三百話
大作詞家、安本源次郎の代役という大役を任された主は、苦戦するであろうことを予期して早々に自ら缶詰となることを決めた。
マネージャーの松田に、すべての予定を後送りにしてもらう折衝を頼み自身は事務所近くの一室に引きこもった。
そうそれも大役を果たすため。自分の限界以上の仕事を全うするために払った犠牲なのだ。
……だが、そんな殊勝な気持ちは長続きはしないものだ。
机に向かう主の手には、ケイタイが握られている。
使い慣れたいつものケイタイ。
弄ぶうちに時間はあっという間に浪費されていく。
そして一行も書けずに駆動音だけを流す、自前のパソコン。
主の認識で朝日を取り込んでいたはずの窓から、夕焼けが取り込まれている。
「ダメだ。書けない。……なにも浮かばない」
もう3日が経過した。
その間出来たのは3曲のみ。
残りはシングル曲2曲とアルバム曲14曲。ちなみに未だに聞いてもいない使用候補の音源は50曲。
主の中に陰鬱としたものが降り積もる。
自分は何をやっているんだ?
今日は結局1フレーズすら浮かばない。
自分のダメさに落ち込む主の耳に、ノックの音が届く。
扉から頭を下げたまま入ってくる立木の姿。
主には嫌な予感がした。
いつもは背筋を伸ばしたしっかりとした足取りの立木。
その立木が身を縮こませて、苦笑いのまま主の前に来ると言うこと。
それ自体がいつもなら事件なのだから。
「先生、進捗のほうはどうですか?」
進捗の伺いだけではないだろう。
立木の表情がもうすでに申し訳なさそうな顔になっている。
だが進捗を聞かれれば、素直に答えなくてはいけない。
「3曲は何とか。……アルバム用はまったく」
はなみずき25の新しいアルバムに使用する楽曲は4曲。
アルバムに使用するのは、12曲。
合計16曲。
もうアルバム曲に取り掛からなくては、制作時間的にはリミットに近い。
それを聞いた立木も少しだけ躊躇した様子を見せる。
しかし立木は立木で伝えなくてはいけなかった。自分の仕事として。
「そうですか……あの、実はご相談が……」
「聞きたくないなぁ。立木さんのその顔、絶対よくないことだもん」
耳を塞ごうとする主に手を止めて、強引に話題をはじめる立木。
「そう言わずに! ……こんな時期なんですが、かすみそう25も新曲制作予定が被ってまして」
そうだった。
あまりの事態に忘れていたが、新曲を制作しないといけないのは妹グループのかすみそう25も同じだ。
主はあきらめたようにため息をついていったい何曲必要なのかを確認する。
「何曲ですか?」
「5ですね」
「……21曲。はあ、頑張ります」
「お願いします!!」
計21曲。
今の生産性では到底無理のある曲数だ。
どうあがいてもできるわけが無い。
生来の後ろ向きが、主に大胆な行動を取らせる。
「……よし! 逃げよう」
逃げ出した主に立木が気が付いたのは、しばらくたってからだった。
◇ ◇ ◇
安本が入院している病院の前に主の姿はあった。
逃げ出すのは自分の意思だったが、冷静になるとあの安本の依頼を放り出して無事でいられるわけが無いのだ。
なんとか言い訳を考えながら、安本の病室へと足を動かす。
「まぁ、ほら。逃げる前に一目会っておくのは義理と言うか、人情だよね」
忙しく制作していないといけない時間帯。
そんな時間帯に訪問する言い訳をついつい口から漏らす主。
ほどなくして、立ちはだかる病室の扉。
それがやけに強固で大きく見える。
緊張しているのだと自覚して、大きく何度も肺の空気を交換する。
意を決して扉を叩く。
「安本先生いますか?」
短い返事がしたので入室すると、安本は手元から顔を上げて主の顔を見てほほ笑む。
「ああ! @滴くんじゃないか!」
主が頭を下げて、どう言い訳をしたらいいのかと思考を巡らす。
「ごあいさつ遅れまして、本当に……先生! 何やってるんですか!!?」
主はようやく安本の手元に気が付く。
「何って仕事さ。外の仕事は君に頼めないからね」
ベッドを起こして、背もたれにしてでも作詞作業を行う安本の姿は、主にとっては異常な光景だった。
「やめてください! 仕事って……先生はそれで倒れたんですよ!?」
そうこの男は過労で倒れたのだ。
なのに入院先でも仕事を辞めない。
元医療関係者からすれば、何とも迷惑な患者の姿。
思わず止めよとするのは正しい。
だが安本は反論を用意していたようだ。
「だからだよ。必要だろ? あれ」
「あれ?」
「あ~、そう。リハビリさ」
確かに必要なケースもあるかもしれない。
軽い頭痛を感じた主は、厳しい視線を向けて正論で反撃する。
「リハビリって……先生。そういうのは主治医の許可をもらってやってください」
「固いなぁ……そうか、君は元医療関係者だったか」
それじゃあ仕方がないかと、諦めた安本はようやくペンを置く。
たぶん自分が帰った後にまたやるだろうと予測出来る安本の表情を見て、主は深いため息を落とす。
よかった、自分がこの人の担当にならなくてという安堵もあったかもしれない。
だからだろうか?
主は今まで聞いていなかった安本の闇へと踏み込んでしまう。
「……なんでそんなに仕事するんですか? 先生ほどの人が」
「何故ってそりゃアイドルのためさ」
きっぱりと言い切る安本に、何とも言えない不安を覚える主。
そもそもなんでこの人は、アイドル業界にいるんだろうか?
何でアイドルのプロデュースなんていう仕事をしているんだろうか?
「アイドルのために倒れて、どうしてそこまでするんですか? 先生にとってアイドルって何なんですか!」
主の言葉に安本の表情が固まる。




