二百四十二話
10年変らなかった主に、妙な安心を覚える奥津。
だが、主を含めた全員に罪があると言い切れる主に不安を感じてしまう。
人生の主役は自分以外にはあり得ない。
そんな言葉は少しの社会経験があれば、誰にでも言える極めて安い言葉だ。
すなわち、誰もが知っていることなのだ。
主の言葉、それは未だに高橋悠理を一番に置いているようにも聞こえる。
いや、社会経験があるにしては自己保身が無さすぎるとでも言うのだろうか?
奥津は、主にとっての高橋悠理は今どこにいるのかを知りたくなってしまう。
だから、主には言うことは無いと思っていた事実を口にする。
「……前に現場であってな、旦那さんの付き添いで来てた。綺麗だったぞ」
「そりゃそうでしょ。僕らのアイドルなんだし」
そう奥津は、あの事件後に高橋悠理と会ったことがあった。
もう引退して子供を抱えていた高橋悠理に。
あの頃の様に、きれいな顔をくしゃっとする笑顔も同じだった。
違うのは、その笑顔が向けられるのは子供と夫に対してということだけだった。
それを思い出すたび、奥津の心はざわめきだすが、主はその話を聞いても穏やかな表情のままそんなの当たり前だと言い切った。
「覚えてすらいなかった」
「そう、なら良かった」
少なからず、当事者の心の棘となった出来事。
それを最大の被害者が覚えていなかった。
その言葉に主はホッとしたような表情を浮かべる。
あんなこと彼女は覚えている必要はないと言うように。
そうかと、奥津は合点がいく。
この言葉を誰かから聞くことすら、彼の中では罰の一つなんだと。
もしかしたら、こうして過去の過ちを綴った作品を掘り起こされることも罰なんじゃないかと。
そう思えてしまえば、聞くしかない。
「……改変の件、怒ってるか?」
あの絶望のラストにも主なりの意味があったのではないかと。
それを当事者の自分が、救いを求めて改変したことを快く思ってはいなかったのではないかと。
「いいや、むしろありがたい。あのままじゃ救いがないらしいから」
しかし、そうではないらしい。
清々しい表情でさも当たり前だと言った表情を浮かべている。
あれを衆目に晒すことが適していないことを、誰かから聞いたようだ。
「ん? 誰に言われた?」
誰だ?
この件に関して、誰の意見も受け付けないのかと思ったら、意見を参考にする人物がいるようだ。
意固地ともとれるこの男に、意見を押し付けることのできる人物。
それは高橋悠理でも難しいはずなのに、もしかして今の佐川主にとっての重要人物がいるのか?
奥津は俄然興味がわく。
「美祢ちゃん……賀來村さんにね」
賀來村、賀來村美祢か!
なるほど、それならば理解ができる。
仕事として再会した時に見せたキャスト表。
その時候補に上がってた賀來村美祢を見て、渋い表情をしていたのかと。
候補に挙がっていたのは、今注目度の挙がってきている女優、渋谷夢乃が筆頭。次点が賀來村美祢だった。
「ああ、かすみそう25で仕事してるんだったな。彼女に仕事フッて悪かったな」
佐川主の活動、@滴主水のプロフィールを思い出すとあの渋い表情も納得だ。
どちらも@滴主水の関係者。
特に賀來村美祢は、作家としてデビューするきっかけになった人物。
そんな関係者に、佐川主の黒歴史を晒すような仕事をさせてしまうとは。
少しだけ申し訳ない気がする。
しかし、主はもう納得しているようだ。
奥津から見ても穏やかな表情を浮かべている。
「いや、あの娘じゃないとできないでしょ」
むしろ他に誰がいるんだと言っている。
先日撮影したライブシーンがフラッシュバックしてくる。
「だよな。あのライブシーンは圧巻だったな」
本当にそこにある熱狂が、写り込んだかのような一場面。
いや、賀來村美祢以外は、あの時本当に熱狂していたはずだ。
思わず自分が、メガホンを忘れかけたぐらいなんだから。
だが、それでも賀來村美祢は演技の中だった。
カメラ割りを忘れず、『小松崎レイナ』という役を理解することに勤めていた。
そんな奥津の驚愕の表情をみて、主は笑う。
「本物のライブはもっとすごいよ」
本来の、賀來村美祢自身としてのライブはもっとすごいと主は言い放つ。
そんな言葉に、奥津はさらに驚く。
「高橋悠理よりもか?」
「……うん」
高橋悠理という、自分達にとって特別なアイドル。
それなのに、彼女のことをそれ以上だと言い切った。
しかも、酒を一滴も口にしていないというのに、主の顔がほんのりと紅い。
「お前……もしかして」
気が付いてしまったわずかな表情の差。
10年前に見ていた主の顔とかぶる。
「……」
無言のままの主が、それは正解だと言っていた。
「やめとけって! 安本源次郎の娘なんか危なくって仕方ないぞ! 最悪東京湾だぞ」
「まさか、安本先生はそんなに悪い人じゃないよ。最悪僕が餓死するくらいじゃない?」
不用意に手を出して芸能界を追われた者は数知れず、自社タレントを擁護したことで潰された事務所すらあるという話はあまりにも有名すぎる噂話だ。
いや、噂で収まらないほど知れ渡っている。
一介の作詞家が持っていていい権力の上限をはるかに超えた力を有する安本源次郎。
その安本にに主が立ち向かえるわけはない。
一瞬ですり身になるしかない。
しかし主は、安本をそんなことをする人物だとはとらえていない。
ただ、自身が破滅することだけは確実なのだが、それに安本源次郎が関与しないという確信があるように見える。
「変わんないだろ、それ。……本気なのか?」
「さあ、どうなんだろうね? 本当のところは自分でもさ」
「……俺は聞かなかったことにしておく」
扱う話題が大きくなりすぎたと、奥津は思う。
懐かしい友人を守りたい気持ちはあるが、如何せん相手が悪い。
忘れて口を開かないことが、主のためだろうと。
「ありがたい」
そんな奥津の考えが分かったのか、主はあの頃のような笑顔を見せる。
「よし! 乾杯だな!」
そして、二人はようやくぬるくなったビールに口を付けるのだった。




