二百九十話
高尾花菜がいないはなみずき25のライブ。
それはファンはもちろん、メンバーもスタッフにとっても初めての体験。
新曲の『花散る頃』のお披露目ライブの会場は、いつものライブとは違う雰囲気に飲まれていた。
最近ようやく楽屋にも活気が戻りつつあったが、それでもまだまだ静かな楽屋にモノが落ちる音が響く。
口を押え、立ち上がった美祢。
チビチビと口に運んでいた楽屋弁当が、膝に落ちて衣装が汚れている。
あいが片づけておくからと美祢に言うと、美祢は大急ぎで衣裳部屋へと駆け込む。
その姿をみるメンバーはさらに不安を募らせる。
美祢がライブ当日、開演間近になってまで何かを口にしていることなどいつもならしていない。
座長のいつもと違う行動というのは、意外と目につくもの。
美祢の走り去った楽屋の天井を見て、ため息とともに顔を下げるメンバーが数人。
スタッフの眼から見ても、この日の楽屋のテンションは最悪だった。
「凜さん、ゴメン! ……衣装汚しちゃった!!」
衣裳部屋へと飛び込んできた美祢に厳しい視線を向ける、衣装担当の雨宮凛。
「美祢! あんたって娘は。本番まで時間無いんだよ!」
「本当にごめんなさい!!」
謝る美祢越しに時計を確認する凜。
もう汚れを落としている時間はない。
ふと、衣装のラックに目が留まる。
誰も袖を通していない衣装が見える。
それに手を伸ばそうとして、一瞬ためらいを見せる。
その衣装は、この現場にいないメンバーのモノ。
高尾花菜の歌衣装。
だが、現実を考えればそれしかない。
凜はプロとして現実的な方法を選択する。
「仕方ないね。……合わないだろうけど、今日はこれ着て行きな」
「これって……」
美祢にも誰のものかわかる。
それが花菜の衣装だと。
「ああ、花菜のさ。仕方ないだろ? 特急でウェストと丈だけ詰めるから待ってな!」
凜の手元で、花菜のサイズから美祢のサイズに変更されていく衣装。
あまりの手早さに、美祢には何が行われているのかすら認識できない。
だが、確実にそれが自分の衣装へと変化していくのは理解できる。
「……」
能面の様に無表情のまま、その変化を見守る美祢。
チラリと見ただけの凜には、美祢の心境などわかるはずもない。
もう5年目になろうというプロのアイドル。
それでも、多感な10代の女子。
どんな反応が返ってくるか、凜でも慎重になってしまう。
「さ、これでどうだい?」
「うん……踊れそう」
凜から手渡された衣装を、抵抗なく着てフィット感を確かめる美祢。
何の感情の変化もない様に凜には見えた。
問題ないという美祢の背中を押して、凜は時計を指さす。
「さぁ急ぎな! 開演時間になっちまうよ!」
「ありがとう! 凜さん!!」
笑顔を見せてお礼を言う美祢の姿に、何かが重なる気がした。
見慣れたはずの美祢の笑顔とは違う何かを見てしまったのだ。
「……美祢? ……だったよね?」
わかっていたはずなのに、思わず確認してしまう。
だが、この部屋にはもう凜しかいない。
凜の問いには誰も答えるものはいなかった。
「それでは聞いて下さい! はなみずき25の新曲『花散る頃』!!!!」
美祢が曲を呼び込み、イントロが流れ始める。
本来であれば、美祢のとなりには花菜がいた。
そう想うと、笑顔を見せる美祢に悲壮感を感じずにはいられない。
いつものお披露目ライブとは違う空気感。
待ち望んだ、自ら応募してまでこの場に来たのに、ファンの中には振り慣れたペンライトが重く感じる者も居る。
はなみずき25の新曲は、いつも以上にはなみずき25を感じる楽曲となっていた。
だからこそ、何でこの場に花菜がいないのかと残念でならない。
一番のサビが終わり、間奏に入ると美祢のソロダンスが始まる。
本来であれば、美祢と花菜のペアダンスであったパート。
そんな思考が会場に蔓延していた時だった。
会場の一角から、ざわめきが起こり始める。
それは一瞬で、会場へと広がり埋め尽くす。
一人で踊っているはずの美祢。そう一人のはずだ。
だが、会場には美祢のとなりに花菜が見えていた。
その手の運び、視線の移動。
交差の瞬間の身体を避ける動きでさえ、美祢は花菜がいる通りにやってみせる。
「なぁ? 花菜様、不参加なんだよな?」
「……わかんない、わかんないけど! いる!」
普段のライブ中、曲披露中には声を出すこともないファンたちも、思わず隣の誰かに声をかけてしまう。
ファンはそこに花菜を感じていた。
もちろん、ステージ上のメンバーにもそれは見えてしまう。
花菜が、そこにいる。
笑顔で美祢と踊っている。
しかし圧巻のパフォーマンスを披露する美祢の後ろは、ボロボロだった。
あるメンバーは美祢に見惚れ、あるメンバーはいるはずのない花菜の姿に涙を流し、ダンスを続けることすら難しい状態だった。
こんな状態の美祢をメンバーはめったに見ることはなかった。
ただ一人、智里をのぞいて。
矢作智里は知っている。
美祢のダンスの表現力が起こす、迷惑な奇跡を。
見る者すべてを魅了してしまうそのダンス。
それは、美祢が全力で踊っている証拠。
全力で全開で、表現力がオーバーフローして空気を浸食していくかのような美祢の本気。
智里はブーイング覚悟でその空気に割って入る。
ソロの美祢のとなりに。
いつの間にか、美祢と花菜のペアダンスは、美祢と智里のペアダンスに変わっていく。
美祢と智里のダンスは観客を、メンバーを現実へと回帰させる。
誰にも理解されないまま智里は戦っていた。
本気の美祢と。
美祢に敵わないまでも、その空気を霧散させるために。
のちに、このお披露目ライブは美祢の起こした最初の伝説だとファンは語る。
そして美祢を語るファンの中には、この楽曲『花散る頃』を以前以後とする者が多い。
美祢は自身の代表曲として挙げることは無いが、この曲こそ美祢の代表曲というファンは少なくない。
それほどまでにインパクトを与えたお披露目ライブ。
花菜がいないと嘆いていたファンも、曲が終わる頃には大いに盛り上がっていたのだった。




