百四十一話
「いやぁ~。本当にすごい」
「本当ですね、……これ見せたらお義父さんも喜んでくれますね!!」
主と綾はようやく奥野恵美子の衝撃から脱出できた。
その衝撃に圧倒されただけの主と、義父の喜ぶ顔を想像した綾。
そんな空気から隔絶された美祢は、一人何も映っていない画面から目を離せなかった。
「そうだね。……そう言えば美祢ちゃん? 何か用?」
「……」
主の問いかけにも反応しない美祢。
聞こえてなかったかなと、もう一度美祢へ呼びかけを行う。
「美祢ちゃん?」
「……っああ! そうだ! 綾ちゃん、レッスン!」
まるで再起動したかのうような美祢の反応に驚きながらも、レッスンが控えていることを忘れていた主は顔を覆い隠す。
「ああ、そうでした! 先輩ごめんなさい!」
綾は自分のスケジュールを忘れて没頭していたことに恥ずかしさと、先輩を、よりにもよって美祢を呼びに来させてしまった申し訳なさで何度も頭を下げる。
「大丈夫、いこう!」
「はい!」
美祢はあたまを下げ続ける綾の手を引いて、走り出す。
「頑張ってね!」
主はそんな二人の背中に、激励を送ることしかできない。
義兄であろうと、ここからはアイドルの時間だ。
「はい!」
二人は主の声に返事をしながら走り去っていった。
◇ ◇ ◇
その日、かすみそう25のレッスンを担当していた本多は困惑していた。
今レッスンしているのは、かすみそう25のファーストシングル『走り出さなきゃ見えない』のフォーメーションの微調整をするためだ。
ライブで披露したダンスから少しだけブラッシュアップしただけだが、その違いを指摘しておかないと別の作品になってしまう。
イメージを伝え、細部にまでこだわらせることで他人が見て初めて訴えることができる。
たかが微調整、されど微調整。
だが、遅れてレッスン場に現れた二人。賀來村美祢と佐川綾の二人が本多を大いに困惑させていた。
賀來村美祢が何かを感じ、自分なりの表現を盛り込むことは理解ができる。
4年目とは言え、プロとしてアイドルをしている経験がある。本多の言葉に何かを読み取り表現が変わることはこれまでもあった。
しかし、たった1ステージしか経験のない佐川綾のこの表現力は何だ?
細部も細部、視線の置き方にまで意識を持っていくではないか。
合宿では、そこまで優秀な新人ではなかったはず。
確かに10代の少女が何かをきっかけに飛躍することはよくあること。そこに驚きはない。
だがそれは、ある程度の経験があってこそなのだ。
まるで、あの娘。本多の思い出の中の少女のようだ。
驚きながらも佐川綾から視線を外せば、そこに賀來村美祢がいる。
こちらもこちらで、奥野恵美子を思い出させる。
すべての視線を釘付けにする引力のような魅力、その一端が垣間見えている。
部下のダンサーも賀來村美祢しか見ていない。
自分に割り当てられたメンバーの姿が目に入っていない。
そこまで来ると、一緒に踊っているメンバーにも影響が出てくる。
今までリズムに乗っていたメンバーも、段々と視界に映る美祢に目を奪われリズムから降り始める。
そう、外れるのではない。無意識に降りていくのだ。
踊っているのはもう、佐川綾と賀來村美祢の二人だけ。
しかも厄介なのは、矢作智里が見惚れていることだ。
彼女が見惚れているということは、アレはアイドルとして踊れているということ。
アイドルの本分を忘れていない、かつ同じステージにいる同業者をも魅了する。
さて困ったぞと、本多は思う。
以前もこれに近い状況はあった。
その時は、ただダンスに異常に集中してしまい、アイドルの本分を忘れていた。
だからこそ、アイドルになれと注意ができた。
しかし、今回は違う。
仮に賀來村美祢を注意するにしても、実力のないものに合わせるように注意しないといけない。
そんなのは優しさでもない、甘さ以下の最低な行為だ。
賀來村美祢がソロであったなら、そのまま伸ばしてしまいたい欲求にかられる。
だが、グループではダメだ。ステージ上で、同じ状況になったなら……。
そんな思案をしていたら曲が終わり、本多を現実に引き戻す。
なにも思いつかないまま。
「あ~、……賀來村、佐川。よかったぞ…………」
「すみません、ボス。もう一度アタマからお願いします」
肩で息をしながら、賀來村美祢が再度の通しを願い出てきた。
どうする? また同じ状況になったらさすがの本多でも何も言えなくなるだろう。
難しい顔の本多に、美祢が大丈夫ですとほほ笑む。
はぁと一息落すと、本多は美祢の要求通りアタマからの通しを通達する。
部下たちにも、気をしっかり持てと激励の視線を向けながら。
またも本多は驚愕する。
佐川綾はさっきと同じ、アイドルとして細部にまで意識したダンスを繰り返す。
しかし賀來村美祢は違った。
要所要所で、漏れ出たように先ほどの魅力が見える。
しかし、それ以外は何時も通りの賀來村美祢だ。
あの感覚を自在に出し入れできるとでもいうのか?
同じステージに立つメンバーに影響が出ない程度に、自分なりのアレンジを加えている。
以前、本多は美祢と智里を月と太陽に例えた。
人数が多ければ、役割として前に出る者、陰で支える者と自然と別れるものだ。
そして月は美祢だ。闇夜を照らし導く淡い光。それが美祢だと思っていた。
今でもそれは間違っていないと、……本多は思う。
だが、思い出した。
月は人を惑わすとも言われている。
そんな一面が、美祢にもあるのかもしれないと本多の背に冷たい汗が流れる。




