三百二話
感情を晒してしまった安本は、肩で息をしながらも顔自体は恥ずかしそうな表情をしている。
「すまなかったね、つまらない話をしてしまって」
「いえ良いんですよ。それよりも今は休んでください」
先ほどの安本と同じ人間かと思う主であったが、疲労の色が見せる安本を気遣う。
ベッドを倒そうとする主に、何とか思い留まらせようと安本は声を上げる。
「しかしなぁ」
「今は休んで早く戻ってきてくれないと。さすがに21曲はきついんで」
そんな安本を制止ながら、ほどほどにして欲しいと心から願う。
自分にとって、短期間での作詞作業。
逃げ出したと言い出すことはできないが、それでもこのような状況が今後も続いてしまうことだけは勘弁してほしいとちゃんと表情に出しながら懇願する。
「できるだろ?」
安本は自分の指示が無茶なことではないだろうと、本気で思っている。
そんな安本を見て、主は呆れた表情を向ける。
きっと、誰もが自分の様に仕事ができると思っているに違いない。
もしくは、それだけ自分を買ってくれているのだろうか?
だとしたら買い被りだ。
「荷が重いですよ。まあ、今回だけですから」
「今回だけ……ね」
安本は主の言葉を信じていない。
「さ、休んでください。先生」
そんな安本の視線を無視するように安本に安静を強いる主。
その姿は看護師のようでそうではない。
聞き分けのない困った親をなだめようとする息子のようにも見える。
主の態度を見て、安本は少しだけむくれてしまう。
「人を老人扱いして」
「僕にとっては先生は、親世代ですからね。労わりたくもなりますよ」
芸能界のフィクサーと呼称している人物をさらっと老人扱いしていることに気が付いていない。
もしも年齢を気にしているような人物であったのなら、その言葉がどれほど命取りになるか。
だが安本はそれほど自分の年齢を気にしていないようだ。
自分を労わろうとしている主に、破顔している。
「くくく! だったら僕の仕事全部譲っても良いけど?」
いつのころからか、主を後継者にと思う気持ちは少なからずあった。
レーベルの上層部や事務所の上役たちも取り込むつもりでいる。
個人事務所を立ち上げた時に、幾つかの妨害工作が画策されていたこともある。
現状でも安本源次郎の愛弟子とでも売り出せば、業界内での大きな話題になる。
しかし、安本はそれを望んでいない。
こうして軽口で自分のところに来てはどうかと言ってはいるが、それを受けないことを知っているのだ。
もちろん主は安本の言葉を受け入れるつもりはない。
「嘘ですよね?」
「ん?」
どうしてそう想ったのか?
安本はとぼけた顔を主に向ける。
「さっき、諦めるつもりが無いって言ったばかりですよ」
「ハハハ、そうだったね」
悪戯好きそうな顔をしている安本に呆れたように、主は先程の安本の言葉を引用する。
確かにそう言ったなと、安本は笑う。
そんな安本に主はやや真剣な表情を向ける。
「それに欲しい時は奪いに行きますから」
「ふふふ。渡さないさ」
そう、まだ渡せない。
主導はあくまで自分が握っていなければいけない。
まだ恐ろしいフィクサーであると思ってもらわないといけない。
おいそれとアイドルに手を出す人間だとは思っていないが、人の心は変わるモノだ。
そんなことで、育てていた苗を枯らすようなマネはできない。
「まあ、今は先生ほどアイドルに執着してませんから」
先ほどの真剣な表情を崩した主がほほ笑む。
だが安本は主の言った『今は』注目していた。
たぶん無意識で言ったのだろう。
もしかしたら、自分を覆い隠す嘘かもしれない。
それでも、一片でもその意識が無いなら言わなくていい言葉。
まったく執着が無いならあそこまで未練のある短編を書く必要はないし、そもそも関わらなければいいだけの話なのだ。
こうして自分と話していること自体、@滴主水として執着していることに彼は気が付いているのだろうか?
だとするなら、自分から奪いに来ると言う言葉も、まったく意識していない話じゃないはずだ。
なら、焦る必要なんてない。
「いずれそうなるよ」
「そうですか?」
安本の言葉に、主は首をかしげる。
確かに一時は、この大作詞家に勝ちたいと思ったことはある。
しかし今はどうだろうか?
同じ土俵に立てる資格すら、どう手に入れていいのかわからない。
そんな相手に挑むほど、自分はもう若くはないと自覚している。
だが、主を見る安本の眼はそう言っていない。
わからないと首をひねる主に、安本はヒントだけを置いていく。
「ああ、君はいずれ自分の物語だけじゃ物足りなくなる」
「だと、良いんですけどね」
誰かの物語を、もう一度創造できるのだろうか?
美祢に向けてしまった、自分本位な希望。
それがどれほど彼女を苦しめたのか。
そんなことをもう一度、自分が誰かに向けるだろうか?
わからない。
そうならないように心掛けているつもりだが、また愚かにも同じことを繰り返してしまうのだろうか?
答えのないまま、主は病室の外へと歩き出す。
「帰るのかい?」
「いえ、仕事が待ってますから」
今はわからない。
しかし、安本の様にアイドルを一途に思うことができいたなら、知ることができるかもしれない。
だから、主は自分の戦いに帰っていく。




