百二十話
ライブが始まり、少したった頃。出番の関係で楽屋には美祢と花菜だけの時間が生じた。
幼馴染みで親友で、恋敵な微妙な関係の二人が。
「美祢! アレ取って」
「は~い、花菜? あれどこ?」
「あ、ここだ。ほい!」
「ちょっと! 投げないで」
とは言っても、恋敵よりも幼馴染みと親友の時間のほうが長い二人の関係がそんなに急激に変化することはなかった。
だが、確実に変化は生じている。二人をよく知るメンバーやスタッフでも感じとることのできない僅かな違い。それは、二人が二人ともお互いの眼を見る時間が短くなっているという事実だ。
付き合いの長さから、顔を見なくとも何を言わんとするかを予測出来る二人の関係だからこそ、周囲に気づかせないでいられる。いつも通り顔を見てしまえば、お互いが主に対して何を想っているのかを知れてしまう。
花菜は宣言したからこそ、美祢は隠しているからこそ、知られたくはない心の内というものが生じていたのだ。
だが二人とも、まだまだアイドルを辞めるつもりもなく、お互いに主と自分を繋ぐ秘密のアイテムを手にしている。
そんなに焦らなくとも、なんとなく満足感が心を満たしているのだ。
そうは想っても花菜自身は少しだけ反省の意味も込めて、努めていつも通りを心掛けてもいる。
少し、自分でも主の事となると冷静さに欠く言動が最近目立つ。
主に不意打ちのキスをしたのもそう、あの時美祢に勝ちたくて無茶をしたのもそうだ。
ケガでもしたらあの人にも呆れられてしまうかもしれない。……お姫様抱っこをしてもらえるなら多少はありかな?
そんなことを考えていたら、鏡に映る顔が紅く染まっていくではないか。
ダメだ。今はライブに集中しないと。
美祢には見られないように顔を振り、少しでも顔のほてりをとることに勤める。
花菜が雑念を払うために、席を立つと美祢から意外そうな声がかかる。
「花菜? 足ゲガしてるの?」
なんのことだろうか? まったく覚えのない指摘に花菜は疑問符を浮かべる。
全く違和感も痛みもない自分に、美祢が何を言っているのかと。
「どこも。ほら!」
そう言って花菜は片足ずつターンを見せる。
いつも通りの身体の動き。一切の違和感すらない、万全のコンディションだと、花菜は平気な顔を見せる。全然大丈夫、おそらく美祢がそう見えた原因は自分ではないだろう。
「美祢こそ疲れてるんじゃない? そんな勘違いするなんて」
「そうかな? ううん、疲れてないよ! 大丈夫」
「かすみそう25のステージでミスしてもいいけど、こっちは辞めてよね」
「もう! だから疲れてないよ!」
親友とはありがたいものだと、花菜は思う。
こんなたわいもない会話で、さっきまでの変な高揚感はどこかに行ってしまった。
「絶対に話題になるライブなんだから、しっかりね。美祢」
「そっちこそ、ヘマしないでよ花菜」
このツアーで一番の話題は、自分ではない。二つのステージをこなす美祢が話題になるのだろう。
それはしかたがない。だが、ツアー後の話題は渡すとしても、ツアー中のファンの注目は渡すつもりはない。
美祢と別れ、花菜は自分のステージへと走り出す。
ふと、美祢は主の顔を思い出す。
あの自罰の時に見せる、消えてしまいそうな力のない笑顔を。
「……花菜?」
颯爽と駆けていく花菜の背中は、美祢がよく見ていた力強いセンターの背中だった。
気のせいだよね。美祢はそう思い込むように努力して胸の中のざわめきを抑え込む。
それなのに、なぜだろう?
いつもは力を与えてくれる胸の金属の感触が、今は不安を煽っているかのように感じてしまう。
ギュっとネックレスを握り、必死に大丈夫だと自分に言い聞かせる。
美祢はもう一度、花菜の背中に目を向ける。
なぜだろう。花菜の背中がいつもより遠くに見えるのは。まるで置いて行かれたような気分になるのはなぜだろう。
「やっぱり、……疲れてるのかな」
後年、この二人はこの瞬間を後悔することになる。
もし、この会話を誰かが聞いていたら。もしこの場に主がいたなら。もっとお互いの顔を見ていたら。
もしかしたら、運命は変わっていたのかもしれない。いや、運命ではなくもっと何かが変わっていたのかもしれない。
だが、そんな後悔など結局は結果を見たから言える後出しなのだ。
人生の道しるべは、通り過ぎたあとにうっすらと見えるだけの欠陥品なのだから。
そんなものに頼ったところで、後悔することに変わりはないのだ。
人ができること範囲など、今をどうにかすることしかできないのだから。
それを知ってか知らずか、美祢は自分の頬を叩き不安を強制排除して走り出す。
親友と同じように。
自分を待っていてくれる、ファンの待つステージを目指して。
舞台の袖ですれ違った智里が、美祢の顔を見てすれ違いざまに一言残していく。
「美祢さん、笑顔ですよ」
智里の指摘で、美祢は自分の中の不安が完全に排除できていなかったのを知る。
「大丈夫!」
走り去る智里に届くように、美祢は大きく声を出す。
一緒に心の不安を吐きだしてしまう。
そう大丈夫だ。
今はそう思うしか、手立てはなのだから。




