ニ百五話
美祢が大人の都合という悔しい決断をして、数分後。主は立木を探していたらたまたま美祢を見つけた。
「あ、美祢ちゃん。おはよう……み、美祢ちゃん!? 待って! 待ってっば!」
いつかのように主から逃げる美祢。それはもう条件反射とばかりに主は美祢を追って走り出していた。
主には美祢が泣いているとわかったのだ。
顔もまともに確認すらしていない。
本当に美祢なのかも他の人にとってはわかりもしないほんのわずかな瞬間、その姿を視界に収めただけ。
それでも主には、彼女が泣いているとわかってしまったのだ。
だから美祢を必死で追う。
あの時とは違い、本気で逃げる美祢の背中を。主も本気で追うのだった。
「はあはあ、やっと追い付いた……」
主が美祢に追い付いたのは、馴染みのある屋上だった。
普段の美祢は近寄りもしない、でも主と美祢の二人には重要な場所。
そこに美祢は意識もしないで向かっていた。
まるで、主に捕まえて欲しいと想っていたかのように。
だが、美祢は主が追ってきたことを責める。
一人にして欲しかったのにと。
この人に涙を流す自分を見られたくはなかったのにという後悔を込めて。
「なんで追ってくるんですか!」
そんな美祢の肩を掴んで、主は美祢の顔を見るために回り込む。
「だって……ほら、こっち向いてごらん。やっぱり……そんなに泣いてたらさ、気になるよ」
主から顔を背ける美祢の頬を両手で包み、美祢の顔を見る。
自分の確信が正しかったと答え合わせを終えると、主は美祢を自分の胸の中へと迎え入れる。
美祢の泣き顔を見たくはないけど、一人で泣かれるよりはだいぶマシだと言わんばかりに。
もう何度目かになる自分の服が濡れる感触を感じている。
「ッッ~~~~!!」
美祢は押し付けられた主の服を握りしめながら、今まで押し殺せると想っていた感情を爆発させる。
なんで追ってきたと責めた男の服を遠慮もなしに握りしめながら、美祢はまたしても悔し涙で主の服を濡らしてしまう。
そんな自分を恥ずかしいと思えば、再び涙があふれてくる。
どうして止まってくれないんだ。
この人に寄り添いたいと、ふさわしい人になりたいと願えば願うほど、理想の自分が遠くに行ってしまう。
それなのに、なんでこの人は自分なんかに寄り添ってくれるのか。
ようやくたどり着いた理想の場所と、思い描く理想の自分。
それを同じ日に、遠くへと逃がしてしまった美祢は涙を止める手立てはなかった。
情けない自分を見せたくはないが、今の自分では
どうしようもないとその小さな背中をさらに小さくするしかなかった。
「僕にしては、珍しく正解したかな」
そんな感情を持っているとは知らない主は、自分の役目を果たせたことを小さく喜ぶのだった。
自分の服にかかる圧力が弱くなったと感じた主は、美祢に掛けていたコートを覗き込む。
「どう? ちょっとは落ち着いた?」
主のコートから目を紅くした美祢が顔を出す。
「す、すいま、せん。っあ、ありがとう、ございます、コートも」
自分が泣いている間に、自分を覆い隠す様にかけられたコートを主へと返す美祢。
その顔が目を同じぐらい紅くなっているのを主は気にする様子もなかった。
それが美祢の心を重くする。
まるで自分には興味を持っていないのだと言われているかのような気がするのだ。
泣き顔なんて見られたくはないと想いながらも、自分の変化には気が付いてほしいという矛盾に気が付く美祢はその顔を俯かせるしかなかった。
そんな悩める乙女に対して主は看護師時代の顔を見せながら、努めて冷静を装いながら美祢へ問いかける。
そうしないと顔に出てしまう。
押し殺しているはずの恋慕の顔が。
アイドルの彼女の重荷になる、自分の感情が。
「うん。それで今日はどうしたの?」
ポツポツと話しだした美祢の言葉に、次第に主の顔が難しい表情へと変わっていく。
そして美祢の口から花菜とのWセンターをなかったことにされた悔しさが語られると、主の首はあたまを支えることもできなくなり項垂れてしまう。
「……あぁ、そっか。あ~~……」
「先生?」
想っていたことを吐きだした美祢の表情とは対照的に、ようやく挙げられた主の顔は明かに困った表情をしている。
「あ、うん。あのね……その映画のタイトルってさ……もしかして『君はそのままで』?」
「っ! 先生、……なんで知ってるんですか?」
話してもいない映画のタイトルを言い当てられた美祢は、驚きを隠せないでいた。
もしかしてこの人はエスパーか何かなのかと思うほど。
「やっぱりかぁ。……うん、いやぁ、その映画の原案……僕の短編、なんだよね」
主が恥ずかしそうに自分の頭をかく。
その手が重いのか、さっきようやく挙がった頭が再び沈んでいく。
主の言葉に、美祢の頭はフル回転し始める。
自分の読んできた@滴主水の小説の中に、合致するものがあっただろうかと。
そしてようやく見つけたのだ。
大ファンである美祢でも忘れてしまうほどの短編小説のタイトルを。
「……あっ! もしかして『ありきたりな言葉も言えないけど』ですか?」
「あ~……やっぱり知ってたか。僕の書いた唯一の現代劇。誰にも見向きもされなかった、アレね」
言い当てられた主は、その体をピクリと震わせ小さく頷く。
最初期に発表したその小説は、あまりにも暗く陰鬱という言葉ではかたずけられないほど陰鬱だった。
あらゆるポイントが入らないのはもちろんだが、唯一の感想で『ゲロが出そうになるほど暗い』と称されるほどだった。
内容は想いを寄せていた女性に気が付かれることもなく、沈んでいた男がさらに沈んでいく様子を遠巻きにその女性に見られてただただ引かれてしまうという、なんの救いもないストーリー。
それを思い出して、美祢の顔が暗くなっていく。
「あれは、……悲しすぎますよ」
「うん、だからアイディアだけ使わせて欲しいってさ」
主は再び恥ずかしそうに、自分の頭をかくのだった。




