百四十五話
逃亡先のレッスン場から会議室へと帰ると、主は用意された楽曲を聞き続けた。
音楽的センスのない主には、これがなんというジャンルの音源なのかもわからない。
だが、ただ聞き続けた。
そしていったん音を消し去り、先ほどの公佳の寝顔を思い出す。
満足そうな、出来ることはすべてやったぞと言わんばかりのあの寝顔。
そして綾と何か競い合っていたという、不確かな情報を頭の中の公佳の寝顔に張り付ける。
その時だけは、綾は自分の義妹ではなく登場人物として考える。
見えてきた物語を、とりあえず文字数など考えずに指の動くところまで打ち込んでいく。
出来上がった短編を、音源を聞きながら読み返す。
不必要に感じる言葉を鉛筆で削ぎ落し、思い返して付けたし、またそぎ落としていく。
時間を忘れて、ただ公佳の寝顔と自分の書いた短編の齟齬にだけ没頭していく。
何度も何度も、同じ動作を繰り返す。
いつかの美祢の様に。ただひたすらに。
「これで、どうかな?」
音と言葉を丹念に数え、譜割りにあっているかを確認していく主。
合わないところは、同義語を入念にさらっていく。
不意に、主の動きが止まる。
机に落ちたかと思うと、手にしていた紙を床に落とす。
「大将、先生の様子はどうですか?」
「ん? ああ、終わったのかもね」
いつのまにか入室していた安本に、立木が確認を取りに来た。
時計を見れば、もう事務所を閉める時間を過ぎている。
安本は、音をたてないように主に近付き、床に落ちた紙を拾い上げる。
「ふふふ、なるほど。いいじゃないか」
「出来たんですか?」
「ああ」
そう言って安本は紙を立木へと渡す。
立木は手にした紙に目を落とす。
そこに書いてあるのは、辛うじて日本語とわかるようなお世辞にも綺麗とはいいがたい、文字の羅列。
乱筆というにもあまりにも乱筆だ。
だが、その文字から伝わってくる熱量はすさまじいものがある。
主を起こさないように、音源を流すと立木は音に合わせてその文字群を追い始める。
それは、ただ走り続ける主人公の物語。
自分にとって大事な何かに向かって走る少女の物語。誰のためでもない、自分だけの心に秘めた一番星へと手を伸ばす。
馬鹿だ、愚かだと言われようとも少女は、その手を伸ばすのをやめない。
ただ真っ直ぐに、自分の目標へと。
道を阻む誰かを押し退け、今日進めるだけ一歩でも先へと。
褒められなくてもいい。称賛なんか要らない。それに耳を傾けるエネルギーさえも推進力に変えて、少女はゆく。
心に広がる荒野を。
ただ一番星へと。
「@滴先生の主人公にしては、ひどく真っ直ぐ過ぎるような……」
「いや、結局彼もこうありたいと願っているのかも知れないね。言い訳がカッコ悪いと気が付いているのかな」
安本の目が優しい。立木は思った。
いつも通り、いや、いつも以上に優しい視線を@滴主水に向けている。
@滴主水に作詞をさせるように指示を受けたときは、何を考えているのかと目を疑ってしまった。
今でも、彼が安本のアイドルの歌に作詞をすることに、抵抗感を感じている自分がいる。
だが、安本は言った。『自分も人間』なんだと。
人は等しく死を迎えるもの。
安本の年齢であれば、後継を育てておく必要性も感じるだろう。しかし、本当にそんなものが必要なのかと思うぐらい、最近は仕事をこなしていた。
もし、あの時@滴主水ではなく、自分に作詞をさせて欲しいと、自分を後継者として欲しいと言えたなら。
いや、言えはしなかっただろう。
大作詞家、安本源次郎の後継者にして欲しいなど大それたことが、自分に言えるわけがなかった。
間近で安本を見ていたからこそ、言えるわけがなかった。
変わろうと、自分の生き様を変えてみようと思った今でさえ、そんなことは言えはしない。
安本を大将と掲げた過去の自分を責めることはしない。だが、その重さをわかっていただろうか?
立木は自嘲気味に、頭を振る。
渋谷夢乃に笑われたのを思い出す。
そうだ、確かに後悔するかしないかなんて、先のことはわかるわけがない。
だからこそ、脇目も振らず走り続けるこの少女が眩しく映るのだろう。
「大将、大将ならこの歌のタイトル、なんて付けますか?」
「そうだな、今すぐ光る歌かと言われたらそうじゃないんだ。思い返して何かを感じるんだろうな。……皮肉を込めて『あの時の私』とかかな」
安本は立木を見て、お前なら? と視線で問いかける。
「そうですね、歌詞の一番星に掛けて。……『スタートライン』じゃないでしょうか?」
「おいおい、ダジャレか? しかもそれだと……」
立木は安本に応えるように笑う。
「ええ、大将の『On Your Mark』に対抗してってのもあるかも知れませんね」
はなみずき25のファーストアルバム表題曲『On Your Mark』は、今手にしていたモノ全てを捨ててでも走り出す決意をした少女が主人公。
後ろ髪を引かれながらも、走り出すことを決めた少女の歌だ。
似ているようで、決定的に違うものがある。
主の描いた少女は、そんな後悔も感じる暇など無く走っている。そこには、微塵の暗さなどあるわけが無かった。
「面白いことを言う。ま、本人を起こしてからゆっくりと聞こうじゃないか」
安本は笑いながらも主を起こし、時計を確認させる。
慌ただしく頭を下げ、机の上の物をカバンに投げ込んでいる主に問いかける。
「@滴くん、この歌詞のタイトル考えてるかい?」
「あ、……え~っと――」
主の答えを聞いた安本は、立木の肩を叩き腹の底から笑うのだった。




