三百五十四話
翌日。花菜はどうにか決心をして、重い腰を上げた。
冠番組の収録前に目的の人物を見つけて、その背後ににじり寄っていた。
目的の人物は……矢作智里だ。
智里が収録の際ほかのメンバーよりも先に楽屋を出て、スタジオの隅で一人お茶を飲むのを花菜は知っていた。
不貞腐れ時期に、楽屋にいられなくてコッソリとスタジオに向かった時に見つけたのだ。
その姿を見られた智里は、照れながらこんなことを言っていた。
「ああ、見つかっちゃいましたね。……実は緊張しいなので、こうしてスタジオの空気に慣れておかないと声が出なくなっちゃうんですよね」
その時は聞いてもいないことをペラペラと……。と思っていたが、こうして頼みずらいお願いを口にするには絶好のシチュエーションだ。
あの時よくぞ話してくれた。そして、よくそんなことを覚えていたぞ、私! と智里には感謝を自分には少しだけ自画自賛を心に浮かべる。
そして、意を決して智里に声をかける。
「あ、あのさ……」
「っんんんん!!! ッブハぁ! っえほっえほ! ……か、花菜さん?」
急に声をかけられて、口に含んでいたお茶を盛大に吐き出した智里。せっかくメイクしたというのに、その顔はお茶と涙と、……何かによって汚れてしまった。
「ああ!! ご、ゴメン!!」
「い、いえ……全然、大丈夫です」
せき込みながらも謝る必要はないと花菜を制する智里。
そんな場面でオロオロするしかない自分に、花菜は自己嫌悪してしまう。
「どうしたんですか? まだ収録には時間ありますよ?」
黙ってしまった自分を気遣い、声を率先して出してくれる後輩。
しかも年下なのに。
花菜は何か頼み事がしずらい空気を感じていた。
「あ、あの……」
花菜の視線は一向に上を向かない。
床に何かあるのかと思うぐらい、床を見ている。
「あのさ!」
意を決したはずなのにその声は上ずり、次の言葉を詰まらせる。
「なんですか?」
問いただす智里の声は、優しい。
それに引き換え、自分は……。
あまりの情けなさに涙が出てしまいそうだ。
「あの……都合が良かったらで、いいんだけど……」
断りやすい前置きをついつい口にしてしまう花菜。
「今度、ダンスのレッスンを……一緒にしてくれないかなぁ……って」
「いいですよ?」
「ほ、本当に!!」
「え、ええ。私も一緒に踊りたい曲があったので」
思いのほか快諾してくれた智里の何気ない顔が、花菜には慈愛に満ちた顔に見えた。
「あ、ありがとう!! よかった。……実は『花散る頃』のペアダンスパート自信がなくてさ」
「……花菜さんも『花散る頃』を?」
「もって……まさか」
「はい。実は私も……そろそろセンターのパートを本格的にやってみようかな……って」
Wセンターの楽曲で、三人がセンターを同時に踊ることは無い。
復帰した花菜が、まさかまだあの曲に執着していたとは露ほども考えていなかった。
何とか美祢を一人にしないために、プライベートを削ってきたのに。
一瞬智里の顔が曇る。
だが花菜はお願いを聞いてくれたことに破顔して感謝していた。
「ありがとう!! 本当にありがとう!! 私ひとりじゃどうにもならなくってさ! 本当に助かるよぉ~」
智里もライバルとして名乗りを上げたはずなのに、まるで気にしていないかのような花菜の表情。
もしかして眼中にないとでも言うのだろうか?
「一番美祢のとなりで踊ってるから、色々教えてもらいたくって」
そうではないようだ。本当に心から自分とレッスンすることを喜んでいるように見える。
しかも、自分のほうが教えられる立場にあると認識している。
これが……高尾花菜?
あの自信に満ち溢れた前任の絶対エース?
もしかして別人?
智里の脳内は、あり得ない可能性を模索するほど混乱していた。
だが了承してしまった言葉を撤回するほどではない。
考えてみたら、あの高尾花菜と一緒にレッスンできるまたとない機会。
もう何作もフロントから外れていたとはいえ、そのダンスから学べることもきっとあるはずだ。
花菜から何かを盗んで、絶対に自分が美祢のとなりに立つ。
あの難曲『花散る頃』で。
あの星と美祢の一件で、智里は決意した。
もうあんなことが起きないように、自分が『花散る頃』を踊ろうと。
美祢に恨まれても、罵られても、美祢の『花散る頃』への執着を断ち切るのだと。
しかし……もしも花菜が踊れるのなら……?
それが一番望まれる未来なのでは……。
一瞬、智里は自分の決意が鈍るのを自覚した。
いや、そうじゃない。
例え花菜が挑戦していようとも、踊れる保証などどこにもない。
自分が踊れるようになるのが、一番確実だ。
レギンスで隠れている花菜の膝に視線を落とす。
万全でない花菜に期待をかけるのはよそう。
万全であってもダメだったのだから。
これがもし、宿木ももや志藤星であったのなら賭けるチャンスはあった。
だが、この人を信じるなんて……。
それはとても残酷なことだと思う。
自分は美祢のように、残酷なことはできない。そう思ってしまう智里がいた。




