二百六十二話
主と佐藤の新しい職場が稼働して、数日たったある日。
社長業にまだ慣れない佐藤の前に、新しいマネージャーが立っていた。
「今日からお世話になります。松田です」
深々と頭を下げる松田。
はなみずき25とかすみそう25のマネージャーである松田が、世話になると頭を下げる光景に佐藤は一瞬だけフリーズしてしまう。
そして言葉の意味を理解した佐藤は、ようやく再起動を果たす。
「ええっ! まさか、出向って松田さんでした?」
そう、佐藤も主もマネジメントなんて知りもしない業界の仕事。
主が伝手があると張り切っていたが……。
なんでそこから……。
芸能界のフィクサーと名高い、安本源次郎。その関連会社から人を引っ張ってこようなんて、大胆にもほどがある。
あの人、もしかして……ドMなのかな?
佐藤は、正直自分の選択を誤ったかもしれないと、少しだけ後悔し始めていた。
松田は佐藤の視線を受けて、同意を示す。
「ええ、@滴先生も怖いもの知らずですよね。まさか業務提携しようなんて」
「……本当ですよ。肝を冷やすどころじゃなかったですよ」
考える中で、一番のアンタッチャブルに踏み込んでいった主を呪わずにはいられない佐藤。
だが、そんな佐藤を見て笑顔を見せる松田がいた。
「でもまぁ、選択肢としては最良だとは思いますよ」
「ですかね?」
半信半疑の佐藤だが、松田は主の嗅覚に感心していた。
数ある事務所でも、作家兼半タレントとなっている主を扱える会社はそう多くはない。
作家は締めきりというモノに追われる生き物。
そんな特異な状況で、タレントの真似事までやるなら安本源次郎という大物作家を擁する自分の会社しかないだろう。
しかも、その事務所に入り込むのではなく、あくまで自分に適した環境を創り上げようとする姿勢。
松田は主への認識を上方修正したほどだ。
あいさつを終えた佐藤は、事務所内を忙しなく動き回っている。
社長業とはいったい?
@滴主水が選んだ、この男。
元編集者ということは知っている。
しかし、どんな男なのかまでは知らない。
「ええ。で? 佐藤社長、何を?」
「ああ! 掃除です」
松田の問いに、さも当然のように答える佐藤。
掃除……まあ、見ればわかるが、そうじゃない。
どうしてを問うているのがわからないんだろうか?
「ん?」
「あ、デスク周り汚いの嫌いなんですよ」
松田の視線を受けて、佐藤は改めて松田に応える。
周囲環境を整える。
社会人として、好感の持てる理由だった。
そうして、自社での自分のデスク周りを思い出す。
……いや、思い出さないほうがいいだろう。
まだピンボケの記憶を振り払って消してしまう。
そして、乾いた声で佐藤に同意を示すだけにとどめておく。
「ああ、なるほど」
急に佐藤の動きが止まり、松田に視線が向けられる。
「あっ! ごめんなさい。先生の直近のスケジュール!」
そうだったと、早速仕事を振り当てるために動きだす佐藤。
受け取ったスケジュールを見て、松田は絶句するしかなかった。
歌詞を依頼された事務所への訪問が、日に何件も入っているかと思えば、一日に実働一時間という日まである。
スケジュール調整にも美しさというモノがあると思っている松田は、その酷さを素直に口にする。
「……酷いですね」
「ですよねぇー! とりあえずとれる仕事全部です」
確か、仕事を取ってくるのは佐藤の仕事。
それを簡易的に調整するのは、@滴主水本人のはず。
「……あの先生、御自分の限界知らないんですか?」
自分の年齢も、移動時間さえも考慮していないスケジュール調整。
呆れた顔の松田は、これからの仕事に若干の不安を覚える。
しかし、佐藤はそうは思っていない様子だ。
「いえいえ! 出来る範囲で、です」
「佐藤さん、いくら何でも」
月の前半に集中している締め切りの山。
創作時間が極端に短く設定されているのにも不安しかない。
安本源次郎でも、もうちょっと振り分けているぞと。
「できるんですよ。それが」
「いやいや」
「半分は終わり見えてますから」
「……嘘ですよね?」
そんな見栄を張らなくても。
率直な感想を素直に顔に出してしまう松田がいる。
だが、佐藤はそんな松田に悪戯っぽい表情を見せる。
「賭けます?」
「私、安本源次郎先生のマネも経験してますからね? 絶対無理です」
佐藤の言葉に血を登らせた松田が、のっかってしまう。
売り言葉に買い言葉。
自身の経験をどう考慮しても、自分の勝ちはゆるぎないと憤慨している。
しかし、半月もすれば明確な勝敗が見えてくる。
「……嘘だ」
「僕の勝ちでいいですかね?」
勝ち誇ったような顔の佐藤が、松田の顔を覗き込んでいる。
「~~~っ!」
あり得ない! あってはならない!!
だが、確かに@滴主水が抱えていた8割の締め切りが消化されている。
おかしい。
いくら筆が速いとはいえ、限度がある。
だが、負けは負けだ。
「じゃあ、晩御飯行きましょうか?」
「次は負けません」
負け惜しみを口にした松田へ、佐藤の好意的な視線が投げられる。
「良いですね、強気な女性は大好きです」
佐藤は面白い人材が、@滴主水の周りに集まっていることを笑うしかなかった。
「あ、あの……」
「はい?」
「普通、外食じゃ?」
佐藤が用意した食事の席。
それは佐藤の自宅だった。
普通女性と食事と言えば、最初の選択はお店なのでは?
そんな当然の疑問を口にする。
まあ、男性の自宅までついてきている自分も自分なのだが。
一般的な質問に、佐藤はさも当然なように答える。
「それでもよかったんですけどね。ザルなんですよね?」
流石にザル相手に、外食するほど懐具合は暖かくないとおどける佐藤。
何て失礼なっ!
松田はわかりやすく怒り出す。
「誰に? って、@滴先生か。それ嘘ですよ」
佐藤に自分の情報を渡した相手に行きつけば、確かに誤情報を渡しても仕方がないと納得するしかなかった。
担当するアイドルが同席する場でしか、@滴主水との会食は行っていない。
警戒するよう業務命令を受けている状況で、酔えるほど松田は図太くないと弁明をはじめる。
「ええ~!! 本当にくだらない嘘つくなぁ。まあ、作っちゃったから食べてください」
「はい……うまぁっ」
「でしょでしょ」
笑顔の佐藤に、松田は腑に落ちない表情を浮かべる。
@滴主水といい、佐藤といい、なんでこうも家事能力が高いのか。
「なんか悔しい」
「あははは。一人暮らし長いですから」
「部屋も綺麗」
不意に思い出される自宅の光景。
男だから、女だからと言うつもりはない。
だが、こうまで差を見せつけられるのは面白くない。
「たまたまですって。いつもはもう少し、ね」
「……悔しい」
用意された答えのように、サラリと言ってのける佐藤を恨みがましく見てしまう松田がいた。




