百十五話
「あんた、根清中の佐川だよな?」
「大先生は、どこ中か気になる人種の方なんですか?」
「じゃあ、武相台高校の佐川か?」
「……そうですよ」
中本の問いに若干の呆れを隠さず答える主、主の答えに自分の知っている佐川主であることを喜んでいる中本。二人の周囲にだけ異様な空気が流れていた。
中盤での二人の対峙を、観客たちも見守っている。
「なんで、プロに行かなかった?」
「そんなのこの身長みれば、一目瞭然じゃないですか?」
「あんたなら出来た!」
悔しそうな表情で、仲本が叫ぶ。それを驚いたように眺めてしまう主。さっき触れ合った短い時間でも中本の性格はつかんでいたと思っていた主。しかし、中本から格下の自分をほめるような言葉を聞くとは思っていなかったのだ。
言葉を交わしていた二人に向かって、主のチームから山なりのボールが飛んでくる。
「……自信がなかったんですよ。サッカーに人生をかけられるほど好きなのかなって」
落下点にいち早く駆け込んだのは、主だった。それを追うように中本が走りこんでくる。
急ブレーキをかけて、主は中本に背中を預ける。思わず主を支える形になってしまう中本に主は声をかける。
「でも、君も行かなかったんだね。仲本君」
落下したボールにチョコンとつま先を当てると、主のつま先から肩へとボールが駆け上がる。そして仲本の体を軸に半回転して走り去る主。
「なっ!」
主は再び落下したボールを前線へと送り込む。そして自分はサイドへと走りこんでいく。
その後ろ姿は、中本が幼いころの憧れそのままに見えた。
「……ッハハ!」
中本にとっては、この大会自体は接待サッカーのようなものだった。自分を引き抜きたい編集者と自分をとどめたい編集者の戦いであって、自分自身の戦いではないはずだった。
だが、この戦いだけは自分自身の戦いであった。過去の自分と自分の憧れを断ち切る絶好の機会が巡ってきたのだ。
もう巡り合わないと思っていた、もう断ち切ったつもりだった、懐かしい思い出がよみがえる。
誰かが言った。青春時代の苦い思い出も、いつかは甘く感じるのだと。
確かにそうだ。あの懐かしい敗北の想い出も、あの勝利の思い出も、いつしか眺めるだけで甘美なものになっていた。そして、身体から熱が消えていくのを仲本は感じていたのだ。
だが、久しぶりに感じた身体の熱ほど甘美なものは無い。
「なんでプロに行かなかったって? そんなのあんたがいないからだよ!」
中本は一人叫んで、主の背中を追いかける。そこにはただボールを追いかけるサッカー少年の姿があっただけだった。
◇ ◇ ◇
「あ~!! ……っ負けたぁー!」
主はピッチに大の字に寝転んで、チームの敗戦を嘆いていた。しかし、その顔は満開の笑顔だった。
久しぶりのサッカーを満喫し、あの頃の熱を堪能することが出来た。……いや、願わくばもう少しだけ味わっていたかったが、如何せんブランクを感じるこの身体では最後まで走りきることが出来なかった。
「おい、新人」
主が声の方を向けば、レプリカのユニフォームを全身汗まみれにした一つ年下の男が見下ろしている。
「大先生、死体に鞭打つような狭量だったんですね。週刊紙のツテ無いのに……残念」
「おい、やめろ! ……気が向いたら作品読んでやるよ」
それだけ言うと、中本は後ろ手に手を振りながら去っていく。
「それと、いいネタありがとよ」
と、一言残して。
「あ~、こりゃ大敗だぁ~!」
まさか自分との出会いから、中本が小説のネタを拾い上げていたなどとは、主は夢にも思っていなかった。
主はただただサッカーを楽しんでいただけだと言うのに。
「先生ー! ……大丈夫ですか?」
「先生、後半バテすぎ。……起きれる?」
美祢と花菜は心配そうに、主を覗き込む。
息が荒い主だか、その顔は笑顔のままだ。悲壮感など微塵も感じなかった花菜と美祢は、いつかの運動場のように主の手を引いて、無理矢理上体を引き起こす。
「ありがとう、ちゃんと聞こえてたからね」
「?」
「なにが?」
主が試合中の声援に対してお礼を言ったのだが、2人の反応は薄い。まるで主が幻聴に対してお礼を言ったような形となる。
2人にとって主を応援するなど、当たり前すぎてお礼を言われるほど特別なことではなかった。
悲しい食い違いなのだが、気恥ずかしくなった主が、話題を即座に変えてしまったことが何よりの問題だろう。
「あの、……後ろの方はどなたです?」
3人を一歩引いた位置から見ている男をみて、主は2人の知り合いなのかと問う。
「あ、この人はメイクアップアーティストの――」
「ヤスマサ・ザ・シルバーよ」
3人に近寄るヤスマサよりも速く、主が立ち上がりヤスマサの手を強引に両手で握り、上下する。
握手会の会場なら、一発出禁もあり得る危険な行為だ。
「シルバー先生! 御著書の『化粧の変遷とシャーマニズムとの関連性』読みました! 御会いできて光栄です!!」
さっきまで、息を整えることに苦労していた男の行動とは思えないぐらい俊敏な動きに、ヤスマサは目を丸くし、花菜と美祢は自分たちを置き去りにしてまで握手をされているヤスマサを恨みがましく睨むのだった。




