三百五十一話
主が間宮に花菜を紹介する数日前。
今から3年前のある日。主は花菜を秘密の場所に呼び出していた。
「花菜ちゃん。呼び出しちゃって、ゴメンね」
都内某所のバー。秘密を公開したくない職業の集まる秘密の場所。
そんな秘め事の多い場所に、年若い花菜を呼び出す主。
その年齢差に、邪推される可能性は非常に高い。
しかし、そんなのは店内にいる客全員がそうだ。この店で見たことは、店の外に出たら忘れるのがルール。
便利な店というモノは、意外と多いものだ。
「先生。何の用? こんな場所に呼び出して」
「いや、どこに呼び出したらいいものか悩んじゃってね」
「まあ、いいけど。先貰ってるね」
「うん」
花菜はもう何杯目かの酒をあおる。
酒は便利だ。何かを思い出しそうになるのを止めてくれる。
自分が何者なのかを忘れさせてくれる。
「それにしても、結構な値段だけど。先生、大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。それなりにはね」
「さすが、安本源次郎の後継者」
花菜は陽気に笑ってグラスを口に運ぶ。
だが、陽気に見えるはずの花菜から発せられる空気は、重く暗い。
何時からだろうか?
主の頭に疑問が浮かぶ。そんな自分を主は嘲笑する。
決まってる。
あの日、花菜の膝が壊れた時から花菜の纏う空気は一変した。
後輩ともかかわらない。同期のメンバーとも一言も交わさない日が当たり前だ。
かつての親友賀來村美祢とは、目も合わせない日々。
そんな彼女を気晴らしだと、何回か連れ出した。
そのせいで週刊誌に嗅ぎつけられそうになったことすらあった。
だが、事務所は主を止めようとはしなかった。
主のわがままを聞くことのほうが、有益だと判断したのだろう。
実際、この日から3年後。二人の会合は週刊誌により公表一歩手前まで行った。
そしてその記事を花菜の飲酒癖という、幾分か柔らかい表現に差し替えられた。
花菜自身はもうこの時には理解していた。世間からも事務所からすら終わったアイドルだとラベリングされているのだと。
それが自分なんだと。かつての輝きは、今の自分には微塵も感じない。
「後継者なんて、そんなたいそうなもんじゃないよ。……」
「今日はなんで呼び出したの? 兵藤さんに怒られない?」
「……今日は、花菜ちゃんに仕事をお願いしたくってね」
「ふ~ん。いいよ」
「……」
内容すら聞かずに、花菜は承諾してしまう。
事務所すら通さずに。
花菜があれほど大切にしていた、アイドルとしての誇りはどこかに行ってしまったかのようだ。
「で? 仕事って? お芝居?」
「そうだね。芝居……になるかな」
「なにそれ? 煮え切らない」
花菜は主のほうを見もしないで、グラスをあおる。
「花菜ちゃんに……『花散る頃』を踊ってほしい」
「……。っ!」
一瞬の間をおいて、花菜は主のほうを睨む。
主の口にした言葉が、どういう意味なのかを問いただす様に。
「もう一度、アイドルとして輝いてほしいんだ」
「先生。さすがに怒るよ?」
「お願い」
カウンターに花菜のグラスが打ち付けられる。
激しい音に、数人の客が主たちのほうを見てまた談笑に戻っていく。
この店では、こういった物音は日常茶飯事だ。
時に商談の不成立。時に男女の別れ。
様々な理由で、カウンターから毎日のように音が流れる。
「あのさ、先生。私が、私の足がこうなった原因、知ってるよね?」
花菜の言葉に怒気が混じっている。
おおよそ想い人に向ける怒気ではない。本気の、傷害に発展しかねない本気の花菜の言葉。
「知ってる」
「なら、なんで!?」
顔色を変えない主に、花菜の怒りが向けられ続ける。
なんで、なんでそんなことを言うのか?
あれ以来、膝を怪我して以来まともに踊ることすらできず、ステージで満足のいくパフォーマンスをした事すらない花菜。
酒に逃げているのを自覚しても、やめられない理由は明白だった。
あの時の、怪我をする前の、最前列で浴びていた歓声を忘れられないからだ。
誰にも期待されない、誰にも注目されないアイドル。
そんな自分を認めたくなくって、苦いだけのアルコールを口にしていた。
それを理解してくれていたと思っていた、主からの言葉。
理由によっては、主でさえも許すことができなくなってしまう。
「あの娘に、美祢ちゃんに花菜ちゃんを演じるのをやめて欲しいんだよね」
「……。え?」
「気が付かない? 今の美祢ちゃんは、あの頃の君だよ」
少し前に後列から見た、美祢の姿がフラッシュバックしてくる。
今やはなみずき25の顔。はなみずき25の大エースと言えば、誰もが口をそろえて美祢の名前を言うだろう。
花菜自身もそう思っている。
だが主には、美祢自身にとってもそうではない。
はなみずき25の主役は、今なお高尾花菜。
それを理解している主は、どうか立ち直ってほしいと花菜に依頼をしたのだ。
どこかで花菜もわかってはいたのだ。
今の美祢が、本来の美祢ではないことを。
あの娘の長所は、ひたむきな我武者羅さ。
言い換えれば挑戦者的な汗が魅力を彩っている。
だが今の美祢は、アイドルとして誰かを待ち受ける立場。
知名度も人気も、アイドルと言えば賀來村美祢と言われる今は、本来の美祢とはかけ離れている。
花菜の愛したアイドルの姿ではないことは、わかっていた。
「だからって! 私にどうしろって言うのよ!!」
あの時のことが忘れられない。
どんなダンスをするときにも、あの絶望の音が忘れられない。
膝が思うように動いてくれない。
恐怖で身体が言うことを聞いてくれない。
何度思い出しても、慣れることができない。
花菜はグラスを手放して、カウンターに伏せる。
流れる涙を止めることもできない。
膝自体は良くなっている。
リハビリも問題なく、ダンスはできると太鼓判を押してもらった。
だが、心が動いてくれない。
ひび割れた心の器は、かつての自分さえ収めることができない。
「花菜ちゃん。君に『花散る頃』の踊り方を教えてあげる」
「……え?」
「必ず踊れるようになる」
主は確信をもって花菜に告げる。
もう一つの確信は、伏せたまま。
「先生……悪い顔するようになったんだね」
変貌した想い人を見て、花菜はどうしようもなく悲しくなるのだった。




