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二百九十四話

 主はここ数日、佐藤と共に会社の隅に泊まり込んでいた。

 主が苦手なこと。それはいわゆる缶詰だ。

 それをしないようにしてきたつもりだし、することが正しいとも思っていない。

 だけれども、必要に応じないわけにはいかない。

 社会人を経験しているからこそ尚、その求めに応じないといけない。

 将来必要になる可能性があることだから、それを訓練しておかないと逆に落ち着かない。

 佐藤も主の主張に呆れた顔をしていたが、しょうがないと付き合っている。

 誰かのいる空間で、ペンが動かないわけではない。集中ができないわけではない。

 要は苦手意識なのだ。

 閉じ込められてしまったという事実への抵抗なのだ。

 それを克服しようと、懸命にいらない努力をしている。


「先生、歌詞も原稿も結構早く上がる様になりましたね」

「いやいや、まだ第一稿ですからね。これが最終稿ぐらいじゃないと」

 2週間かかってようやく第一稿。普通にやれば何回かの修正すら終わっている時間が経過している。

 佐藤は主の言葉に、担当編集の苦労を垣間見る。

 せっかく、新作の『えきでん!』第一巻分の原稿が予定よりも早く上がったというのに、その余白をこんなにも無駄にしているのだから未来から締め切り間近の担当の悲鳴が聞こえてくるようだ。

 だが、この@滴主水という男はテンションで話をかくのだから、その勢いを殺すような指摘をしてはいけない。

 ま、尻に火がつけば嫌でも経験するのだから、今は付き合っておくのが吉だ。

 そして、こうして落ち込み始めた時にかける言葉も、佐藤は心得ている。

「先生、忘れたんですか?」

「何がですか?」

「あの大作詞家、安本源次郎も最後の最後まであがいてたって言ってたじゃないですか」

 主は自身の経験、目から得た情報を大事にする。

 自分よりも長く作家人生を歩む安本源次郎でさえ、納得のいくクオリティを創り出すのに時間を要するという事実は、主にとって救いだった。

 納得できるモノを時間一杯のギリギリまで使っても良いのだと、知ることができたのだから。


「ああ、そうでしたね」

「なら先生は、最後の最後の本当の直前まであがかないと」

 あの大作詞家にして、芸能界のフィクサーとして有名な安本源次郎でさえ、時間を要する作業を自分が簡単にできるはずがないという意識は、幾分か主の心を軽くする。

「……でしたね。僕は幸運なだけの凡人でした」

 納得できる、納得してもらえるクオリティにもっていくまで、時間をかけるのは当然の行いなんだと、自分に言い聞かせることができるのは、作詞作業に苦手意識がぬぐえない主にとってどれほどありがたかっただろうか?

 少し沈みかけていた主の顔に力が戻ってくる。

「そうです。天才だなんて思っても絶対に口にしない方がいいですよ」

 そんな主を茶化すように佐藤は、軽口をはさむ。

 主が自分を天才だと評したことも称したこともない。

 それを承知で佐藤は、まるで主がそう思っているかのように断定して話を進めようとする。

「……思ってませんよ」

 嫌なものを見る目で佐藤を見る主。

「本当に?」

「本当です」

「本当の本当は?」

 佐藤は主を茶化すのを辞めない。

「しつこいですって」


 なんだ、本当に思ってもないのかと残念がる佐藤の表情。

 主はため息を一つ落とす。

 無理を言って付き合ってもらったというのに効率を落としているのだから、こんな弄られ方になるのも仕方がないのかもしれないと。

 しかし佐藤の表情はそこまで暗くはない。

「まあ、先生の仕事が軌道に乗ってくれるのは、こちらの本懐ですから」

 会社として、社長としての佐藤は、たとえ一ミリでも主の筆が進むなら何の文句もないのだ。

 さっき書いた歌詞も、もしかしたら依頼者が気に入り即採用とするかもしれない。

 例えそれが無理でもそれをひな型にすれば、作品となるのも時間の問題。

 作品ができれば、売り上げになるのだからそこまで悲観する必要を感じない。


「軌道……乗ってますかね?」

「ん~。乗りかけてるくらいで」

「乗りかけかぁ」

 落ち込む姿も何度も見てきたが、納期まで間に合わなかった姿は見たことがない。

 なら、佐藤が楽観的になるのも仕方がなかった。

 そう、楽観的になった佐藤は口も軽くなってしまう。

「でも、あと一年もすれば僕がプロポーズできるくらいにはなれます」

「あはは、じゃあ頑張らないと……佐藤さん?」

 佐藤のジョークだと、いったんは笑った主の表情が真顔に戻る。

「なんですか?」

「お相手いるんですか?」

「ええ、まぁ」

 あー、つい口を滑らせてしまったと日が笑いを浮かべる佐藤。

 主には持つ者の余裕の表情に見えてしまう。

 そんな主にとって敵の表情をしている佐藤に、思わず詰め寄る。

「誰ですか? 僕の知ってる人ですか?」

「毎日ぐらい顔をみてるんじゃないですか?」

 あっけらかんと言ってのける佐藤に、主は驚愕の表情を返す。

「……まさか」

「はい」

 主の想像が正解だと、佐藤は言う。

 あれだけ、フィクサーの関係者に警戒しろと言っていた佐藤が、まさか!?

「佐藤さん、あなたは命知らずですね」

「いやいや、先生ほどでは」

 関係者ではなく、フィクサーのアイドルに恋慕しているオッサン作家よりはマシだと佐藤は笑ってしまうのだった。

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