二百九十九話
安本源次郎が入院したと言う一方を受けた主は、美祢たちが所属する事務所に呼び出された。
大至急という一言が付け加えられたその一方は、そこはかとなく嫌な予感が漂っていた。
しかし得意先で、松田マネージャーの会社ということもあり他のスケジュールを押しのけて優先された。
事務所の中は慌ただしい。誰も彼もがてんてこ舞いで声をかけることすら躊躇してしまうほど、みんな表情に余裕がない。
だが、玄関で一人たたずんでいるわけにもいかず、顔を知っているスタッフを呼び止めて立木に取り次いでもらう。
よく知った人物の初めて見る余裕のない表情が、今回の安本の入院の影響の大きさを物語っていた。
主が通された会議室。
何度も入室したことのある部屋なのに、まるで別世界の一室に見えてしまう。
外の空気に浸食され、この会議室の空気さえ重苦しく感じる。
主の喉が鳴ると、短いノックが聞こえた。
主が返事をする前に開け放たれるドア。その勢は立てこもりに突入する特殊部隊を連想させる。
しかし入ってきたのは、当然だが警察ではなく立木だ。
立木も余裕がないのだろう。
短いあいさつを口早に済ませて、呼び出した経緯を説明する。
立木は安本が倒れた状況を細かく説明、それに伴って新しい仕事の依頼をしたいとまくしたてる。
立木の詳細な言葉で、これが全くの嘘ではないことは読み取れる。
だが、主には信じられない。
あの安本源次郎が、過労で倒れた?
あのフィクサーが?
「先生! お願いします!!」
何とか了承してもらおうと、立木は深く頭を下げる。
だがそんな立木の姿すら現実感が無い。
主はまくしたてる立木を制して、もう一度確認する。
「ちょ、ちょっと待って下さい。……あの安本先生が?」
「はい、体調を崩されました。次のシングルと次のアルバムの制作には参加できません!」
何とか現実を受け入れた主だったが、どうにも納得できない。
安本アイドルという言葉があるくらい、はなみずき25と安本という存在は密接に関係している。
安本が作詞してアイドル達が歌い、踊る。
だからこそ、商品価値があると主は認識していた。
自分も何度か彼女たちの曲に作詞をしているが、それはイレギュラーなのを理解している。
本来ファンが求める形ではないのを知っている。
だから立木の言葉にこう反論してしまうのだ。
「出さないって選択は?」
「大将も上層部も、今に出さない選択は絶対にないとの判断です。グループの存続を考えるなら、必ず出さないといけないと」
関わっているが、アイドルという業界には疎い主。
その機微を読むのは難しい。
確かに今やアイドル業界で、はなみずき25とかすみそう25と言えば連日話題になるグループだ。
安本アイドルという括りでも、過去一番に有名なグループとなっただろう。
だからこそ、立木の要請に主は二の足を踏んでしまう。
「……む、むりっですよ。だって安本先生の仕事を受け次ぐなんて!」
そう安本不在だが次の楽曲は、必ず必要。
では誰が作詞をするのか?
白羽の矢が立ったのは、メンバーとのかかわりも深い主だ。
正確には新人作詞家『四代目主水之介』に次回作の全楽曲、そしてその後に控える2枚目アルバムの全楽曲の制作依頼をされた。
「今回とアルバムまでで良いんです!! お願いします! 大将もそれを望んでいます」
「本当ですか、それ?」
真剣な表情の立木。たぶんその言葉に嘘はない。
安本源次郎までそれを望んでいる。
この状況でそんなことを言われて、信じない人間がいるのか?
いるのだ。
それが佐川主という男だ。
主から不安な表情は消えはしない。
「本当です。正直言って私も不安です。でも、ついさっき指示を受けました。9枚目のシングルと2枚目のアルバムは『四代目主水之介』に任せると」
立木は首を縦に振らない主の肩を揺らしながら、真剣に説得してくる。
「……いやぁ、……どうなんだろう? 出来ますかね?」
そんな立木の本音を聞いても、ほかに手はないのかと語外で言っていた。
安本のいないピンチと無くなっていく制作時間。焦っていた立木は安本の指示以外の言葉で主の説得をはじめる。
「やってもらわないことには! ……。賀來村のこれまでの頑張りが無駄になります」
「……っ!! わ、わかりました。わかりましたよ!! やらせてもらいます!」
「ありがとうございます!!!」
美祢のことを持ち出され、今まで見てきた美祢の姿が無駄になると言われてしまえば、主は首を縦に振る以外の答えを持ち合わせていない。
だって、主は美祢の夢を応援すると言ってしまっているのだから。
そのためなら自分に降りかかる困難を引き受けないという選択はないのだ。
仕事を受けるという選択をした主に何度も頭を下げる立木。
決意した主は、一つの注文を立木に伝える。
「ただし、決まった曲とはじいた曲。全部聞かせてください」
「大将が決めた曲がありますよ?」
「安本先生と僕では、感じ方も違います。あの人のビジョンまでは引き継げません」
そう大ベテランの安本源次郎と自分という駆け出しでは、曲に対してのイメージが合わない。
何より全く違う人間なのだから、元々備わっている感性が違う。
安本源次郎のイメージを追えば、とん挫する未来は容易に想像できる。
だから候補の作品は、多い方がいい。
主は確信をもって口にする。
「わかりました。ただし時間が……」
「徹夜なら慣れてます」
そう慣れている。
今でも時々夜中まで起きて作業してしまうほど、主の身体は昼と夜の境界があいまいだ。
だから身体が辛くとも、その方が集中できると主は考えてしまう。
それに時間が無いならもとより削るのは、睡眠時間以外の選択肢はないのだ。
「……わかりました。大至急用意させます」
立木が走って部屋から出ていくと、主に急に現実が下りてくる。
安本の歌詞やイメージを全部なかったことにして、一から自分で詩を付ける。
それは矢面に自分が立つということ。
今までの様に安本のお墨付きの無い状態での一大事業。
これが成功すればいいが、失敗すれば自分たちの会社の命運にも関わってくる。
「えらいことになったぞ。大丈夫……いや、やるしかない!」
そうやるしかないのだ。
人生は選択の連続だという。そこには良いも悪いもなく後悔するかしないかしかないらしい。
自分の手に初めてのしかかる他者の運命。
一蓮托生の佐藤の運命をそっと見つめる。
そして何とか自分を鼓舞した主は、突発したスケジュールの調整のためにケイタイを手にする。
「松田さんですか? 至急スケジュールの調整をお願いします。はい、実は……」
これでいい。
主の後悔にしないための作業は、もう始まっていた。




