百六十七話
主が怒りのまま階段を駆け下りた頃には、スタッフの半数は撤収作業に入っていた。
主を撮っていたカメラが、本間のところに駆け寄り素材を見せるとMC陣とスタッフは大爆笑に包まれる。
そして、本間は主に近寄り満面の笑みで言い放つ。
「先生! 最っっ高の画ですよ!! あの吠えてるところエンディングに差し込んでおきますね」
疲れ果てた主は、もう騙されたことなどどうでもいいという境地まで達していた。
少しでも番組に貢献できたなら、自分が走ったことに意味はあったのだろうと思うことにした。
「笑ってくれたなら、もうどうでもいいです」
そんな収録外の言葉さえも、番組のエンディング流されるとは予想もしていない主だが、もうカメラも気にする余裕もないほどで、起き上がることさえ億劫だ。
前回の20,000メートルリレーの時も同じだったと思い出す。
あの時も疲れ果てて、起きることすら面倒だった。
そして、あの時と同じ主を起こしにやってくるメンバーが二人。
「先生、撤収だって」
「先生、風邪ひきますよ。起きてください」
美祢と花菜が、主が冷えないようにタオルをかけにやってきてくれた。
なんとなく懐かしい光景だと、主は少しだけその風景に入り浸る。
自分は頑張っているこの娘たちの一助となることができたのだろうか?
自分の存在が、この娘たちになにか貢献できているのだうか?
いや、こうして来てくれているのだから無駄ではないはずだと言い聞かせる。
でないと、彼女たちのそばにいてはいけないのだから。
二人の伸ばしてくれている手を取ることもできない。
もう少しだけ、彼女たちと共にいたい。
そう思えるようになったのは、いつからだろうか?
自分が少しだけ変わってきていることに驚きながらも、前回と同じように二人の手を取って起き上がる。
「美祢ちゃん、花菜ちゃん、二人ともありがとう。さあ、帰ろう」
起き上がる気力もなかったが、二人の助けを受けてようやく起き上がる主。
そこに未だに笑いの余韻を残したMC陣が顔を見せる。
「いや、先生! 最高だったよ!!」
「よく気が付いたね、先生! ナイスコメント!」
「段々と僕の扱い雑になってません?」
「階段だけに、段々と?」
「ダジャレじゃないです! もう……まあ、いいですけど」
さっきの想いを思い出すと、怒る気にもならず騙されたことなどどうでもよくなる。
彼等笑いのプロに笑ってもらえるなら、彼女たちの番組に貢献できているという証左だ。
そう思えば、彼らにも両番組の作家にも怒りなどありはしない。
主は美祢と花菜をMC陣に託して、元の自分の服に着替えるために残されたテントに入っていく。
そんな主を見送る山賀が、少し不満そうにつぶやく。
「ちょっと……やりすぎかな」
「山賀さん?」
「おお、なんでもないよ……賀來村ちゃん。……そう言えば賀來村ちゃんって長いなぁ」
「え? 何ですか、今更」
山賀が美祢の呼びかたに引っかかりを見せる姿に、美祢は少しいぶかしむ。
もうすぐ、番組も1年経とうというのに今更名字がどうのと言われるのは、時間が経ちすぎている。
「あ、それ俺も思ってたんですよ。……美祢にするか」
「片桐さんまで、今のままでいいですよ」
「おいおい、そんな寂しいこと言うなよ! 美祢ちゃん」
「そうだよ! 美祢。距離とろうとするなよ、寂しいじゃんか! なあ? 花菜もそう思うだろ?」
「え!? なんで私も呼び捨て? 私も今までのでいいです」
「様付けがいいとか、どんだけ女王様なんだよ」
もう! せっかく先生に呼び方変えてと言ったその日に周りまで変わったら特別感が無くなるじゃないか! 花菜はそう言えずに何とか特別感を守ろうと必死になる。
しかし美祢はあきらめたように渋々了承する。
「もう好きに呼んでください。それにしても……二組揃うと悪ガキ感が増しますねっ!」
美祢は舌を出しながらそう言い残して、自分の帰り支度をしに戻っていく。
悪態をつきつつも、美祢は少しだけ良かったと思うのだった。
周囲のスタッフ・関係者を含めて美祢を名前で呼ぶ人物は限られている。
特に近しい空気感を隠せない主以外にも、名前で呼ぶ人物が増えれば花菜が感じてるように特別感は薄れてしまうだろう。
だがその特別感が薄れるというのは、主が特別なんだという空気も薄めてくれる。
きっと、アリクイと糸ようじも青色千号も自分たちを守ってくれようと、色々考えてくれた結果なのだろう。
だから少しだけ残念でも、仕方がない。
彼らが自分を守るというのは、廻りまわって主を守ることにもなるのだから。
拗ねて見せたのは、半分は演技だ。
彼らの想いを無駄にしないため。
彼らにそのことを気づかせないため。
自分たちは本当に優しい大人たちに見守られているのだと、美祢は心の中で感謝を惜しみない感謝を二組の大人たちに贈るのだった。




