三百三話
主が作業場のあるマンションに戻ると、ケイタイ片手に焦った様子で通話している人物がいた。
立木の部下の兵藤だと主は思い出す。
大柄で強面、その割に意外と小心者。
あの顔であんなに焦っていたら、よほどの一大事があったに違いないと周囲に言っているようなものだ。
立木もよく言っていた、『もう少し余裕をもって対応できれば、もっと仕事任せられるんですけどね』と。
安本の懐刀が立木なら、立木の懐刀は兵藤ということになるだろう。
しかし、あの様子ではまだ兵藤の評価が上がる様子はない。
なにせ、佐川主と言う新人作家が抜け出したぐらいで、こうも大騒ぎなんだから。
ケイタイを耳に当てながら、周囲を見回している兵藤が主を見つける。
兵藤は電話の向こうに何言か発して、震える指先で通話終了をして主に向かって全力で走ってくる。
その形相は、人の好さを知っている主が見ても逃げなくてはいけない衝動に駆られるほど。
「あっ! 先生!!! ど、どこ行ってたんですか!? 探しましたよ!!」
「あ~。ごめんなさい。ちょっと元凶に会いに行ってました」
詰め寄られた兵藤に外出の理由を告げる主。
あまりの恐怖に主の心はとっさに防衛として、笑顔を選択する。
「元凶?」
主の笑顔と言葉に疑問符を浮かべてしまう兵藤。
言っていることはわからない。
ただ目標を確保した兵藤は、脳内のシミュレーション通りに主の手を引いて歩き出す。
どこに連れていかれるのかと問いただすと、事務所の会議室を確保したのでそっちで作業をして欲しいと言われた。
さらに、自分を探すために相当数のスタッフが駆り出されていたことも知り、主もさすがに恐縮するしかない。
これから夜の時間が始まろうという時間。
前を歩く兵藤は主を確保したというのに、未だに焦ったような空気を纏っている。
少しの無言が気まずくなり、ほかのスタッフはどうしたのかを尋ねる。
「残ってるのって兵藤さんだけですか?」
「他のスタッフは帰りました。家庭有ったり、色々忙しいですからね!」
到着した事務所のロビーは、兵藤の言葉が正しいとでも言うように閑散としていた。
そんな中、主を探していた兵藤。
兵藤の言葉に少しの怒気が見えたのは、……そういうことだ。
何とも申し訳ない気持ちになってしまった。
「本当にごめんなさい。ん?」
頭を下げた主の視界に、ある人物が引っかかる。
確かにあの人物は、園部レミだ。
だが纏う空気は、以前の園部レミとは違っていた。
遠い記憶にあるそれと似たような雰囲気をまとったレミの姿。
それが気になり、思わず足を止める。
主の気配が離れたことに気が付いた兵藤は、少し焦った様子で振り返る。
また逃げられでもしたら……!
そんな焦りを見せた兵藤の眼には、一点を見つめて動かない主の姿が映る。
「どうしました?」
「い、いえ。なんでも……作業に戻りますね」
何かを隠したような笑顔を見せる主を不審に思いながらも、逃げていないならそれでいいと兵藤は会議室を目指す。
会議室の扉を開けて、主の入室を促す。
兵藤の顔は真剣そのもの。
もう逃がさないと、主の一挙手一投足に集中している。
「お願いします。廊下にいますから、何かあったら声かけてください」
「やだな、逃げませんよ」
ここまで来て逃げるわけが無いと笑う主だったが、その言葉を信用してくれる兵藤はどこにもいない。
ご自分の行動をお忘れですか?
兵藤の眼はそう言っていた。
「……先生?」
「ごめんなさい」
そうでした、そうでした。
兵藤の横を通り過ぎて、ようやく作業する環境に足を入れる。
だが、さっきの彼女の姿がフラッシュバックしてくる。
あんな雰囲気を学生時代に見たことがあった。
直接担当することは無かったが、よく覚えている。
同じ男性というだけで、不当に責められた覚えのある当時の記憶。
苦い実習の記憶の中でも、とびきり苦い思いでしかない産婦人科の実習の記憶。
あの当時は、簡単に口にできた正論。
だが、レミちゃんの姿をみてしまった今はもう、同じことを口にすることはできないだろう。
そしてその事実を知れてしまったら?
妹の様に慕っている彼女はどう思うんだろうか?
主の頭の中に美祢の姿が浮かぶ。
その姿は泣いていた。
全身から悲しみをあふれさせた美祢の姿。
「……美祢ちゃん。悲しむよな」
「何か?」
主は兵藤の問いかけに、頭の中の美祢を振り払いながら答える。
「いいえ、独り言です」
だが頭の中からいなくなってくれるはずもなく、美祢がレミとの別れを悲しむ声が響いている。
一人になったことで、その声は少し大きくなったような気がしてしまう。
違う、そうと決まったわけじゃない。
自分の勘違いだと言い聞かせて、主は用意された音源を流し始める。
何とも悲し気なメロディーが聞こえてくる。
そのメロディーとリンクするように、頭の中の美祢が泣きじゃくる。
大丈夫! そんなことは無い。君が泣く必要なんてどこにも無いんだ!
そう自分の中にいる美祢を慰めるために、多くの言葉があふれてくる。
美祢の涙を止めるすべを持たない主は、その言葉を紙に留めていく。
美祢が一番つらい時に、誰かを頼っていいんだと伝えるための言葉が並んでいく。
賀來村美祢が後に語る自分の代表曲の中に、とあるソロ曲があった。
安本のアイドルが、その曲を上げたことに大きな衝撃を与えた。
安本が付けた歌詞ではないその曲は、発表された時期も関係してあまり話題には出せない曲だったこともあり、そんな曲を代表曲として語る美祢がアイドルとして異質に映った。
悲し気な曲調と大切な人を励ましきれない無力さを嘆いた歌詞。
元気な笑顔が特徴のアイドルが、悲しみに満ちた表情で披露された曲。
しかしその曲を披露する美祢は、その表情も相まって独特の色気を帯びることでも有名な曲があった。
それが『涙を流さない方法』という曲だ。
主が、いや、四代目主水之介が初めて見せた感情的な詞の楽曲。
美祢がいなくなったはなみずき25では、永らく封印されてしまうことになる。
それは披露する人物を選ぶという意味で、『はなみずき25の魔曲』と分類され『花散る頃』と並び語られる楽曲となっていくのだった。




