二百七十一話
本多が勤務するレッスン場の事務所。
あと少しで、数十年と通い詰めた場所に足を運ばなくなる。
別段悲しいわけではない。自分で決めたことだから。
腰の状態と、家族との関係。ここらが潮時なのは、本多も重々承知している。
だが、何故だろう。
どうにも離れがたく思えてしまうのは。
そんな想いが去来した本多は、部下が帰って寂しくなったデスクたちを見ている。
そして、最近よく聞くことになった音源を思い出して、少しだけ頬が緩む。
確かに、あの先生が言っていた通りなのかもしれない。
安本に振り回されて、いつか辞めてやると声を上げた時も。上層部の金勘定に負けて、育ち切っていないアイドル達の背中を見送った時も。何度も、もうこんな場所に来るものかと思っていたはずだった。
だが、本当の終わりを自覚してしまえば、そう、寂しいと感じてしまう。
悲しいのではない、寂しいのだ。
そう思ってしまえば痛みとは関係なく、腰が重くなる。
離れがたいと思ってしまう自分に気が付く。
そんな昔には感じなかった、感情を手にして本多は思うのだ。
自分は歳を取ったんだなと。
後悔は、どうしても頭から離れてくれない。
もっと教えることがあったはず。最後まで見届けるはずだった。
でも、それはもうできない。
本多の口から、ため息が漏れる。
自分でも珍しいと思うほどのため息。
思考の中に雑音が目立つと、周囲の音が鮮明に聞こえてくる。
レッスン場から聞こえる、ステップの音。
聞き慣れたその音で、誰が残っているのか本多は理解した。
まったく、あいつは年頃の乙女だっていう自覚はないのか?
自分が、アイドルだって自覚はどこに置いてきたんだろうか?
だが、仕方がない。
それが、あの娘の、賀來村美祢というアイドルの姿なんだから。
レッスン場に足を運ぶ間も、美祢のステップの音は軽快に鳴っている。
だが、途中の同じところで止まり、また初めから同じ音が鳴り始める。
「お、賀來村。まだ残ってたのか」
「……はぁはぁ、ボス。はぁ」
床に汗が流れるのも構わないほど、美祢は繰り返し踊っている。
だが、本多の声に即座に反応したところを見ると、いつものように高い集中は保っていないようだ。
「どうだ? 新曲の感想は」
うまくいっていないのを知っていながら、本多は問いかける。
果たして、自分の最後の振り付けにどんな感想が帰ってくるのか。
「難しいです」
「だろうな」
そう創ったのだから当たり前だ。
そうそう簡単に踊られては、自分のダンス人生に疑問を持たないといけなくなる。
だが、今回はそれを感じさせてもらわなくてはいけない。
一か月。自分のダンスの集大成とでも言える振り付けを、自分の3分の一程度のパフォーマンスしかしていないアイドルに踊らせるのだから。
「手振りはそこそこ、足技も難解だけどそこまでじゃない」
結成当初から各種ダンスの基礎を叩きこんできた、はなみずき25。その中でも、メンバー1自主練をしてきた美祢にとっては、どんな手業足技でも苦になることはない。
逆に言えば、そんな美祢でも踊れない部分がこの振り付けには存在している。
であれば、メンバーの多くは踊ることはできないだろう。
多くて3人。もしかしたらセンター不在の楽曲になる可能性すらある。
もちろん、そうなる様に創ったのだから本多の表情に変化はない。
「ん。で? どこが急所だ?」
「一番は、3か所あるターン」
そこに気が付いたか。リズムの取り方も求められる水準に達している。
なら、美祢は踊れるかもしれない。
あとは気づきだけだ。
何に気が付くのかは、……楽しみにとっておこう。
本多の表情が、ようやく崩れる。
「そうかそうか。ま、ガンバレ」
助言もせずに美祢を見ている本多に、美祢の視線が向く。
とても真剣なまなざしだ。
「……ボス」
「ん?」
「ボスにとってアイドルってなんでしたか?」
界隈から、伝説と言われる振付師。本多忠生。
その本多が考えるアイドル像。
美祢にとって、未だに答えの出ない問いかけが本多に向かって投げられた。
美祢の質問に難しい顔を隠さない本多。
「難しい質問だな。アイドルか……」
思えば口にした事のない考えだった。
安本の連れてくる女の子を、ステージに上げるまでにアイドルに仕立てる。
それが仕事だったからだ。
これという答えが、自分の中にある気はするが。それを言語化できるのかは疑問だ。
「アイドルは、熱だな」
「熱……?」
本多の答えに、いまいち理解が及ばない美祢は、更なる言葉を待つ。
本多は、思案しながらポツポツと話を繋げていく。
自分がこんなことを、教え子に話す日が来るなんて。
本多の顔は、美祢が今まで見てきた中で一番やさしい顔をしていた。




