれてしまう。
この曲が日の目を見たのは、この時期から遥か未来でのこと。
かすみそう25の新人アイドル。佐川玲が一人前のアイドルになったころ、ようやくこの曲が人々の心に届くのだった。
デビュー当初より、姉の佐川綾とセットとなり『佐川姉妹』というユニットでの売り出しが多かったアイドル。彼女が独り立ちするころ、佐川綾はアイドルを卒業するのだった。
その卒業公演で姉に送る一曲に選んだのが、義兄の描いた『月の雫』だった。
誰にも見せなかった涙に、妹の自分はどれほど寄り添えたのか? 自分のせいで望まぬアイドル人生ではなかったかと、涙ながら歌い上げたその姿でこの曲は人々に認知された。
その時、ファンは懐かしい美祢の姿とともに目の前のアイドルの心情に涙するしかなかった。




