二百七十五話
花菜と別れた後も美祢は、ひたすらに鏡と向き合っていた。
そう、いつものように。
しかし、一つだけ違うことがあった。
それは、集中力が保てないということ。振り付けを練習する美祢にとって初めての感覚。
なんで、今日に限って。美祢は鏡に映る自分を恨みがましい視線で睨む。
いやと、美祢はあたまを振る。本当はわかっている。
上手く踊れないせいだ。
「はぁ、はぁはぁ」
疲労して再度踊りだすことのできない美祢は、自分との睨み合いをしながら肩を揺らす。
もっとちゃんとできないと。自然と悔しさを握る拳に力がこもる。
主が美祢を見つけたのは、そんな時だった。
半分照明が落とされているレッスン場。人気もないレッスン場に、陽炎を纏っている美祢がいた。
美祢の周りには光があるにもかかわらず、何故だか暗い。
智里の心配が当たったのかもしれないと、主は努めて明るく声をかける。
「美祢ちゃん、お疲れ様」
「あ、先生! お疲れさまです」
主の声に反応した美祢は、明るい表情を主へと向ける。
さっき感じた暗さもどこかに行ってしまっている。
「あれ? なんだ、やっぱり大丈夫じゃない」
やっぱり智里の勘違いだったと、主は知らず籠っていた全身の緊張を解く。
「? 何がですか?」
「智里ちゃんがさ、美祢ちゃんに声かけてくれって」
「智里が?」
「うん、なんか心配そうにしてたから。また無理してるのかなって」
「もう、あの娘は……。大丈夫ですよ。決まってたことですしね」
美祢の顔が曇る。自分よりも新しい場所で戦わなくてはいけない智里自身のほうが、大変だろうにあの娘はまだ、かすみそう25の時の様に自分を心配してしまう。
自分よりも自身のほうを考えて欲しいと願う美祢。
たぶん苦難は彼女のほうが、多きはずなんだから。
はなみずき25の固定ファンが受け入れるのか、元々の智里ファンは受け入れてくれるのか? 何より新規のファンは来てくれるのか?
悩む問題は美祢よりも多いはず。
なのに、まだあの娘は自分を心配する。
嬉しい。嬉しいが、どうにも納得できない。
後で、智里を問い詰める必要がありそうだ。
先輩としての一面を思考の中に登場させている美祢を見て、主は安心していた。
安本の計画が、彼女に影を落とすかもしれないと心配していた主。
だが、それは取り越し苦労であったことがわかった。
自分の知っている賀來村美祢は、落ち込むときはわかりやすく落ち込む。
それが、この時にないのであれば大丈夫。
「だよね。それに関しては、いっぱい背中を貸したしね」
必要なら、また背中でもなんでも貸せばいい。
そうして、彼女と自分はいろんなことを乗り越えてきたんだから。
「アハハ! そうでしたね。お世話になりました」
主の言葉に、美祢が笑っている。
それだけが、今の主には重要なことだった。
丁寧に頭を下げた美祢の向こうに、本多のダンス映像が流れているのを見つける。
実際振り付けを教えている本多を見るのは、これまでもあった。
だが、映像としてそれを見るのは初めてだ。
いつもの本多の眼とは違う。
この時の彼は、表現者の顔をしている。
「あ、それ。『花散る頃』の振り付け?」
「そうなんですよ。今回のは結構難しくって」
「へー。確かに」
画面をのぞく主の眼に、本多の顔が飛び込んでくる。
創作に人生を捧げた男の顔。
そして、自ら引退を口にした男の顔。
ダンスと小説。表現の場は違うが、そこにいたのは間違いなく主より多くのことを表現してきた先輩がいる。
知らず知らず、主の身体が揺れ始める。
音を身体の中に浸透させる動き。
まだまだ拙いが、美祢はそれを知っていた。
「あ、そう言えば。聞きましたよ」
「何が?」
「先生がダンス習い始めたって」
「えっ……」
誰に聞いたんだ?
主の頭に一瞬混乱と共に疑問が生まれる。
だが、自分の下に誰がいるのかを思い出したら、その疑問は一瞬で解決してしまった。
そうか、松田さんに聞いたんだな。
松田マネージャーは出向しているが、一部分ではまだ美祢たちのマネージャーでもある。
自分の話を聞いていたとしても不思議ではない。
そうわかってしまえば、主が口にするのは別の言葉だ。
「いや、本格的にじゃないよ?」
「どうしたんですか?」
当然の疑問だろう。
美祢をはじめ、はなみずき25もかすみそう25も自分が音楽関係に疎いことを知られている。
そんな男が、今更、この年齢でダンスを始めたとなれば何があったのか疑問になるだろう。
さて、これは言っていいものか?
美祢は自分の小説のファンでもある。
だが、アイドルでもある。
なら、不用意なことを漏らすはずがない。
信用できると判断する主。
「う~ん。まあ、美祢ちゃんならいいか」
……美祢の喜ぶ顔が見たい衝動も確かにあった。
「実はさ、今度『遥か空の下、踊れ魔法陣』が書籍化するんだ」
「っえ!? 本当ですか?」
思った通りの笑顔を見せる美祢。
それを見て、主の顔が紅く染まる。
「うん」
「おめでとうございます!」
「ありがとう。でね、踊れる人の気持ちを知ろうと思ってさ。習い始めたんだ」
もう完結させた作品ではあるが、もう一度作品と向き合い直そうと登場人物の心情の考察の一貫で、中年と呼ばれる年齢からダンスを始めた主。
作品の向上のため、何かを始める。
それまでにない、主の行動に驚きながらも美祢は喜びを感じていた。
「そうなんですね! わぁ~楽しみだなぁ」
笑顔で素直に感想を口にする美祢に、主は力のない笑顔を向ける。
「いや、さすがにちょっと後悔してるけど」
「そうなんですか?」
「うん、なんか何してるのかわかんないんだよね」
ダンスなど、この歳まで触れてこなかった表現にどうしても抵抗と、未知の身体の使い方を強要され戸惑いがいつになっても無くならない。
不安そうな主の表情。
それを見た美祢は、手を叩いて妙案を思いついたと明るく提案する。
「よかったら、私教えますよ」
「本当!?」
「ええ、背中のお礼に」
初心者の主にダンスを教える。
本来なら思いつきもしない提案。
だが、美祢は新曲の『花散る頃』のダンスに煮詰まっていた。
美祢自身も少しだけ、現実から離れたところに足を延ばしたい時間帯だったのだ。




