二百四十一話
主は慣れない居酒屋に来ていた。
とある人物から呼び出され、主も快く応じたのだ。
「おう! こっちこっち!」
「奥津監督」
その人物は奥津だった。
主とは年齢も近い、そのせいか周囲にはただの友達に見えているだろう。
だが、彼らの関係はそれに収まるものではなかった。
「やめろって! 俺とお前の仲じゃん」
「はぁ、奥津くん。変らないね」
二人の関係にどっちが上というものは無い。
主が奥津の呼び名を変えたことで、二人は昔に戻ったかのようだった。
そう、10年前に。
若き日の主と奥津は、とある場所で頻繁に会合していた。
その頃は、仲間も多く、一人の人物について大いに盛り上がっていたのだ。
高橋悠理というアイドルの話題で、何時間も語り合っていた、いつまでも。
「10年やそこらで人が変わってたまるかよ!」
「……みんなとも会ってるの?」
そんな楽しい時間は突然終わりを告げた。
野外のライブ会場での乱闘事件。
そのせいで主は仲間たちと散り散りになった。
みんなはどうしているのか? あの後どうなったのか?
主の心の棘がうずく。
「いや、こうしてお前に会ったのも偶然だしな。……それにしても、会長が作家になってるなんてな! あの頃から書いてたのか?」
そんなことはどうでもいいじゃないかと、奥津は主にグラスを勧める。
奥津のグラスの泡は、当に無くなっている。
懐かしさが辛うじて勝ちはしたものの、やっぱり会うには勇気が要ることだったのだろうと主は思う。
あの件の当事者に刺さった棘は、10年では抜けはしない。
「いいや、あの後から書き始めたよ」
主は手酌でグラスを満たしたにもかかわらず、それを口に運ぶことは無い。
奥津も同じだった。
何品かのつまみも、酒で満たしたままのグラスも一向に動かす様子が無い。
二人の間に重い空気が流れる。
周囲の喧騒はありがたかった。
いざ二人で会ってみても、何から話せばいいものか。
何か話したいことはあったはずだ。
あの頃の話も、あの後の話も。
色々と話し合いたいことはある。
だが、10年という月日が二人の口を重くする。
奥津がこれじゃいかんと引きつった笑顔を張り付けて、さも愉快そうに話を主に振る。
「それにしても、あのころの自分を悪役で書くとはなぁ」
「僕って言うか、彼女以外はみんな悪役でしょ」
「違いない! 俺も……そうだな」
全員が悪役。
そんな言葉で片付けていい話ではなかった。
相手のいることなんだから。
奥津は自分の拳を見る。
あの時の感触が今でも思い出せる。
あの不愉快な顔に触れた、不快な感触。
なんであれが事件にならなかったのか、今でも不思議でならない。
確かに一番の被害者である彼女と彼女の事務所は、表立って訴えはしなかった。
そして、次に被害を受けた目の前にいる主も、それを訴えることはしなかった。
今でもふとした瞬間に思い出す。
頭から血を流して倒れている主の姿。
主が死んでしまったかと思い、血が沸騰するかのようなあの感覚。
「助監督が起こしていい事件じゃなかったね」
それを察したのか、今度は主が張り付けたような笑顔で奥津をからかう。
「お、おいおい! 看護師さんも同じだろ」
「そだね」
なんとか言い返しはしたものの、自分の顔色は良くは無いだろうと予想ができる。
主の心配そうな表情が向けられていたから。
「……そんな責めても仕方ないぞ」
そう自分を含めて慰めるつもりで、過去を含めて何度か口にした言葉を主へ向ける。
「けど、忘れていい話でもないよ」
そう言うだろうこともわかっていた。
生真面目なこいつなら、自分を含めて誰も許しはしないだろう。
もしかしたら、せめて主にだけは責めて欲しかったのかもしれないと奥津は思う。
あの乱闘があそこまで大きくなった原因である自分を。
そしてなんとか主を言い含められれば、許されるのかもしれないとも思っていた。
なんて自分は弱いんだと、奥津は俯いてしまう。
自分を責め続けることもできず、仲間だった男を自分の慰めに利用しようとした。
それに比べて、この男はどうだ?
10年、決して短くはない時間だ。
その時間、一切自分を慰めることもせず責め続けていた。
ただ止めることができなかっただけだというのに。
責任の一端ではあるが、主犯ではないのに。
「あのな……彼女元気そうだったぞ」
「そう」
わずかに主の顔がほころんだのを見逃がしはしなかった。
もしかしたら、こいつは今もあの頃のまま。あのアイドルを好きでいるのかもしれない。
主の表情には、そんな空気が張り付いている。
ようやく二人に手が、グラスに伸びる。
グラスに触れはしたが、それを持ち上げる様子はない。
彼等の語らいは、いましばらく続くのだった。




