二十九話
高橋悠理。十年ほど前、世を席巻したアイドルである。
ただ、活動期間は短い。2年ほど活動したが、ある事件を切っ掛けに芸能界を引退する。
(やっぱり逃げられないんだなぁ)
主は美祢の言葉が罰を執行されていない罪そのものに聞こえた。
主にとって高橋悠理の名前は馴染み深く、出来れば聞きたくない名前だった。
「あの人のステージは今も覚えてます。綺麗でカッコ良くて、それでも可愛いって言葉が似合う人でした」
そう、主もよく知っていた。だから、好きになったのだ。
「先生?」
「あ、ああ、そうだったね」
「先生も知ってたんですね!……先生、顔色が?」
「え? ああ、大丈夫大丈夫」
主の視界が徐々に白んでいく。楽しそうに高橋悠理について話す美祢の表情が、ある話題で陰りを見せる。
「でも、あるコンサートの時、ファン同士の喧嘩が起きちゃって……。それ以降見なくなっちゃったんですよね」
それは高橋悠理のファンが作った私設サークル同士の喧嘩だった。野外の会場で起こった前代未聞の事件。
逮捕者などは無かったものの、自分のファンの素行に嫌気がさして引退したと言うのが最も有力な説だ。
「あの時わたしたちもいたんですよ。あの会場に花菜と花菜のお父さんと一緒に」
その言葉を聞くと、主は姿勢を保てず床に手をつく。
「大丈夫ですか!? 誰か呼んできますね!」
「え? あ、大丈夫。本当に大丈夫」
手をとって、走り始めようとする美祢を止める。
「でも……」
2、3回深呼吸をして主は、なんとか平静を取り戻す。必死に笑顔に似せた表情を作り出し、消え入りそうな声で美祢に問いかける。
「巻き込まれ……なかった?」
「わたしは大丈夫でしたけど、花菜は大変みたいでした」
主の顔が青く染まっていく。
意を決したように主は枯れそうになる声を振り絞る。
「あのね、……その喧嘩のなかに、……僕もいたんだ」
「え?」
「十年前のあの野外、僕もいたんだ。……問題のサークルの……片割れに入ってた」
発端は些細なことだった。歌の解釈が違う。その程度のことだった。なのにあの日二つのサークルは衝突してしまった。一般の客を巻き込まないように立ち回っていた主だが、それでも当事者には変わらない。
現に運営から出禁措置を頂戴した。刑事罰も民事も告発されなかったから経歴に乗らないだけ。
あの日の罪は未だに主の中にある。
「あの時は泣いてた女の子の涙を止めることもできなかった。自分たちが巻き込んでおいて」
「え?」
「頭に怪我して、助けようとした女の子に励まされるって情けないエピソード付きなんだよ」
今にも泣きそうな顔のまま、主は笑ってみせる。
「あの、頭の怪我って」
「ああ、ほらコレ」
主は側頭部にある毛の生えてない部分を見せる。
「あんな目に合わせておいて、……やっぱり僕なんかがアイドルに関わっちゃダメだよね」
「あの! そんなこと無いと思います」
突然、美祢が大声をあげる。
「だって、直接手を出してないんでしょ? だったら……」
「ううん、そうじゃないんだ。あの騒動を止められなかったんだし、あの場にいたんだから同罪だよ」
主は美祢を見ないように立ち上がり、壁に持たれながら部屋へと戻っていく。
「……」
美祢は、主が去るのを見送ると思い出したように自分の部屋へと走り出す。
「美祢パイセン。どうしたの?」
美紅が飛び込んできた美祢に驚き訊ねる。
美祢は答えず、スマホを手になにやら入力しそのまま送信する。
「花菜お願い!」
それだけ言うとベッドに突っ伏し、身体を打ち上げられた魚のように動かす。
翌朝、合宿所に一台のタクシーが乗り付ける。
中から現れたのは、高尾花菜だ。
怒った様子の花菜に戸惑いながら、スタッフは対応のため近寄る。それを見た花菜は、怒りを隠さず声を出す。
「あいつはどこ!?」
花菜はスタッフの言葉通りの道順で一つの部屋をまっすくに目指す。
花菜はノックもせずに主の部屋へと突撃する。
「っ! た、高尾さん!?」
突然の訪問者に驚き、それが花菜であることを認識すると主は再び驚いた。
花菜は立ち上がろうとする主に素早く近寄り、襟を持つと絞り上げる。
「聞いたわ。あの時の人があなただったなんてね」
「え?」
ガッ! っと額を主に打ち付けると花菜は目に涙をためながら叫ぶ。
「あの時助けてくれた人が、こんな情けない男だったなんて。いい? よく聞きなさい。あなたの関わった事件でアイドルが一人いなくなったかもしれない。けどね、あなたの行動と言葉でアイドルを二人産んだの! ここにいる後輩たちだって間接的にあなたが生み出したアイドルなの!! いなくなった人のことなんて忘れて、今ここにいるアイドルを見届けなさい!」
「……え?」
花菜の後に駆け付けた美祢が補足する。
「先生! あの時先生が助けたのは、たぶん花菜なんです」
「……え!?」
花菜は主を突き飛ばす様に離し言い放つ。
「人の人生変えたんだから、最後まで見届けなさい! いいわね!?」
「……は、はい」
主はかなの迫力に押されて思わず返事をしてしまう。
「よし!」
納得したように花菜はそのまま合宿所を出て、待たせていたタクシーに飛び乗り去っていった。
タクシーの中で花菜は窓にうっすらと映る自分を確認する。
打ち付けた額が赤い。そして頬も紅い。
「やっと……会えた」
花菜は身を挺して自分を助けてくれた、初恋の人の顔をもう一度思い出すのだった。




