二百二十四話
「おはようございます、松田さん?」
一月下旬。主が事務所を訪れると出迎えたのは、いつもの立木ではなくマネージャーの松田だった。
いつも主を間近で監視していた彼女。
それをうすうす感づいている主だったが、彼女の顔を見るのはだいぶ久し振りな気がする。
というより、年が明けて初顔合わせなのだが、主はそこまで気が付いていなかった。
そしてもう一つ気が付いていなくてはいけない事にも気が付いていなかったのだ。
「あ、先生。おはようございます」
主のあいさつに力なく返事する松田。
その表情もどこか疲れていて、化粧でも隠れていないクマが見えている。
いつもはカッチリとしているパンツスーツも疲れているように見える。
ここまで観察すれば、さすがの主も表面上のことには気が付く。
「なんかお疲れ……ですよね?」
「ええ、年末年始も休みなく今日まで仕事してましたから」
薄く笑みを浮かべる松田の表情はどこか異世界を感じさせ、目の前の人物がこの世のものでないというような錯覚を与える。
その表情に主は看護師時代を思い出す。月20日の勤務で、1日しか日勤を行わなかった同僚の顔によく似ている。
完全にオーバーワークの人がする表情を浮かべているのだ。
「うわぁ……お疲れ様です」
まさか、またこの表情を見ることになるとは思っていなかった主は、若干引き気味に松田を慰労する。
その言葉、おそらく看護師とのダブルワークであった時の主が発していれば、松田もありがたく受け入れただろう。
しかし、今の主は自由業と呼ばれる職種。
一気に松田の顔が赤く怒り出す。
「……っっぅ!!! 誰のせいだと思ってるんですか!?」
「ええぇ!? 僕ですか!?」
身に覚えのないことだが、もしかしたら自分のせいで何か問題でも起きたのだろうか?
主の脳裏に松田と最後にあった、年末からの出来事が呼び起こされる。
駄目だ! 一切身に覚えがない!!
主はそう思っても、それを口に出したりはしなかった。
それを口にすれば、火に油どころではない。ついでに風まで送り込み、鉄すら溶けてしまうほどの高温となって主を襲うだろう。
身構えながら松田の言葉を待つ主。
しかし松田は、キョトンとした顔で主を見ていた。
「……いえ、今回は先生は関係ありませんでした。ごめんなさい」
一瞬で冷静になり、素直に頭を下げる松田の姿は普通に怒られる以上の恐怖を主に与える。
本当に限界まで疲れているんだなと、これ以上ない理解を主に与えながら。
「……本当にお疲れなんですね。……あっ! もしかしてMV撮影で?」
「よくご存じですね。って、そうか綾ちゃん」
そう言えば、妹が言っていたことを思い出し松田の過労の理由を言い当てた。
そしてそれが合っていると、松田の様子が答えている。
「ええ、なんか急きょスケジュール調整があったって。旅行気分で荷造りしてました」
妹によれば、本当に急きょ変更があったらしく休みが2日ほど無くなったが、その分泊まるホテルでの部屋割りが美紅と一緒になったと喜んでいた。
そんな妹の様子が可笑しくって、ついつい頬をほころばせて感想混じりの雑談を口にしてしまった。
そう、その雑談相手が過労で心身ともに疲弊している相手だということを忘れて。
「旅行……ハハッ、ハハハ! りょ、旅行。旅行ね。ハハハ」
松田が突如笑い出した。
だが、松田の表情は一切笑ってはいない。
天を仰ぎ、底冷えするような笑い声を響かせている。
「あー、お疲れ様です」
これはヤバイ。
これ以上ここに居てはいけない。
主の脳内で、特別警報が鳴り響く。
そう主が気が付かなくてはいけなかったのは、自分のデリカシーの無さにだった。
そして、もうこの状態から逃げることなど不可能なことにも。
「ああ、先生。先生も同行してもらいますね? MV撮影」
「えっっ!! な、何でですか!?」
松田はなんで自分がここにいたのかを思い出す。
主が来訪して、最初に出会うであろう場所にいたのかを思い出してしまう。
そうだった、自分はこの人物のスケジュールも抑える必要があったのだと思い出す。
「いやぁぁ、安本先生も来ますし、安本先生から『世界観を似せたいから同じ舞台でMV撮影しよう』なんて提案がありましてね。……そうか、先生も一枚噛んでたの思い出しました」
そして安本からの提案を思い出せば、なんで自分がこんなにも動かなければならなかったのかを思い出す。
先日公開されたかすみそう25の動画。
新曲の練習風景に感化された安本が自分にとんだ提案をしてきたことが始まりだった。
そしてその新曲を作詞したのは、誰でもない、目の前の人物ではないか。
ああ、そうかそうだった。
直接の原因ではないにしろ、一番の要因となったのは彼の曲だ。
安本に復讐できない松田は、その矛先を主へと定める。
「そ、そんなの八つ当たりじゃないですか!」
「でも、必要なお仕事でもありますよね?」
主の言っていることはもっともだ。
松田も理解している通り、これは八つ当たりだ。
だが、松田の言葉も全うだった。
いくらMV撮影に監督がいて、コンテも確認したと言っても現場で映像を見ることが一番早い。
作詞家として必要な仕事と言ってしまえば、確かに必要なことだ。
安本源次郎ほどの作詞家が同行するというのに、主のような駆け出しが同行しない理由などありはしない。
それは主も理解できた。
出来はしたが、どうしてもできない理由もある。
それは、ようやく決まった自分の新作『えきでん!』の一巻の執筆作業をはじめなくてはいけないからだ。担当編集の佐藤にはOKをもらいはしたが、その上や他の編集者に見せるために早く書き上げなくてはいけない。
そのために、必要な取材もある。
取材のためのアポイントメントを取らなくてはいけない。
そのアポイントメントを取るための前段階として、紹介者へ話を通しえとかないといけない。
その他にも、抱えている作詞作業もある。
主は主でそれなりに忙しいのだ。
今更それを覆すような、スケジュール調整は……不可能でないのが恨めしい。
「待って、本当に待ってください。……今はマズいです、今は本当にマズいんですよ!」
ただ、あまり仕事を抱える事を良しとしない主は何とか逃げようと頭を回転させるが、松田の迫力に押され上手い言い訳を捻りだせない。
そんな主を、狂気にも似た感情に染め上げられた松田の眼光が追い詰めていく。
「フフフ、こっちもね! 本当にマズいんですよ! おもに美祢のスケジュールがね!!」
主が原案の映画、その撮影スケジュールも松田を圧迫している問題の一つだった。
もう主は逃げることはできない。
出来はしないが、どうしても直視はできない。
「い、いやぁぁぁぁぁ!!」
主の悲痛な叫び声が木霊していた。




