百六十話
ももが逃げ込んだのは、菜月や美祢と同じ屋上だった。普段は立ち入らないスタジオの屋上。
一人になりたいと逃げ込んだ、ももが把握していない場所。
そんな場所にも誰かはいるものだ。
「お、ももじゃないか。どうしたんだい?」
「……凛さん!」
ももは雨宮を認識すると、その胸に飛び込む。
10代前半で親元を離れているのももにとって、雨宮のさっぱりとした態度は母を思い出させる人だ。そんな雨宮にすがってしまうももは、アイドルではなく年相応の少女に戻っていた。
泣きながらことの経緯を話すももを、黙って背中をさすりながら、あやすように相づちを打つ雨宮。
それでもももの感情の高ぶりは止まらず、涙声で、もも本人ですら言わなくていいと思っていた感情が吹き出ていってしまう。
「……ズルい! 美祢はズルいよ!! あんなに急に上手くなるなんてっ!」
その言葉を聞いた凜は、反射的ともとれる行動に出る。
パシッ! と、乾いた音がももの耳に響く。
何をされたのだろうか? わからないが、ほほがジンジンと熱を発し始めたのはわかる。
とっさに抑えた頬が、痛みを伝えてきたのはその直後からだ。
そこに来てようやく理解が追い付いて来る。
自分が凜に叩かれたのだと。
だが、何故だ?
あの優しいはずの凜が、母親のような凜が、自分を叩くなんて。
そして、自分を見る凜の眼が厳しいものになっていることには、全く理解が追い付かない。
「もも、あんたは本当にあの子が、美祢がズルをしたと思ってるのかい?」
ももは、答えることができなかった。
本当はそんなことがあるわけはない。
少なくとも、ももの知るダンスというものは、すべてがそこまで積み上げてきた経験から生まれるものだ。鏡に向かった時間や、ファンに向かい合った時間。それらが、次のステージでのダンスを造り上げる。
ももの現状が美祢に劣っているのならばももの理論では、その積み上げたものがももより美祢のほうが高い。ただそれだけのはず。
それだけのはずなのに、今ももは美祢に負けているという事実に向き合えない。
デビュー時から、ももがそれまで積み上げてきたダンスは、美祢を追いつけないまで離していた。
だが、どこで追いつかれ追い抜かれたのか、ももはそれを考えるのを放棄していた。
認めることができなかった。
基礎を教え、高みから見下ろしていたと思っていた相手が、自分よりも早く高みへと昇っていくという事実を。
美祢の努力が、自分を上回っているという事実を。
それに気が付かせてくれた凜の一撃に、ももの涙が止まらない。
そう、どこかではももも気がついてはいたのだ。
美祢が鏡に向かっていた時間、自分は学校の友達やメンバーと遊んでいたこともあった。
気が乗らないという理由で、レッスン場から一番に出ていくこともあった。
その間、美祢がはなみずき25とかすみそう25の活動の合間を縫って自主的にレッスンをしていたことも知っていた。
全国ツアーのステージ終わりに、医務室に運ばれたことも、その後もステージ裏のひっそりとした場所で一人膝をついていたことも知っている。
美祢は、自分を追い抜けるほどの努力をしていたことを知っていた。
だが、それを見ないこととして処理するしかなかった。
自分に同じことができるとは思っていなかったから。
だから、見てはいけないと、記憶に残してはいけないと思うしかなかった。
オーディション組という絆が、壊れてしまうような気がして。美祢とどんな顔をして話せばいいのかわからなかったから。
だが、常に自分が上に居ないといけない関係が、仲間であるはずがない。
それをかすみそう25のメンバーが、示していた。
美祢を支えるそのために、彼女たちが何をしていたのか。
夢乃伝えに、ももは聞いている。
そして、それを知った美祢が、彼女たちに応えるようにレッスンをしていたのも聞いていた。
仲間を信じて、互いを高め合う。
それこそが、仲間のはずだ。
少なくとも、ももの読んでいる漫画や小説、教科書にも書いてある。
じゃあ、自分は? ももと美祢の関係は?
オーディション組として、ファンに見向きもされなかった時間。絶対にこちらを向かせるんだと、オーディション組だけで集まってお互いのパフォーマンスを少しでも改善しようとしていたあの時間は、間違いなく仲間だっただろう。
だが、菜月が注目され、ももが注目されるようになってからは、どうだっただろうか?
年上の美祢が、うなだれていた姿を見たあの時は?
下を向いて流れる涙を止めようともしないももを見て、凜はしかたがない子だと笑い、甘いとわかっていながらヒントを与える。
「いいかい、もも。あんたのレッスンシューズ、お気に入りだって言ってたあの靴。まだ履いているね?」
凜の言葉に、力なく頷くもも。
「あれを下ろしたのが、3か月前だ。だけどね、美祢は3週間に1足履きつぶしてるよ。それがどういう意味か分かるね?」
ももは、涙を流しながらも目を見開いて驚くしかなかった。
「そのうちあの子、地下足袋持ち出すんじゃないかって心配になるよ」
ももは地下足袋が何かはわからないが、今使っている練習用の靴より安いものを探しているだろうことはわかった。
そんなことをされたら、もう美祢には追い付けないかもしれない。
思わず泣き顔のまま、凜を見てしまうもも。
「もう何をすればいいか、わかったね?」
「うん!」
ももは、涙で落ちかけているメイクを気にする様子もなく、衣装の袖で涙を拭きとって走り出す。
「あっ! こら! 衣装汚すんじゃないよ!! ……まったく、うちの子供たちは手がかかるんだから」
そう笑い、凜はようやく懐にしまっていたタバコに火をつけるのだった。




