百九十三話
主が看護師の資格を手にしたのは、看護大学を卒業した22の時だった。
そのころは、都内の病院が内定し看護師として順風満帆なスタートを切り、主の目にも将来が光り輝いて見えていた。
資格試験合格と就職祝いとして、先達でもある祥子にも祝われた席での話である。
「いい? これから看護師になるあなたには、肝に銘じて欲しいことがあるの。私たち看護師の目のまえには、二種類の人しかしない。それは医療者と患者さん。親類であってもその目線をおろそかにしてはいけないの」
主はこの頃の祥子を先達として、真に尊敬の目で見ていた。
彼女の言うことは知識だけではなく、現場の経験に基づいた主の先を行く者の金言だ。
一言一句逃がさぬように、心に刻み込むことを心掛けていたものだ。
「そして、最も大事なことなんだけどね……この先あなたが看護師を生業にするなら、避けて通れない葛藤が生まれるの。それは、……親兄弟の死に目には立ち会うことができない。それは覚悟しておかないといけない」
祥子はジッと主の目を見ながら、主の覚悟を問うように言葉を紡ぐ。
「主、あなたが必要とされるのはベッドサイドに立つ看護師になること。あなたが必要とされるということは赤の他人である誰かが苦しんでいる時。あなたが必要とされるのは、赤の他人の家族が悲しんでいる時。その人たちを置いて親兄弟の危機に駆け付けるのは、人として正しくっても看護師としては最低の行為よ。だから、どんなに焦っていても、悲しくっても、怒っていても、……患者さんに寄り添いなさい。最期の瞬間まで。いいわね」
「……はい」
祥子の目に覚悟を決めた主の瞳が映る。
これは決して看護師が誰しも心にしている訓示などではない。祥子が甥に向けてそれぐらいの覚悟をもって仕事に望むのだと言い聞かせたセリフ。……のはずだった。
新人看護師の主は、それを馬鹿正直に体現しようと奮闘したのだ。
仕事が追い付かず、思わず廊下を走り先輩看護師に怒鳴られても患者の前では何でもない風を装い、仕事を覚えるため、はたまた患者の病気を理解するために徹夜を続けていても、ベッドサイドでは笑顔を張り付け働いていた。
そんなことをしていれば、どんどん心はすり減っていく。だがそれでもベッドサイドでは笑顔を求められる。
そんなすり減っていく主の心のケアになっていたのは、アイドルの高橋悠理だった。
ステージの上で輝く彼女を追いかけることだけが、摩耗していく主の心をどうにか現実につなぎ留めてくれる。
主に本当の笑顔をもたらしてくれる唯一の存在、それが高橋悠理だったのだ。
「そんな昔からアイドル好きだったんですね」
「ん~、私から言わせれば、主の好きは代替品だと思うけどね」
「……代替品?」
綾の言葉に母は頷く。あの頃のたまに帰ってくる息子を思い出すとそう思わざるを得ないのだ。
主は祥子にもう一つ言い聞かせられた言葉があった。
「祥子にね、こう言われたんだって『セクハラには気を付けなさい』って」
「……セクハラ、ですか」
「そう! 看護師ってやっぱり比率で言えば女性の方が多いでしょ? だから些細なことでも悪い印象植え付けられると大変らしくって。だから先輩後輩関係なく名字にさん付け、プライベートを詮索しないのはもちろん不用意に近づくと免許が無くなるぞって、かなり脅されてね。テレビの中のアイドルならどんなに好きって言っても怒られないでしょ? だからなんじゃないかなって」
「なるほど」
綾は自身の活動を振り返り、納得してしまう。
アイドルにとって好意を寄せられるのは、その活動の本分だ。
だから、ファンサービスとしてアイドル側もファンに対して『好き』だと何度も繰り返し発言する。
もっと自分を見て欲しいと、もっと自分を知ってほしいと呼びかける。
それにより不都合を生じた前例があったとしても、アイドルたちはそれを止めることはない。
母親から見た主の『好き』は、それに乗ることで満たされない何かを消化していたのではないかと思わせていた。
せっかくとった看護師免許と看護師という職業。それを失わないためにアイドルを利用していたのではないかと。
「でも、自分たちでサークルまで立ち上げたんですよね?」
「そうなの!! それがあんなことになるなんてね」
高橋悠理の私設ファンサークル。社会人だけの集まりなのにそれなりの規模を誇っていたが、特に何をするわけではなくただ高橋悠理の魅力を語り合うだけの飲み友達の集まり。
たまにコンサートなどのイベント現場で顔を合わせては、あいさつする程度のきわめて浅い付き合いの集団だった。
しかし何度も顔を合わせていれば、なんとなく仲間意識はできるものだし、その人物が他の集団に絡まれていれば、自然と助けてしまうのが他者とのつながりというものだ。
「そのせいで、本当に免許失効しそうになるんだから。……息子ながら馬鹿としか」
「でもでもっ! そのお陰で私もアイドルになれましたし!」
「そうね、因果って言うのは恐ろしいものよね」
もしもあの乱闘騒ぎが無ければ、もし乱闘騒ぎを理由にクビにならなければ、祥子が主を立ちなおさせるために自分の勤める病院に呼ばなければ、多分どれか一つでもなければこうして新しい家族を迎え入れることは無かったのだろう。
ならば、あの騒ぎにも意味はあったのだと想うしかない。
そう想いながら弥恵は、娘との語らいを続けるのだった。




