二百六十九話
先日、担当するアイドルに正式に引退することを伝えた本多は、後任の振付師の元を訪れていた。
はなみずき25とかすみそう25の未成年メンバーと、一部成人メンバーの暮らす寮に。
「おーい、誰かいるかー?」
「はーい、ごめんなさいね。ここ女子寮だから男性の方は枯れてても……って、ジジイ」
本多の声に出てきた、寮母のリョウは本多の顔を見るなりげんなりとした表情を見せる。
以前見た通りのリョウの反応に懐かしさを覚える。
「おい、誰が枯れてるだ。……リョウ、久しぶりだな」
「聞いたわ、引退するんでしょ。何の用?」
メンバーから聞いていたリョウが、めんどくさそうに本多の対応を続ける。
用件はわかっているようだと、本多はさっそく本題を切り出す。
「戻ってきてくれないか?」
リョウは以前、本多の下で働いていた。
その頃はまだ、はなみずき25結成前。別のアイドルグループを担当していた。
集客も落ち初め、レーベルから終幕を切り出されたころに、リョウはダンスチームを離れ寮母の役割を始めたのだった。
だが、本多の引退というダンスチームの一大事。
リョウもそういう要件だろうと、辟易とした表情を見せる。
そして、戻るつもりはないと伝える。
「ええ~! こっちはこっちで楽ししぃ~」
「今でも踊ってるんだろ?」
だが、本多は納得しない。
以前の説得は、ここで引き下がったが、今回はそうはいかないと本多は意気込んだ顔を見せる。
「……」
リョウも本多の本気をうかがっていた。
そして、わずかな身のこなしで、まだ自分のダンスへの未練を言い当てる。
流石に、この老人の眼はごまかせない。
こんななりでも、自分が師と仰いだ人間だ。
隠し通せるわけが無い。
ダンスに関しては、日本で右に出るものがいないと言われた伝説の振付師、いや、伝説のダンサー。
そんな人の眼を、ごまかせるわけが無いと悔しいような、でも嬉しさも感じてしまう。
憧れたまま、この人がまた自分の前に来てくれたのだから。
本多は、もう一度リョウの眼を見てから頭を下げる。
「お前に、あの娘たちの今後を託したい」
「ここでもいいじゃない」
安本の娘たち。アイドル達を守ろうとする気持ちは、リョウとて負けていない。
ここであの娘たちの心を守るという仕事も重要だ。
だが、戻りたい気持ちがないわけでもなかった。
ダンスに関わる仕事を続けたい。それも本音だ。
しかし、どうしても戻れない理由もある。
「お前が、あのチームに戻ることを渋る気持ちもわかる。だが、お前しかいないと俺は思っている」
「……マサが居るじゃない」
自分がまだ、本多の下にいた時。自分と同程度の実力を持っている、有望なダンサーがいた。
本多の下という恵まれてはいたが、裏方の仕事。その同僚に尊敬するべき人間がいた。
それがマサだ。
ダンサーとして仕事をする。それは限られた現場でしか存在しない。
アイドルのパフォーマンスの裏方でも、ダンスで飯を食うというのは存外難しい。
だから、恵まれているのは確かだ。
でも、表現者としては? そんな疑問の抜けない自分。
それに対してまるで生きがいを見つけたように、求められた仕事にまい進する一人のダンサー。
自分が尊敬するもう一人のダンサー。
彼がいれば、自分なんか……。
「あいつも、お前がいいって言ってる」
本多の伝えるマサの言葉。
素直に嬉しい。
まだ、彼は自分を認めてくれている。
あの頃と同じように。
こんな場所でくすぶっている自分なんかを。
「……だってさ」
嬉しさに、思わず口元が緩む。
だが、一度は逃げ出した場所。
そこに戻るには、まだ決心がつかない。
だって、あの場所にはマサがいるんだから。
「……失恋が辛いのはわかるが、頼む!!」
そう、自分の愛した男のいる現場。
そこに戻るには、一度何かの踏ん切りをつけるしかない。
想いを告げる前に結婚してしまった、マサを忘れるために。
「……一晩」
「それは無理だ。あいつには妻も子もいる」
本多に即止められて、リョウの感情は爆発する。
「やだぁ~!! 愛妻弁当食べてるマサなんか見たくない!!」
マサと誰かが付き合ていたのが悲しいのではない。
マサが自分以外の誰かと結ばれたのが、悔しいのではない。
そうリョウにとって、マサはダンスのために人格を棄てた男。
情に流されず、ストイックにダンスにだけ情熱を傾けるその姿を愛していた。
だから、リョウにとってマサが愛妻の弁当とはいえ、手弁当なんかを口にするその姿が許せないのだ。
そんなマサを見るくらいなら、マサの家庭をいっそ……。
もちろんそれが叶わないのはわかっている。
だから、今のマサが視界に入らない環境に逃げ込むしかなかったのだ。
「新しく見つければいいじゃねーか! な!?」
複雑な男心に理解の及ばない本多は、思わず否定的な言葉を口にしそうになる。
だが、その気持ちを押し殺してどこかで聞けそうな、一般的な言葉で説得を試みる。
星の数ほどいるんだから、他に誰か探せよと。
もちろん、そんなありきたりな言葉が、そう簡単に届くことはない。
なぜなら、リョウにとってマサはただの恋愛対象ではない。
一種の崇拝に近いものなのだから。
「マサ以上にいい男なんかいないもん!!」
涙を流しながら座り込み、科を作るリョウに本多は頭をかきむしる。
「もん。じゃねーよ! 仕事してくれよ!」
本多はまだ、はなみずき25とかすみそう25のダンスチームのトップ。
今まではどうにか引き留めるために、こうして別の仕事を与えてはきたが、自分の引退を機にどう扱われるか分かったものではない。
なんとか、自分の後釜に据えることができないと、安心して引退どころではない。
焦りが、本多の言葉を強くする。
「してるじゃない!」
リョウにとっては、この職場も大事な仕事。
アイドル達のバックアップだ。
負けるわけにはいかない。
「お前は寮母として雇われたわけじゃねーだろ!!」
本多が最後まで取っておいた、正論はリョウの口を閉じるには十分だった。
リョウは未だにダンスチームに所属し、異動の辞令もないまま数年経過しているのを自覚していたから。




