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百九十ニ話

「@滴くん。この後は?」

「あ~、素直に怒られてこようかと」

「じゃあ、これ使って」

 安本が差し出した幾枚かの紙幣。

「これは?」

「祝勝会にしろ、残念会にしろ必要だろ?」

「彼女たち遠慮するんじゃ……」

 安本が出したお金でなんて言えば、アイドルでなくとも畏れ多いと遠慮するのが普通の反応だ。

 安本もそれを分かっているのだろう。優しく微笑みながら紙幣を主に握らせる。

「僕からじゃなく、君からでいいさ。アウェーに飛び込んだ彼女たちを慰めてやってくれないかな?」

「……はぁ、わかりました。今回は内緒にしておきますね」

「ああ、頼むよ。……これは大きな借りだね。これに関しては僕の取り分なしで良いから」

 安本は主が書き上げたばかりの歌詞を持ってヒラヒラと振る。

「えっ!? それは困りますよ! 向こうのレーベルもよろしく言ってくれって!」

「いや、それは君を通して僕に繋がり持とうとする作戦だから遠慮しておくよ」

 安本は歌詞を書いた紙を主に押し付けると、それ以上は何も聞かないからねと背を向ける。

「さ、行きたまえ。娘と妹が待っているんだろ?」

 主はただ頭を下げて部屋を出ていく。報われない助力を与えてくれた安本に、いつか借りを返す時のために。


 ◇ ◇ ◇


「先生ってさ、変わってるよね」

「先生って、どっちの?」

「@滴先生。英美里はみたことある? 先生が怒ってるとことか、泣いてるとこ」

 かすみそう25の新曲『隣のあなたに』のレッスン中に二期生の宇井江梨香ういえりかが不意にそんなことを言い始める。二期生が何かをきっかけにレッスン中におしゃべりを始めるのはいつもの光景だ。

 だが、江梨香が@滴主水について何かを口にするのは、珍しい。

 いつも彼女はまるで男性を認識していないかのように、ファンを語るときも女性ファンのことだけを口にする。スタッフも名前は認識しているようだが、率先して話題に出すことはない。

 そんな彼女が、男性である@滴主水の話題を口にしたのだ。


 江梨香の言葉にレッスン場の時間が止まる。

「なに?」

「い、いやさ、珍しいなぁ~って。……江梨香が男の人こと話すの」

「そう? それよりさ、見たことある? @滴先生が怒ってるとことか、泣いてるとこ」

 周囲の驚きを無視するように話を続ける江梨香に押しきられるように、英美里は自身の記憶をたどり始める。

「ん~、ない……かな」

「だよね! 先輩たちに聞いても見たことないって! スゴくない!? そんな男の人初めて見たからさ、信じられなくって!」

 英美里に同意を得られたと、一気にテンションを上げる江梨香。今まで見たこともないメンバーの一面に、周りが凍りついている。


 しかしそんなことを関係がないと、今度は@滴主水の義理の妹に話を振っていく。

「綾ちゃんはさ、見たことないの? 仕事以外でも会ってるんでしょ?」

 比較的絡みの少ないメンバーの江梨香に振られて、少し大げさに驚く綾に楽屋中の視線が集まる。

「は、はい! あの……えっと、家に来るときもありますけど、……怒ったり、泣いたりは……見たことない、です」

 綾の頭に浮かぶ家での主の様子は、妹の玲と一緒に遊ぶ姿が多い。それに対する嫉妬で義父が主にキツく当たっていることが常だ。

 確かに言われてみれば、主が感情を露にしている姿は見たことがない。

「そうなんだ! やっぱさ、変わってる。実はロボットなんじゃないかな?」

 江梨香の発言に、そんなことあるかと皆の視線が一瞬だけ集まる。そしてみんなは何故か安堵したように江梨香から視線を外して、自分の作業へと戻っていく。

 江梨香は変わらず江梨香なんだと、彼女の視線には相変わらず女の子しか映っていなかったんだと。

 たまたまロボットか珍獣に視線を動かすぐらいは誤差の範疇だと、メンバーは頭の中の江梨香に新しい項目を書き足すのだった。


 綾も緊張を解いて江梨香から視線を外すと、隣にいた小飼悠那こがいゆうなが江梨香に理解を示すようなことを言い出す。

「でも、わかるなぁ。男の人って結構怖いイメージだからさ。@滴先生は、なんかそういうのからかけ離れたイメージなんだよね。普通じゃないって感じじゃなく、……一般的じゃない。……みたいな」

 結構いい感じの表現が出来たんじゃないかと、同意を求める表情で綾をみる悠那。そして思い出したかのように一般的ではない男の妹に頭を下げるのだった。

「いいから、怒ってないよ。……なんとなくわかるし、言いたいこと」

 確かに変わった人物だと、義理の妹でさえ思ってしまう。


 ◇ ◇ ◇


「……なんてことがあったんですよね」

 綾はメンバーたちと有ったことを義理の母に話してしまう。元々の実家を風通しするからと、一家総出で神奈川に戻り、たまたま親娘二人っきりの語らいの時間に。

 義理の娘の話を聞いて、母は腹を抱えて笑っている。我が子ながらなんて不憫な評価なんだと、机を叩きながら涙を流しながら笑っている。

「……っあ~! 可笑しい! 一年も一緒に仕事しといてその距離感! ホントあの子らしいわぁ~!」

「そうなんですか?」

「そうなの! 主は前の職場でも滅多に馴染むことないって祥子も言ってたのよ! なんか、洗脳が上手く行きすぎたって」

 物騒なことを言い出した母に、若干引いてしまう綾だったが、思えば両親から主の話を聞いたことがない。

「あのっ! その話……詳しく聞いていいですか?」

 自分達が出会う前、かすみそう25はおろか、はなみずき25も産声を上げる前の主の話。

 義理の娘に、未だ敬語を使われて少しだけ寂しく思っている母の弥恵は間をたっぷり取って話し始める。せっかく忙しい娘との何気ない時間だから。

 主が後でいい顔をしないことは予想できるが、犠牲になってねと想いながら。

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