二百二十九話
夜中、安本は自宅の書斎で制作作業に追われていた。
いや、追われているというのは事実ではない。
彼は一日平均3、4時間の睡眠でのサイクルを何十年と繰り返している。
家人にも根を詰めているような仕事のサイクルでも、彼にとってはいつも通りのルーティンワークでしかない。
安本の歌詞を望む多くの音楽家たちの依頼を受けて、その日も狂人かのようにただ黙々とキーボードを打ち込んでいる。
そんな中、この時間には珍しく安本の携帯が鳴る。
自分の側近たちは、この時間を邪魔するわけもない。
いったい誰が?
安生元がいぶかしんでいると、携帯のディスプレイに『奥野』という名前が表示されているのに気が付く。
珍しい奴が掛けてきたものだと、少しだけ顔がほころぶ。
「ああ君か。……彼の歌詞はどうだった?」
「ええ、かなり反響が大きいですね。また次回もお願いしようかと」
あいさつらしいあいさつもなく、用件を言い当てた安本に驚く素振りもなく返事を返してくる相手に相変らずだなと、その変化の無さを喜んでしまう。
「わかった。それとなく仕事を回しておくよ。……ただ、彼にも本業があるからそれを忘れないようにね」
「それはわかってますよ。源次郎さん」
安本が主に回した仕事の中には、当然ながら安本の息のかかった依頼者がいたのだ。
その中でも真っ先に安本の望む決断をした、この人物を誉める様に安本は相手の要件を飲む。
ただし、主の邪魔はしてくれるなとくぎを刺しながら。
電話口の相手も、それを心得ているかのように同意を返す。
もし、この会話を聞いている第三者がいたとすれば、そんな二人の息の合った会話よりももっと別のことに気を取られるだろう。
主に作詞の仕事を回したことから、相手も音楽業界の関係者であることは明白。
それなのに、安本を名前で呼ぶという暴挙。
そして、安本がそれを受け入れているという事実。
だが、安本の側近であればその表情からそこまで警戒する相手でもないことがわかるかもしれない。
「ああ、命日に行けなくて申し訳なかったね」
「いえいえ、忙しいのは理解してますから」
そう、電話口の相手と安本をつないでいるのは、誰でもない奥野恵美子だ。
奥野恵美子の関係者で、安本が無礼な態度を気にしない相手。
それは自分が抱え込んだ旧来の盟友、本多忠生。
そして奥野恵美子の弟たち以外にはいない。
電話口の相手は、奥野恵美子の次に年長者だった長男の靖之。
安本と同じ音楽、それもアイドル業界に永くその籍を置く重鎮の一人だ。
安本と靖之の共通点は、それだけではない。
奥野恵美子の魅せた幻想に憑りつかれたままという共通点がある。
「どうだい? 姉君には会えそうかい?」
「まだまだ、難しそうですね。私のアイドル達も頑張ってはいるんですがね」
二人の望むものは、互いに変わらない。
あの時魅せられたアイドルに、奥野恵美子に再び会えることを望んでしまっている。
もう何十年もそんな果てのない幻想の中にいる。
本多忠生であれば、二人を怒鳴っていたことだろう。
そんなことは起きるはずも無いんだと。
居なくなったものは、還っては来ないんだと。
だが、本多でも確実に止めることはできはしないだろう。
あの日、奥野恵美子の追悼式で安本が彼女の映像の権利を買う代わりに金銭を奥野家に援助した時から。
あの日、安本の提案を受け入れ、その狂気を理解していながらも、同じ道を歩んだその時から。
二人の頭の中の一部分は、ずっと彼女に、奥野恵美子に支配されているんだから。
まるでそんな狂気を感じさせないように、二人の空気は朗らかなものだ。
まるで、望みがかなわないことが嬉しいとでも言うように。
それだけ、奥野恵美子という存在が特別なんだと確認し合うように。
「僕のところも、もしかしたらって感じでしかないからねぇ」
しかし安本の言葉に、靖之の声色が変わる。
「それは、どっちの話ですか?」
まるで候補者をわかっているぞというような、靖之の言葉に安本の頬が緩む。
やはりわかってしまうかと。君だけはわかってくれるとわかっていたとでも言うように。
「ん~、難しい話だ」
「賀來村美祢さん。今度、映画ですよね?」
そして、靖之の口から安本の手掛けるアイドルの名前が出てくる。
「知ってたか」
それは自分の望んだ候補者であるという答えではない。
ただ、自分の手掛けているアイドルの動向を知っていることに対する賞賛だった。
「はい、彼女の出る映画にうちのも出ますんで」
「そうだったのか。……」
まさか同じ現場に靖之のアイドルもいたのかと、少しだけ驚いた様子を声色に乗せてしまう。
安本は少しだけ、気まずさを感じてしまう。
靖之は安本のアイドルを知っているというのに、安本は靖之のアイドルの動向を知らなかったから。
それは語外で、靖之のアイドルに期待をしていないと言っているようなものだからだ。
「彼女、面影がありますよね」
だが、靖之は安本が自分のアイドルを知らないことに納得したような声で美祢を誉める。
奥野恵美子の面影があるというのは、二人にとっては最大級の賛辞なのだから。
「ああ。だが、まだまださ。……見に来るかい?」
彼女を自分と同じくらい渇望しているだろう靖之に、一目美祢を見せてあげたいと思う安本。
だが、靖之はそれを拒否する。
「いえ、私は私の手で姉に会いたいので」
「そうか」
そうだろう。
自分だったら同じ言葉を口にするはずだ。
自分と靖之、同じ望みを持っていても、見ていた奥野恵美子の像には違いがある。
安本の望んだ姿は、靖之の望んだ姿ではない。
同士に対して、とんだ暴言を吐いたと自責する安本。
「先生……身体には気を付けてくださいね」
それを汲んだ靖之は、安本の体を厭う言葉をかけるしかなかった。
まるでまだ一人にはしないでくれと言っているかのようだ。
「ふふふ。あの娘に会えるまで死ぬわけにはいかないさ」
そう、まだまだ死ぬわけにはいかない。
ステージ以外の場所で、再開するつもりなどさらさらないのだから。




